artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:ホナガヨウコ『リアル感電!!』/バットシェバ舞踊団『MAX マックス』/山下残『大洪水』

[東京都]

4月に注目したい公演No.1は、ホナガヨウコの企画『リアル感電!!』(2010年4月24日~25日@川崎市アートセンター アルテリオ小劇場)。以前もサンガツとのコラボ公演&DVD発売など行なってきたダンスパフォーマーのホナガヨウコ。今回彼女が組むのは、映像担当の山口崇司とドラムデュオ(Itoken+Jimanica)の3人組という個性的なバンドの(やくしまるえつことの新ユニットでも話題の)d.v.d。ゲームのプレイと演奏のプレイとを掛け合わせたd.v.dのユニークなライヴパフォーマンスとホナガの瑞々しいダンス表現がどう重なりあうのか? これはすごく楽しみです。
イスラエルのバットシェバ舞踊団による公演『MAX マックス』(2010年4月15日~17日@彩の国さいたま芸術劇場大ホール)もあります。週末に埼玉の大ホールで海外のコンテンポラリーダンス事情を味わってみるというのも悪くはないでしょう。
けれど、横浜の小さなスペースで行なわれる山下残──彼は言葉と身体との関連にこだわり続ける(そしていつも作品にそこはかとなくユーモラスな雰囲気が漂う)作家です──の新作公演『大洪水』(2010年4月8日~11日@STスポット)に期待するのも、よき舞台芸術フォロワーの振る舞いというものでしょう。

2010/03/31(水)(木村覚)

山川冬樹『黒髪譚歌』

会期:2010/03/28

VACANT[東京都]

ランウェイを模したと思われる白く細長い舞台、その両端に楽器が置かれたスペース。約90分。冒頭、ランウェイの真ん中で長髪をゆっくり洗うと、山川は「2007年8月20日月曜日……」と語り出した。その日、彼は死者の棺に自分の髪を捧げたという。髪をテーマにした本作は、この死者(山口小夜子と想像される)へのオマージュでもあった。髪を振り乱しながらギターをかき鳴らすと、瞬時にそれは映像化されスクリーンに逆回転の状態で映写された。逆回転の効果で髪は独特のうねりをみせた。哀切に満ちたギターと歌。心臓の鼓動や骨の鳴る音がリズムをつくる。合間に髪をいつ切るかといった街頭インタビューや、中国でのエクステンション用の頭髪売買の様子(テレビ番組の一部)がモニターに映される。そうして髪への思いを山川個人から切り離す振る舞いも見せはする。とはいえ、やはり中心を占めるのがきわめて個人的な髪への思いと死者への哀悼であることは変わらない。喪の儀式は、死者の死後伸びた分を残して山川の長髪がばっさりと切り落され、その髪が亡霊のようにランウェイの中空を漂うと、ギターを弾きながら山川がつきそうエンディングできわまった。これがただ純粋な喪の儀式だったのか、その「パフォーマンス」だったのか、それとも「パフォーマンス」の衣を借りた中身は純粋な儀式だったのか、簡単に断定できない。ただし、パフォーマンスの場を喪の儀式の場にしてみようと思う現代の作家がいて、さほどの違和感も抱くことなくその作家を見守る観客がいるということ、これは間違いのない事実。特定の時間・場所に料金を支払ってひとがわざわざ集まる「上演」という機会が、テレコミュニケーションの高度に発達した時代の僕たちにとっていったいなんであるのか/ありうるのか、考えさせられる公演だった。

2010/03/28(日)(木村覚)

神村恵カンパニー『385日』

会期:2010/03/25

世田谷美術館[東京都]

世田谷美術館の高い高い天井のエントランスホールが会場。舞台の端には、美術担当の小林耕平による6角形と4角形を組み合わせた木製の構築物が立っている。荷物を背負った神村恵が現われると「そうそうそう……」など誰かに(自分に?)話しかけながら、言葉とは無関係のことを身体はしている。ある瞬間、小さなものを握って、上体を後ろから前へ振り向く、と同時に前向きの上体から残された足下に落とした。声や体やものを不断に交差させて起こる些細なズレ、そのリズム。そうした「こと」が神村の身体の周囲だけではなく、舞台のあちこちで生まれ続ける。ダンサーの福留麻里と捩子ぴじんも荷物を背負って登場。結構強烈なコンタクトで、福留は捩子に押され倒されそうになる。時折、小林が舞台に侵入すると、巨大な紙の塊や前述した構築物や黒板、白い箱を舞台に出したり引っ込めたり位置を変えたりする。また不意に「電車が来るぞ」などと言葉を漏らしもする。小林の映像作品に似て、エントランスホールの空間にあるものすべては、刻一刻と変化するコンポジションを構成するオブジェと化している。ここではすべてがオブジェだ。3人のダンサーたちもしかり。発する声や荒くなる息や衝突の際のふらつきなどはみな、身体なるもののスペックを示す事柄として見えてくる。横並びで笑い顔をつくる場面では、なぜ笑うのかもなぜ笑い顔なのかもわからぬ不安が観客を襲う。タイトルの「385日」の1年を単位とするとちょっと多い日数が謎めいているように、舞台空間はつねに謎めいていて、「魔術的」とでもいってみたくなるような神村のつくる時間と空間(空間に関しては小林の貢献は大きいだろう)にただただ圧倒させられた。

