2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

トラジャル・ハレル『Twenty Looks or Paris is Burning at The Judson Church(XS)』

会期:2012/05/19

森下スタジオ[東京都]

ニューヨークのダウンタウンを中心に活動するトラジャル・ハレルが本作で試みているのは、1960年代のニューヨークでともに活動し、しかし交流することのなかった2つのダンス、ひとつはダウンタウンの「ジャドソン・ダンス・シアター」、ひとつはアップタウンの「ヴォーギング」、これらを舞台上で出会わせてみるというものだ。白人のハイ・アートと黒人中心のクラブ・カルチャーのあり得なかった邂逅をコンセプトにするということも面白いが、XSからXLまでの5種類のヴァリエーションが本作にはあって、しかもタイトルの最後に「(XS)」とあるようにそれを衣服のサイズで表現しているのはとてもユニークだ。ヴォーギングがファッション雑誌『ヴォーグ』の表紙のポーズを真似ることから発展したダンスであるからという点だけではなく、そもそもファッションという第三の要素がハレルの興味のなかに含まれている証拠だろう。最初に、コンセプトを伝える資料が配られ、本人の口頭での作品説明のあと、資料をじっくり読むよう観客に伝えると、ハレルはいったん退場し、一度目は着物姿、二度目はカラフルなエプロン姿で現われ、家庭用の照明スタンドを舞台のあちこちに配置する。やや長いこうした準備の後で、ハレルは虎模様のスエット姿で登場する。照明が暗くよく見えない。舞台に置いたiPhoneからゆったりした音楽が流れると、ハレルはゆっくりと腰をくねらせるような踊りをみせた。暗くてよくわからないのは、恐らく戦略的な仕掛けであり、単にジャドソン系でも、ヴォーギングでもない、どちらかといえば腰のくねりや腕の曲がり方からゲイ的な身体動作の印象が強く残る。少し踊っては上着を一枚ずつ脱いでいくのだが、シャツの変化よりも、脱いで仕切り直したことだけが意味を持つ。準備の場面やシャツの着替えのように多数のフレームを設定し、多様な要素を示唆しながら、ひとつの理解に固定される事態をするするとかわし続ける。最初の作品説明の際、両手でTのジェスチャーをしたら終わりの合図だと言ったとおりに、ハレルがそのポーズを不意にすると真っ暗になり、終演した。そのときの尻切れトンボ感も「かわし」のひとつに思われた。

2012/05/19(土)(木村覚)

プレビュー:東京ELECTROCK STAIRS『最後にあう、ブルー』、東京デスロック『モラトリアム』ほか

6月は、五反田団が「剣豪演劇」と銘打った新作『宮本武蔵』(2012年6月8日~17日@三鷹市芸術文化センター)を上演したり、ダンスでは康本雅子が四年振りの単独公演『絶交わる子、ポンッ』(2012年6月28日~7月1日@シアタートラム)を準備しているなど、見逃せない作品が目白押し(チケットははやめにご予約を)。5月はその分ちょっと少なめ。KENTARO!!の主宰するダンス・グループ、東京ELECTROCK STAIRSの新作『最後にあう、ブルー』(2012年5月10日~20日@こまばアゴラ劇場)は、青春チックなエナジーがどれだけいろいろな青春以外の何かに接続していけるかが見所か。個人的にはダンサーのAokidに期待。ほかには、東京デスロックの『モラトリアム』(2012年5月19日、20日@STスポット)は8時間の上演を二日連続行うという意欲作。東京デスロックのメンバーほか、大谷能生(音楽家)、岩渕貞太(ダンサー)、佐々瞬(現代美術家)の名が出演者としてラインナップされている。近年、異ジャンルの作家たちが順に作品を上演するイベントは多いが、これはどういったことになるのか。上演中は、いつでも入場できるとのこと(再入場は基本的になし)。祭りに遭遇する気分で見に行こうか。

