artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
プレビュー:イヴォンヌ・レイナー『グランド・ユニオン・ドリームズ』ほか
[東京都]
10月20日に四谷アート・ステュディウムで行なわれる『グランド・ユニオン・ドリームズ』再演は、ダンスのみならず現代美術に興味のある方もきっと楽しめる企画です。1971年に「ジャドソン・ダンス・シアター」の主要メンバーだったイヴォンヌ・レイナーによって上演された本作は、いわゆるポスト・モダンダンスが実態としてどういうものであったのかを確認するよき手がかりを与えてくれることでしょう。暗黒舞踏とほぼ同時代に登場したポスト・モダンダンスは、今日の神村恵や手塚夏子らの活動と直接的にあるいは間接的に接点が指摘できる、そういう意味できわめて今日的な意義を有するダンスです。あとは、ロロ(三浦直之)の公演『いつだっておかしいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』(再演、2010年10月17日~24日@新宿眼科画廊)にも注目したい。8月の『ボーイ・ミーツ・ガール』は新しい作家の登場を感じさせ、ともかくドキドキさせられた(役者たちも魅力的だった)。こちらも再演だけれど快快『アントン・猫・クリ』(2010年10月27日~31日@横浜STスポット)もお見逃しなく。一年半前に「キレなかった14才りたーんず」というシリーズで上演された本作は、作・演出の篠田千明の作家としての力量を知ることができる。
2010/09/30(木)(木村覚)
小林耕平《2-9-1》(里山の古い建物にて)
会期:2010/09/25~2010/09/28
小川町小学校下里分校[東京都]
最近の小林耕平は、カメラマンを置くことで、出演する小林とカメラマンとのスリリングなセッションが作品の見所となっていた。今作では、こうしたやり方を一旦脇に置き、カメラは被写体(小林)の前で固定された。17分ほどの作品。小さな作業場らしき空間に、紙コップやティッシュ箱、水槽に入った石など日常的なオブジェが散乱。小林は、それらを持ち上げたり、テーブルの上で押したりする。ちょっとした動作の集積が見る側に突然興味深いものになったのは「水槽の石に注目して下さい」と小林が発してからだった。石は画面の右下にある。いくら注目しても石になにが起こるわけでもなく、小林が石になにかをするわけでもない。「命令」が放置されることで、観客はその状況に対して宙吊り状態にさせられる。今作の特徴は、カメラの固定のみならず、この言葉の使用だった。しかも、言葉は字幕として画面に現われもした。パフォーマーが観客に向けた約束や命令、この言葉の機能が映像に緊張感を与える。たんに身体所作ではなくこうした緊張状態のために、本作はきわめてダンス的な作品だと思った。神村恵らダンス作家との活動が近年活発だった小林の新機軸が示された作品だった。
2010/09/26(日)(木村覚)
高橋瑞木『じぶんを切りひらくアート──違和感がかたちになるとき』
30代から40代前半の中堅アーティストに水戸芸術館の学芸員・高橋瑞木がインタビューした。なにより特徴的なのは、普通だったら躊躇してしまう、けれど本当に聞いてみたいことを単刀直入に質問していること。「スランプはある?」「いま食べていけている?」「どういういきさつでアートを志すようになったの?」etc. なかでも一番興味深いのは、子どもの頃の話。読んでいると多くの作家が子ども時代にすでにいまの活動と同じようなことをしているのだ。遠藤一郎は高校時代に広島へ自転車旅行をしているし、石川直樹は中2のときに高知へ一人旅に出ているし、高嶺格は小2でバンドを組んでいる。また共通しているのは、学校であまりいい経験をしていないこと、管理社会への反発が創作活動のエネルギーになっていること。高橋は彼らの共通点を、学校や社会、あるいは自分自身の身体、あるいはアートへの「違和感」の内にみている(副題は「違和感がかたちになるとき」)。もうひとつ面白いのは、自分をどう称するかについての質問。「あなたは『アーティスト』なのか?」「アーティストは職業なのか?」といった問いは、彼らが社会をどうみて、社会とどう対峙しようとしているかを明らかにする。「ライフ」展を企画した高橋だけある。アートの後ろには必ずライフが隠れている。いや、ライフそれ自体がアートの源泉なのだ。そうした当たり前のことに真っ当な眼差しが注がれている好著。前述のアーティストのほか、いちむらみさこ、下道基行、三田村光土里、志賀理江子、山川冬樹のインタビューが掲載されている。
