artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

矢内原美邦『あーなったら、こうならない。』

会期:2010/03/05~2010/03/07

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[東京都]

二部構成。前半は明るい舞台。若いダンサーたちの素早く強い動き、不意にあらわれるユニゾン。痙攣的な仕草が散りばめられたダンスは、〈矢内原スタイル〉とでも称したくなる固有のテイストを感じさせる。ついたりふんだり、ダンサー同士の関係を見ていると、その協調しない/できない状態が私たちの人生の常態であると象徴的に語られているように思われる。床に置かれた複数のテレビに映るのは、落下する人間のアニメーション。不調和の雰囲気は、次第に取り返しのつかないなにかと繋がっているような予感を帯びてくる。後半の起点は、白い床の上に黒い巨大な布が被さり、そこから黒い衣装の矢内原が出てきた場面。戦争や災害のニュース音声が響く。艶のあるハイヒールに茶髪姿の矢内原はソロで激しいダンスをみせる。空気が送られると膨らんだり萎んだりする黒い布はアネット・メサジェの作品を想起させられた。収拾のつかないまま放り出されたような暗くて激しい情動が「黒」という色彩の内に吸い込まれてゆく。恐ろしくときに美しい暴走は、独特の高揚感を湛えながら突き進んだ。内向する傾向がダンスの作家にはある(媒体がしばしば自己の身体であることにその理由があるのだろうか)。ある昇華を経るとその傾向はこう結晶するというひとつのサンプルを見た気がした。

2010/03/06(土)(木村覚)

快快『Y時のはなし』

会期:2010/03/04~2010/03/06

VACANT[東京都]

夏休みの学童保育。フリーターの指導員(男)と小学校教師(女)、2人の小学生が主たる登場人物。後でわかるのだが、小学生の1人は里子としてここに来ている。人形と役者とが交替して彼らを演じるのは、本作のもととなった小指値時代の作品『R時のはなし』と同様。今回際だっていたのは、登場人物たちがひとつの場に集いながらも別々の人生の進路を生きているように、その役を語る者たちに関しても別々のレイヤー上にある者たち(人形、役者)が交差しながら物語を展開させているということ(ところで、ぼくが観劇した日にトークゲストとして招かれていた坂口恭平がまさに「レイヤー」をキーワードに公演の感想を話していたのは印象的だった)。複数のレイヤーが重なりあってぼくたちの社会やぼくたちの認識が出来上がっていることを快快は演出の方法を通して伝えてくれる。きわめてポップなそのやり方をぼくは「あて振り」と称したことがある(『Review House 01』にて)。例えば、学童保育のカレーパーティでビンゴ大会が行なわれた模様を指導員が語ろうとすると途端に彼はビンゴマシーンに変貌し、口から勢いよくピンポン球を飛ばし次々と番号を告げてゆく。「ビンゴマシーン」は通常の演劇ならば、台詞のなかでその言葉が発せられるだけだろうし、物語を伝える仕事としてはそれで充分かもしれない。表象する必要が必ずしもない「ビンゴマシーン」を快快はあえて表象する。この「あえて」の感じが楽しい。けれど、複数のレイヤー(つまり、台詞のレイヤーと遂行のレイヤー)がなにゆえに並列しているのかというポイントに演劇的なトライアルが仕組めるはずであり、だとすればレイヤーの交点でどんな接触の火花が起こりうるのかと期待したが、その仕掛けをぼくはうまく感じとれなかったようだ。無駄に(?)「あえて」遂行するそのサーヴィス精神には、ともかくも毎度ながら感動させられる。なんだかアジアの伝統的な村祭りで人形芝居を見ている時のような気持ちになった。作品上演はもちろん、手作りの料理を振る舞ったりDJプレイや音楽演奏の企画も並べたりととても賑やかな快快の公演は、東京という村の一種の村祭りと見てみることもできる、などと思わされた。

2010/03/04(木)(木村覚)

川口隆夫『動くポリへドロン──私の目に映るもの』

会期:2010/02/20~2010/02/28

セッションハウス[東京都]