東京ELECTROCK STAIRS「最後にあう、ブルー」PV

2012/04/30(月)(木村覚)

チェルフィッチュ『現在地』

会期:2012/04/20~2012/04/30

KAAT[神奈川県]

「村」に生きる7人の女たちが二、三人ずつ立ち上がってはおしゃべりする。内容は、噂(兆し、予感)を信じるかどうか、何かを信じると選択したあと、自分と異なる選択をした者とどうつきあうべきかなど。明らかにテーマは「3.11以後の日本」。災いが起こるかもしれない、いや起こってしまったかもしれない。その状況に直面しているわけではない女たちが、不安と不信を抱え、出口を得られぬまま生きている。日本は二つに分裂し戦争状態となり、そこから逃れてきた者たちが「村」をつくっているという話も「おとぎばなし」と称して語られる。いつものチェルフィッチュらしいぶらぶらした動作は抑制され、役者たちはほぼ直立状態で姿勢や向きを変えない。ストロープ=ユイレの作品を想起させるそうしたところよりも、さらに印象的だったのは、いつものモノローグ的な台詞が今作ではやや対話的になっているところ。聞き手が「うんうん」と相づちするだけではなく「なぜ?」と問う。とはいえ、問われた本人の心に大きな変化が訪れるわけではなく、だからモノローグ的傾向は相変わらずと言うべきかもしれない。各人は各人のそれらしい理屈をこねては投げる。岡田利規の書いた「それらしい理屈」のさまざまなかたちは、確かに現在の日本のある一定の心の模様を指し示しているとも言えるが、どれもねじくれたへ理屈ばかりとも思わされる。この日本の滅びを遠くから眺める逡巡する女たちを主人公に据えたことは、どんな狙いからか? 家族や恋人との関係はかなり希薄で、孤独な理屈屋たち。そこに岡田は描くべき対象を見た。それは、居を九州に移した岡田本人の心情を、女たちを通して反省するためか。ところで、終始流れ続けるサンガツの音楽と女たちのありようは、とてもよく響き合っていた。音楽というよりギターやシンバルの、音としてのマテリアル性が際立つ。そこには肯定も否定もなく、あるのはちゃんとその音が響いているということだけ。けれども、その意志が貫かれることで、音楽には微かな様式性が漂っていた。舞台もそうで、役者の挙措動作に漂う、微弱な様式性は、全体を引き締め、単調であっても質のある舞台をつくっていた。

チェルフィッチュ『現在地』

2012/04/28(土)(木村覚)

壺中天『大正解』

会期:2012/04/25~2012/04/30

大駱駝艦・壺中天[東京都]

大駱駝艦の壺中天公演はメンバーたちが交替で「振鋳」(振り付け)を行なうことで知られているが、今回は湯山大一郎が初担当。フライヤーには本人のドアップ写真、タイトルの「大正解」が気合いを感じさせる。二時間弱の公演のなかばが過ぎたあたりでわかってきたのは、湯山の狙いが「舞踏をやらないこと」にあるようだという点。冒頭、白塗りの本人が舞台中央で寝そべる。「立てない身体」に、この瞬間は舞踏を予感する。しかしそれは予感で終わる。数秒後、ざわざわと他の踊り手たちがタキシードや怪物的仮面をまとって現われ、ねじ巻き仕掛けのおもちゃのような機械的な動作を一通り展開する。暗転後、舞台に湯山がまた寝ている。その数秒後、同じ音楽とともに他の踊り手たちが再び同じ一連の動作を遂行した。これが計三回。ちょっとしためまいを見る者に起こさせる、ふざけたオープニング。おかしな道に踏み込んだとその後の期待が膨らむが、スローモーションで粘着質的な質の代わりにさらっと軽い、時に武術にも映る運動が続くと、次第に物足りない気持ちにさせられる。それでも中盤、湯山を除いたメンバーたちが、スローな動作も交えながらくんずほぐれずの連鎖的な動きを見せたあたりは、運動にいつもの質が生まれて、見応えを感じることもあった。黒い壁を黒板代わりにアルファベットや物理学の公式らしきものを書いたり、はっきりと意味の通る文を踊り手が口にしたりと、「人間以下」の存在が闊歩するこれまでの壺中天公演ではまず用いられなかった「知的」な要素が舞台に持ち込まれていることにはっとさせられもした。arterroの音楽はそれ自体見事で、とくにギターが抜群によかった(舞台がかすんでしまいそうなほど、その点で言えば「よすぎた」)。しかし、ラストで湯山が1人、爆竹や三角クラッカーを体に巻いて踊るシーンのように、ダンス自体に「質」が生じない分、たんにギミックにすがろうとしているように見えてしまって、残念だった。もしぼくの想定したように「舞踏をやらない」舞踏公演の可能性を湯山が追求しているのだとしても、やっぱり、ダンスの公演は踊りの強さが見所であるべきだ。踊らないことで、踊りの強さに拮抗する高みへ到達するつもりならば、その細道を歩き続けて欲しいけれど、踊りを極めるという真っ当な「正解」ももちろん残っているはずだ。

