artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

Nibroll『see/saw』

会期:2012/07/20~2012/08/12

ヨコハマ創造都市センター[神奈川県]

中央には白い布に包まれたシーソーが一台。会場は元銀行で歴史的建造物、天井高の重厚な石の空間が広がる。前半は白い衣裳のダンサーたちが、笑顔を湛え、躍動的なダンスを見せる。後半になると一転、黒い衣裳のダンサーたちが大絶叫とともに現われると、陰気な妄想(「ひとは見た目が9割なんだって」「きみはぼくのこと好きだったよね」などの台詞)とともに、彼らはダンスというよりも暴力的なパフォーマンスを次々と展開する。例えば、10人ほどが環をつくって、あたかも駅のホームからひとを突き落とすように、目の前のひとの背中を強く押しそれが連鎖する場面、あるいは「わたしは葬儀屋でバイトしていました」と漏らす女たちが大量の紙くずに混ざった花びらを掃き、ときに宙高く舞い上げる場面。時折、ほとんど無意味に繰り返される、鉄の板を床に叩きつけて大きな音を立てる行為とともに、観客は舞台からひたすら強い圧力をかけられ続ける。前半は明るく、過去への追憶(「ここは彼女が最期に見た海です」「彼はここで鹿と会いました」のような文章とともに、スクリーンには海や森の映像が映される)がまだファンタジーの要素を残していたのとは対照的に、後半は暗く、そうしたファンタジーとは無縁で、ただただ強烈だ。白(前半)から黒(後半)への変化は、花とその腐敗というモチーフを浮かび上がらせる。葬儀で用いられた花々がその後ゴミとして扱われてしまう、そうした表現が提示するのは、時間の経過が引き起こす価値あるものの汚物化だ。こうした現実への眼差しは、いつか死ぬ運命にある身体を素材にしているダンスに相応しいとも言える。けれども、この眼差しが表わす「救いのなさ」を「芸術表現が目指す正しいベクトル」として受け入れなければならないとまでは思えない。絶叫や汚物なるものが、たんにフェティッシュの対象としてではなく、芸術表現の一部として扱われているのはわかるのだけれど、「この現実を見ろ」と諭されているような気持ちにさせられると、見ていて辛くなってしまう。


Nibroll see/saw prom

2012/07/28(土)(木村覚)

関かおり『マアモント』(トヨタコレオグラフィーアワード2012ネクステージ)

会期:2012/07/22

世田谷パブリックシアター[東京都]

明るいクリーム色の床面、そのうえに肌の色に近いコスチュームを着けたダンサーがいる。幕が開く瞬間、ナッツのような甘い香りがあわく鼻腔に触れてきた。気のせいかも知れないが、微かな淡い刺激が視覚のみならず、五感を撫でてくる、終始そんなダンスだった。まるで彫刻のように明るい床面に屹立しているダンサーたちも独特の存在感なのだが、特筆すべきことは別にある。例えば、始まりのほうで2人の女が現われた場面でのこと。1人が脚を柔らかく横へ伸ばした隙に、その脚の裏腿めがけてもう1人の女が頬を這わせた、そしてその頬がふくらはぎを撫で、足先をめぐり脚の上部を頬で触れていったとき、本作の狙う独特の的が見えた気がした。ところで、あれこれのダンス公演を見ていてほぼ毎回思うのは、動きが大きすぎるということだ。大きすぎるので、そこに居る身体の素材的性格が看過されてしまっている。けれども、その身体こそ観客も共有しているものであり、コミュニケーションのインプット/アウトプットを司る重要な装置であるはずなのだ。脚の上に頬を沿わせる関の振付は、動きとしてユニークである以上に、見る者の身体感覚を刺激する仕掛けとして見事機能している。ほかにも、仰向けの相手の顎と自分の顎を屈みながらかみ合わせて引っ張り移動させるというシーンもユニークで、見ていると自分の顎がそわそわしてくる。ダンスは、動きの形をつくったりその精度を高めたりするものであるのみならず、(ダンサーのみならず観客の)身体へ向けたトライアルでもあるはずで、この点に関して、今年のトヨタは最終組の関だけが突出していた。次代を担う振付家賞の受賞は当然の評価だろう。それまでの4組が既存のダンス・スタイルやコンセプトをベースにし、それらのもつ基準に対する及第点を狙っているようだったのに対し(第1組の篠田千明『アントン、猫、クリ』はどの組とも違って独創的で豊富なアイディアを披露したものの、身体へ向けたアプローチは希薄だった)、関作品はなににも似ていない、そして、正真正銘のダンス作品だった。

TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2012

2012/07/22(日)(木村覚)

プレビュー:トヨタコレオグラフィーアワード2012、Nibroll『see/saw』

今月は二年に一度の一大イヴェント、トヨタコレオグラフィーアワード2012(最終審査会:2012年7月22日@世田谷パブリックシアター)が開催される。「コンテンポラリー・ダンス」という言葉では括りきれない今日のダンス振付家たちが競う。チェルフィッチュの岡田利規など、演劇系の作家が参加してきたことでも知られているが、今回は篠田千明がどういったパフォーマンスを見せ、どうダンスの現場を揺さぶるかに話題が集まりそうだ。
今月忘れてはならないのは、Nibroll(ニブロール)の新作『see/saw』(2012年7月20~8月12日@ヨコハマ創造都市センター)。結成から15年目となる今年、Nibrollは音楽、美術、衣裳、映像などの作家集団から、振付の矢内原美邦を中心としたダンスカンパニーとして再出発した。先日、10年前の旧作を映像で見ていたのだが、キレる若者を表象していると言われたあのころの上演が牧歌的だなと思ってしまうほど、近年のNibrollは猛烈に速く強くアグレッシヴで、他の追随を許さない独特の方向を進んできたにもかかわらず、その選択が今日のNibrollに現代的なリアリティを与えているのだなと再確認させられた。今作は3週間、10公演を超える初のロングラン公演としても話題となっている。映像作家の高橋啓祐と矢内原によるoff-Nibrollの新作『a quiet day』も『see/saw』上演前に披露される予定。これは日替わりで出演者が変わる1人芝居だそうだ。