1時間ほどのパフォーマンスは、1月から2月にかけて実施されたワークショップの成果披露をかねていた。「パフォーマンス」と言っても、ワークショップの課題を繋いだもので、上演後の観客とのトークで聞いたところだと、川口以外の5人ほどの参加者/パフォーマーはそれぞれ、上演中に新たな発見があったという。テーマは空間への意識を更新すること。最初の課題/演目で川口は、観客を含めた全員に目をつむらせ、目の前にはどんなものがあったか、背中の空間には何があったかをイメージさせた。その後、目を開けさせると、イメージと現実がどう違っていたかについて観客と簡単なディスカッションをした。次に、パフォーマーたちを向き合わせ、互いに車やアパートの部屋など各自が所有する空間について質問させた。さらに、黄色いテニスボールが10個ほど出てくると、パフォーマーはそれを空間のさまざまな場所に配置していった。こうして点(ボール)からはじまった空間を意識するレッスンは、さらにボールを投げ誰かがキャッチした点を三次元(縦軸/横軸/奥行き軸が目盛の付いた紐によって固定された)で次々に定めそのなかの2つの点を結ぶことで空間に線を描く課題へと移行した。6人で3本の線が空間に配置された。川口はこれを90度回転させようと言い出した。するとある点(線の端)は低位から高位に、別の点は高位から低位にずらされ、なかには床を突き破らないと置けない点も出てきた。ジェットコースターが急降下する前後のような空間の変化をパフォーマーは体感しているのだろう。その感触が観客にも伝わってくる。最後に、6人が長い紐を等間隔でつまみ(この川口のアイディアを支えたのは紐というアイテムだった)、6角形をつくると、1人がその形の内側へと入り込んだ。「紐を貼った状態で各自が移動する」といったルールが設定されていると思われるこの演目は、トリシャ・ブラウンの棒を用いたタスクによる作品を想起させるものだったけれど、ブラウンのよりも空間への顧慮が含まれていて、各自が他の5人を意識しながら(紐を貼りつつ)移動してゆくさまは、シンプルなアイディアながら緊張感のある時間をつくった。こうしたワークショップに限りなく近いパフォーマンスは、ときに参加者/パフォーマーがえた意識の変容を共有することが観客の体験となる。ならば観客が観客のままでいるのはもったいないと言うべきかもしれない。こうしたユニークな試行を経て、今後川口がさらにどんな観客との関係を切り開いてゆくのか。期待が膨らむ。

2010/02/28(日)(木村覚)

プレビュー:快快の『Y時のはなし』/ままごと(柴幸男)の『スイングバイ』/岡崎藝術座(神里雄大)『リズム三兄妹』ほか

3月は大変です。引き続きチェルフィッチュは新作上演(『わたしたちは無傷な別人であるのか?』、2010年3月1日~10日@横浜美術館)を続けていますので、これはもちろん見逃してはいけません。演劇であれば、昨年の春に「キレなかった14才♥りたーんず」イベントで一緒だった、快快の『Y時のはなし』(2010年3月4日~6日@VACANT)、ままごと(柴幸男)の『スイングバイ』(2010年3月15日~28日@こまばアゴラ劇場)、岡崎藝術座(神里雄大)『リズム三兄妹』(2010年2月27日~3月2日@のげシャーレ)は必見です。快快公演に行ったら、蓮沼執太(今作では音楽を担当。新作『wannapunch!』が素晴らしい)やtomad(ネットレーベルMaltineRecord主宰)らによる毎夜のアフターイベントまで残って楽しみましょう。
ダンスも忙しいです。ニブロールの矢内原美邦による『あーなったら、こうならない。』(2010年3月5日~7日@横浜赤レンガ倉庫)と、美術に小林耕平を迎えた公演、神村恵(ダンサーは神村のほか、ほうほう堂の福留麻里、捩子ぴじん)の『385日』(2010年3月25日@世田谷美術館)は、楽しみにして損はないはずです。「踊りに行くぜ!!vol. 10」(2010年3月5日~6日@アサヒアートスクエア)に行くと、この十年の日本のコンテンポラリーダンスの歩みが体感できるかもしれないです。あと東京芸術見本市2010(201年3月1日~4日)もあるし、壺中天公演(奥山ばらば振付『さぐらんぼうい』、2010年3月16日~22日)もあるし、3月は大変だ!

2010/02/28(日)(木村覚)

三浦基『おもしろければOKか?』

発行所:五柳書院

発行日:2010年1月

京都を拠点に活動する三浦基(劇団「地点」主宰)の演劇論。表題の問いは、物語の奴隷状態から演劇を解放し、空間芸術・時間芸術としてとらえようとする三浦の思いが反映されている。議論は必然的に戯曲に演出がどう対峙するかに集中する。けっしてわかりやすい本ではない。しかし、演出家というものはここまで演劇を考えているものなのかと、読んでいて〈演劇なるもの〉の深淵を不意に覗き込ませられた気持ちになる。この体験はなかなか得難い。三浦本人も難渋するさまを隠さない。「どうだろうか。私だって意味がわからない。このでたらめさには、自分でも嫌気がさすが、しかし、これだけのことを思ってしまったことは本当であり……」。この正直さはチャーミングだ。演出家は演劇がわかって演出しているわけではない。手探りで自分の実感を頼りに闇を進む。その振る舞いがトレースされている。「私は今、きっと無理を言い出している。本当に自由な『時間』を求めているのだから」。三浦の望みは演劇がどんな主体性も関与しない「時間」そのものとなること。それを語る寄り道にムンクが不意に現われる。唐突さに笑い、引き込まれる。現代演劇論としてのみならず読み物としても魅力的な本である。

2010/02/28(日)(木村覚)