2012/04/26(木)(木村覚)

岡崎藝術座『アンティゴネ/寝盗られ宗介』

会期:2012/04/19~2012/04/24

STスポット[神奈川県]

ギリシア悲劇(アンティゴネ)とつかこうへいの戯曲(寝盗られ宗介)、異なる作品と言えばまったくそうなのだけれど、確かにどちらも集団と個人の争いが描かれているという意味では共通点があるわけで、主宰の神里雄大らしいそうした主題の設定によって、二つの物語はたくみに併置された。上演時間は80分ほど。両戯曲の一本分よりもおそらく短く、故に「抜粋」がもつ軽妙ささえ感じられて、なんと形容しようか、例えば「啓発的」とでも言いたくなるような作品だった。集団と個人の争いは、主として前半でとりあげられた『アンティゴネ』であれば王による兄の遺体の扱いに歯向かうアンティゴネの抵抗をとおして、主として後半でとりあげられた『寝盗られ宗介』であれば劇団の運営に熱心な夫をよそに劇団員と寝てしまう女優レイ子の奔放さをとおして描かれる。この「集団と個の争い」というテーマ設定は、「3.11以後の日本」の状況に対する神里の思いが反映されているに違いない。ところで「震災以後の日本」とは「震災以後」という「ムード」に支配された空間のことであろう。この「ムード」というものが何か別の流行に容易に置き換えられていきそうなほど、被災地内外の状況とはほとんど無関係に、「軽薄」と言いたくもなる仕方で日本を覆い尽くしている。「震災以後の日本」の問題とはそうしたなかでの「個人」の存立危機のことではないかと本作はぼくたちに耳打ちする。その危機感の訴えは、悲劇だけでも喜劇だけでもきっと不十分で、兄を救う妹の勇敢さと女優の奔放さとの両方を並べることで、ぼくたちが失いかけている何かを神里はまっすぐ指摘しようとした。それにしても印象的だったのは、アンティゴネとレイ子の両方を演じた稲継美保の演技だった。この役者はどちらの演技もできるのかと感動させられた。その役者への感動からさらに、ひとりの人間のうちにどちらの女性性も収まりうるということへと思いはひろがる。紅一点の周りでうろうろする三人の役者たちも秀逸。チェルフィッチュやニブロールのような一定のスタイルを感じるものではない。それぞれ違う質の演技をしているのだが、各人にしっかり存在感がある。この存在感は、演じている者の身体がどんなリズムを感じながらいまそこにいるのかによって、生み出されているようだ。舞台背景に用いられた神里によるものらしい絵画も、そこにきちんと個として存在していて見事だった。

2012/04/23(月)(木村覚)

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