2010/03/25(木)(木村覚)

ままごと『スイングバイ』(作・演出:柴幸男)

会期:2010/03/15~2010/03/28

こまばアゴラ劇場[東京都]

舞台床にはところどころラインが引かれてあって、「スポーツでもしそうだな」と思っていたら12人の役者たちの足元は運動靴、開演間際にウォーム・アップを始めた。スーツ姿の柴幸男が本作のテーマは仕事であると観客に向けて語り出す。その後、四方八方から次々と役者が交差して勢いよく書類を受け渡し続けるシーンに移った。〈会社の仕事〉なるものはスポーツのようにチームワークが求められ、スポーツのように業務の意味が希薄なたんなる運動である、そう表現しているように見えた。ところで、ここ(舞台上)はビルの中という設定。今日は入社式。階は「2010年3月22階」。日付が階となっているというだけではなく、例えば「300万階」へ下がれば、そこには人類の祖先のごとき生き物がいるというように、このビルは人類史を階層化している。そこで社員たちが勤しむのは社内報(人類史)の制作(ただし社内報は些細な事項の積み重ねで誰も読まない)。柴に似た新入社員が軸にはなるものの、12人の人間関係はそれぞれ等しくデリケートに描かれる。ただ、その描写の仕方は単線的ではなく切れ切れ、舞台脇の柴の鳴らす合図で短い場面が次々とスピーディーに切り替わり、不規則につなげられてゆくので、最初、それぞれの人間関係はわからないことだらけ。それでも、劇が進み次第に情報が増えることで、ジグソーパズルみたいに徐々に関係のありさまは明瞭になってくる。こうした物語の語り方へ向けた柴らしいアプローチが演劇の可能性を大いに広げている、そうあらためて確認させられた。ラスト、再び業務のようなスポーツのような書類の受け渡しゲームが始まった。空虚な労働のさまは、労働の批判と同時に柴の(父親世代ならば自明であった)労働への憧れともみてとれた。

2010/03/22(月)(木村覚)

壺中天公演:奥山ばらば『さぐらんぼうい』

会期:2010/03/16~2010/03/22

壺中天[東京都]

壺中天メンバーの奥山ばらばが演出・振付(振鋳)などを初めて行なった。90分弱。奥山の故郷・山形をイメージの源泉にし(タイトルには山形名産の「さくらんぼ」と「Boy」が掛け合わされている)、土着的で清澄な世界が展開された。ラスト、寝そべった奥山へ向け両側から転がってきた赤いビー玉は、「大量」というほどではなかったぶん迫力には欠けたけれど、いつもの壺中天の(とくに男性メンバーが演出・振付する際の)躍動的でワイルドな作品とは異質な、透明感をうまく示していた。「異質」といっても壺中天らしさから逸脱してはいない。場面設定やキャラクターや人物の関係性など壺中天に典型的な諸要素──「テンプレート」と呼ぶとドライすぎるけれどそんなふうに表現したくなるようなもの──が彼らの内で充分スタイル化されていて、憶測するに奥山は、それらを自分流にアレンジすることによって作品を練り上げていったようだ。いわば壺中天という工場のベルトコンベアに素材が乗れば、さまざまな作家によって一貫したスタイルをもった、しかし多様な作品を生み出すことができるわけだ。そうした面をもって彼らを批判することも可能だろうけれど、ぼくは肯定的だ。よき個人以上によき工場(作品制作のみならず振付家やダンサーの養成の場という点も含む)こそ、現在求められているものであろうし、彼らの作品に宿る闇(異常、不良、悪、ほうけetc.)の姿は、今日の社会が無視し、無視することでその潜在力が奪われてしまっている何かであるように思えてしようがないからだ。

2010/03/22(月)(木村覚)