2012/07/02(月)(木村覚)

ままごと『朝がある』

会期:2012/06/29~2012/07/08

三鷹市芸術文化センター 星のホール[東京都]

本作に限らず、柴幸男の脚本に出現する数字が柴作品の独自性を形作っているのは間違いない。本作は、三鷹市と縁のある太宰治の作品をモチーフに舞台作品を上演する、三鷹市芸術文化センター企画の演劇シリーズ(今回で第9回目)の最新作。太宰の「女生徒」がもとになっているとのことだが、出演は男性が1人。彼が語り手となり主人公(「女生徒」そのままではなく主人公は2001年の女生徒)になりすましもしながら進んでゆく話の中心には、主人公がくしゃみをする一瞬が置かれている。この一瞬がストップモーションのようになったり、同時に起きたあれこれに目を向けたり、その瞬間から時間を数えたりして、些細な物事がいくつものほかの出来事と、はては宇宙の運行ともシンクロしてゆく。そこで用いられるのが数字。この瞬間がリプレイされる度に「くしゃみ、10分後」「くしゃみ、4カ月後」などの台詞が中心との距離を測る。ほかにも「太陽で生まれた光は、8分19秒かけてこの星までやって来て」とか「2キロ上空にある雨雲」とか「65年後にわたしは死ぬし」とか、数字は世界についてのある決定済みの認識を明示するように、観客の想像力を喚起しながら同時に観客に客観的事実を告げる。気になるのは、そうすることで生まれる俯瞰的あるいは超越的な視点のこと。それは柴の芝居を堅牢なものにする一方、構造を閉じたものにする。いやいや、音楽のリズムや舞台美術(舞台の床面や壁面に映写される映像も含め)が役者の喋る言葉・身体動作の一つひとつと見事に対応し、全体がミュージカルのように協和しているさまは見事で、ままごとの力量を体感する時間であったことは間違いないのだ。そのうえで、すべてが連鎖し互いに共鳴していることの不思議さは、超越的なものの存在を自ずと意識させることになるけれども、その分、異質なものたちのノイジーな接触はきれいに回避されている、そう見えたのも事実。すべての連なりが「オン」ビート、だから「オフ」ビートが聞こえない。それ故に、と言うべきか、本作は美しかった。その美しさをただ絶賛することに、ぼくはちょっと躊躇してしまう。

2012/06/30(土)(木村覚)

康本雅子『絶交わる子、ポンッ』

会期:2012/06/28~2012/07/01

世田谷パブリックシアター/シアタートラム[東京都]

なによりタイトルがユニーク。奇妙に融合した言葉たちを分解すれば「絶交」「交わる」「わる(悪/割る)子」「ポンッ」。「交わる」とはひょっとして「性交」の意? 「絶交」と「性交」の関係は? 「ポンッ」ってなんの音? 会場アナウンスでこのタイトルを係員が読み上げたときの浮いた感じといったらなかった。これはなにか起きそう!と弾んだ期待。しかし結果は、その期待を何倍か凌駕するパワーとアイディアが詰まった、いや、それ以上に彼女個人の強い思いがたっぷり詰まった直球の剛速球(=傑作)と言うべきものだった。テーマはやはり「性」、というより「性交」で、例えば、男と女は不穏な物音のオノマトペを呟き、向き合えば腹に挟んだティッシュ箱から白い紙を飛ばす。そのほか「この角度以上に踏み出すとまずいみたい」といった自己規制を確信犯的に踏み越える表現がちらほら。なんて「わる(悪/割る)子」なんだ!と思っていると、たんに「性交」というより「男と女の生活」が互いの弱さも狡さも嘘も隠さず描写されていることに気づかされ、康本の狙いの深さに感嘆してしまう。それにしても、頭に包丁の刺さったカップルが現われたり、線香が刺さったバースデーケーキが舞台の隅で煙を上げていたりといった場面はさすがに強烈で、笑い飛ばせずシリアスな気持ちにもなる。そう、康本はいつも舞台をアンビバレンスな宙吊り状態に置くのだ。康本が男(遠田誠)をぎゅっと抱きしめた直後「違う」と投げ飛ばし、また抱きしめまた「違う」と絶叫するシーンはその代表例。複雑で曖昧な人間存在の深さにダンスの公演はここまで迫れるものなのかと唸らされる。ピナ・バウシュの作品から受ける感動に近いが、ダンスの面白さは康本独自のものだ。オオルタイチの音楽は康本を上手く刺激したようで、どのジャンルからも自由でユニークな動きが次々繰り出されて、ハッとさせられ続けた。最後に、精子/卵子を想像させる数百個のピンポン球が天井から落下した。そのうえでまた康本は踊った。これもまた、死と生と性という身体の芸術であるダンスならば扱うべきテーマが濃縮された瞬間だった。

2012/06/28(木)(木村覚)