2010/08/31(火)(木村覚)
あいちトリエンナーレ2010(平田オリザ ロボット版『森の奥』、島袋道浩「漁村における現代美術」、山本高之「どんなじごくへいくのかな」ほか)
会期:2010/08/21~2010/10/31
愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場[愛知県]
あいちトリエンナーレ2010の醍醐味は、歩いて30分くらいの範囲に展示が集中しているところ。昨年の越後妻有アートトリエンナーレとアイディアは似ているけれど、アクセスの簡便さでは明らかに勝っている。歩き回るのに都市がいいか田園がいいかといえば意見が分かれるだろうけれど。
まだ2/3ほどしか見ていない段階で恐縮だが感想を言うと、作家が自分の手で作品をつくるのではなく、誰かにやらせる作品が目立っていた。平田オリザはロボットに演劇をさせ、島袋道浩は漁師に魚をさばかせ、山本高之は子どもに地獄をつくらせ(「どんなじごくへいくのかな」)、動物園の動物の前でそれぞれの動物を主人公にした「一週間の歌」の替え歌を歌わせ踊らせた。こうした「やらせる」=タスク系の作品では、プレイヤーの性能が際立ってくる。それが見所になる。名古屋市美術館の島袋は、篠島の人々の生活に芸術のフレームを置いてその性能(の見事さ)を際立たせようとした。長者町会場の山本の場合は、地獄の立体造形や歌といった芸術的表現は手段であって、地獄の説明や歌っているときの挙動の一つひとつに表われる、子どもという存在の奥深さ、不可解さそれ自体が見所となっていた。
2010/08/24(火)~25(水)(木村覚)
平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)『森の奥』
会期:2010/06/21~2010/06/28
愛知芸術文化センター小ホール[愛知県]
あいちトリエンナーレ2010関連公演。2030年。ボノボを人間並みの頭脳に進化させる目的で集まった研究者たちと2体の助手のロボットが主要登場人物。まるでプラトンの対話編のように「人間とはなにか」「動物とはなにか」「ロボットとはなにか」について人間と人間、のみならず人間とロボットとのあいだで議論が交わされる。胸のあたりで赤いパルスが動く黄色い2体のロボット。本作の見所はこれが人間と一緒に演じるところ。はっとさせられるのは間で、人間の役者と呼吸がじつにうまく合っている(アフタートークで、役者がロボットに合わせているところもある、とのことだった)。平田オリザと石黒浩が目指したのは「うまく合っている」と観客に見せかける自然主義に相違ない。しかし、ロボットとの会話ならば間が合わないほうが自然である、という考え方もありうるだろう。要は、ロボットにどんなことを要求するのか、どんな性能を与えるのかという設定こそ重要なはずで、残念ながらその設定が不明確だった。例えば、なぜこの研究に(人間ではなく)ロボットが助手として参加しているのか、など。最後の場面、個々別々の思いを抱えた人間たちが滝に現われる虹を見に行くところで、ビールを持ってくるように頼まれたロボットたちが「ビールを持って行くより消えそうな虹を見逃さないほうが大事だ」と依頼を後回しにした。感情はないとした(これは設定されていた)ロボットに感情の芽生えを察知させるロマンチックなエンディングから、ロボットの人間化が二人の作者の目指すところと解釈しうる。けれどもそのベクトルだけがロボットの未来ではないだろうし、ロボット演劇の未来でもないだろう。
2010/08/24(火)(木村覚)