artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

『エクス・ポ テン/ゼロ』

発行所:HEADZ

発行日:2009年12月

第二期の『エクス・ポ』第0号は、第一特集が「演劇」(455頁分)。平田オリザ以後であり、さらに岡田利規以後とも言うべき今日の演劇の怒濤の展開を、編集発行人である佐々木敦が独自の嗅覚でまとめあげている。取りあげられている作家(脚本家、演出家)は以下のとおり。前田司郎、松井周、岩井秀人、平田オリザ、中野成樹、多田淳之介、タニノクロウ、飴屋法水、下西啓正、岡田利規、宮沢章夫。また、昨年の春に話題となったイベント「キレなかった14才♥リターンズ」に参加した作家たちも、彼らの座談会が掲載されフォローされている。もしあなたがまだ彼ら若い演劇作家の作品に触れていないならば、ここに名前のあがった作家たちの上演をチェックしてゆくことで、日本の演劇の現在と未来を知ることにきっとなるだろう。筆者も前田愛実、九龍ジョー、佐々木敦との座談会に参加しており、そこでは岡田利規的演劇とは別の可能性を示す存在として快快が話題になっている。ぜひご一読いただきたい。

2010/02/28(日)(木村覚)

チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』

会期:2010/02/14~2010/02/26、2010/3/1~2010/03/10

STスポットほか[神奈川県]

近々タワー型のマンションに移り住む予定の〈幸福な若夫婦〉のお話。この幸福には根拠がないと悩む妻。妻の悩みにどう返答すべきか戸惑う夫。そんなある日、妻の同僚の若い女性が彼らの住まいに遊びに来る。きわめて日常的で小さなお話。その所々に差し挟まれるのが他人の振る舞いについてのエピソード。例えば、夫婦の住まいへ向かう電車で若い女性は見知らぬ隣の男がなぜちょっと古い音楽を聴いているのか気になってしまう。そんな、ささやかだけれど不断に起こる他者との接触にぼくらは日々さらされている。本作はその接触の事態に留まり続ける。どこかで聞いた選挙CMの文句を登場人物がそらんじるのも、他者(ここではCMや選挙なるもの)が自分の内に不断に侵入してくる日々の表現だろう。他者の侵入はいらいらや不安を誘発し妄想を助長する。山縣太一が演じる男は妻の妄想の産物で、妻の幸福を輪郭づける不幸の表象としてあらわれる。この男=山縣の佇まいのなんと怪物のように不気味なこと。今作の際だった特徴はこの異形性にあった。台詞に端を発した動きではあるのだけれど、どの役者たちも人間らしさの希薄な、ヌルッとした粘着質の不思議な身体と化していた。台詞にも独特のひっかかり(異形性)があって、リアルな発話とは言い難く、ときに役者たちは役を演じるというよりも単なる朗読者になっていた。ほかにも壁の掛け時計や時折役者がストップウオッチで時間を計りながら芝居が進むなど仕掛けに溢れた上演は、日常の出来事の演劇的解体のみならず演劇そのものの解体の過程でもあって、ときにグロテスクささえ感じさせるこの解体の光景は、演劇の未知なる相貌を垣間見たという知的な快楽に満ちていた。

2010/02/26(金)(木村覚)

黒沢美香『薔薇の人』第13回:早起きの人

会期:2010/02/24~2010/02/26

テルプシコール[東京都]

唯一無二の存在、そんなあたりまえのことを再確認した。初演から10年の『薔薇の人』。ダンスを「花」に、なかでも「豪華で香しい魅惑に満ちた代表」である薔薇にたとえる本シリーズは、黒沢によれば「ダンスの人」とも翻訳できる。とはいえこのソロ「ダンス」は一筋縄ではない。これまでも、床全面を雑巾がけしたり、丸太をノコギリで切ったり、乳の張りぼてを回したりなど、一見するとダンスとはほど遠い荒唐無稽な行為が延々と続き、その光景に観客は翻弄されてきた。翻弄されながらの失笑の隙間に、思いも掛けない瞬間があって、その一瞬をわくわくしながら待つ、それが「薔薇の人」。本作はその9作目(上演としては第13回)。布を干す、手を洗う、ホットケーキを焼く、食べる、呆ける、あわてる、たたむ。こうした行為が突拍子もなく始められまた別のなにかへと交替するその最中にダンスの香る瞬間があって、とくに「あっ」とか「はっ」とか黒沢がなにかを思い出したりなにかに気づいて目を彼方にやったりする、その前後にそれはしばしば起こる。「白塗りの天才乙女」とでも形容したらいいのか、謎のキャラと同化した黒沢の内側でうごめくなにかを、見る者は追いかけたくなる。そこにスリルとサスペンスが発生する。ダンスそれ自体のユニークさと正確さはもとより、そうした観客との絶妙なコンタクトの内に黒沢ダンスの真骨頂はあり、これは彼女しかなしえない唯一無二のダンスであるとあらためて思わされた。

2010/02/25(木)(木村覚)

ホテル・モダン『KAMP/収容所』

会期:2010/02/20~2010/02/21

スパイラルホール[東京都]

1997年より活動を始め、2000年に第一次世界大戦をモチーフにした作品で評価された彼らは、今作ではアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一日を描いた。舞台に敷き詰めけたジオラマ、そこを生きる人々。登場人物たちはすべて人形で、パフォーマーは黒子に徹する。主眼は再現可能性/不可能性にあるのかもしれない。けれど、ぼくの興味はアウシュヴィッツという「神話」の演劇的活用という点にあった。〈ホロコースト〉は、実際に起こった歴史的な出来事であると同時に、人間の冷酷さ非人間的な性格を語る人類の比較的新しい「神話」としてとらえられるものではないだろうか。現場でなにが起こっていたのか、その真相は永遠に再現しえない(すべての現場がまたそうである)としても、ぼくらはそれを「神話」としてならば大いに語ってきた。本作を見て、ジオラマや人形はこの「神話」を演劇として見るべきものにする有効な方法に思われた。生きつつもすでに死んでいる収容所の人々は人形(という役者)にとって適役だし、生々しさが希薄な人形の営みはそこで起きたことを冷静に想像するのにふさわしかった。ところで、アフタートークで何人かの観客がそんな虚ろな人形に感情移入したという話をして、メンバーたちと意見がかみ合わない場面があった。彼らにとって距離をとるための仕掛けが、アニメや人形に独特の関わり方をする日本人にとっては距離を縮める仕掛として機能したらしく、興味深い齟齬だった。

2010/02/21(日)(木村覚)

フォースド・エンタテイメント『視覚は死にゆく者がはじめに失うであろう感覚』

会期:2010/02/10~2010/02/12

VACANT[東京都]

タイトルのような定義(これは劇の最後の一言となる)がひたすらつぶやかれ続ける。哲学的だったりもするし、きわめてどうでもいい常識とも言い難い語彙説明だったりもする。男が1人。ときどき水を飲んではつぶやきを再開する。1時間。この男は役者だろうけど役柄はまったく不明で、そもそもなんのために定義が語られているのかわからない。宇宙の使者?なんて憶測もあやふや。それがなんで退屈でないのか、いやむしろはっきりと見応えのある時間だったといえるのかは、答えるのがとても難しい。男が語るのを聞く。この最小限の演劇の状態しか設えられていなくとも、だからこそ感じられるものがある。波紋のように言葉が聞き手に広がり、想像力が刺激される。役者のちょっとした仕草から見る者は沢山のありうる解釈を展開させられる。いや、これはいわゆる「演劇」だけに特化すべき「状態」ではなかろう。ブログ、mixi、twitterのつぶやきと向き合う感覚にとても近い。むしろ、そうしたメディアに演劇的ななにかがあることを認識させる作品だったのかもしれない。

2010/02/11(木・祝)(木村覚)