artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

川戸由紀+小林耕平『川戸由紀と小林耕平』

会期:2010/07/20~2010/07/31

ギャラリーかれん[神奈川県]

近年しばしば目にする美術作家といわゆる「アウトサイダー」な作家の作品を併置する展覧会のひとつと言えば確かにそうなのだけれど、川戸由紀の絵や刺繍の圧倒的な魅力を直に目にしてしまうと、その作者が(美術作家であるかどうかはもちろんのこと)美術作家でないかどうかなどどうでもよくなってしまう。
 テレビで見かける「お天気カメラ」の定点観測映像をモチーフに、新宿などの都市の景色が、コマ撮りのように少しずつ位置がずらされながら、何枚も描かれる。見たことのある景色なのだが、見たことのない感触が画中に漂っている。鉛筆の描線はすっきりしていて静か。見る者(描く者)と景色とのあいだには一定の距離が保たれている。ただしそれは単に遠さを感じさせるというよりも、なにかしらしかるべき関係の成立にとって必要な条件のように感じられる。さて、ではその「しかるべき関係」とはなにをさすか。ぼくの思うに観客(=川戸)と舞台(=景色)との関係である。例えば、新宿の景色に突拍子もなく、ディズニーキャラクターの一団がマッチ棒のように細長くされた状態で賑々しく見る者に眼差しを向けている絵は、その観客ー舞台の距離設定がなぜ画中に生まれているかを明かすポイントと言えるだろう。川戸の絵には、静かだけれど熱いコール・アンド・レスポンスが展開されている。絵のミュージカル化と言ってもいいかもしれない。
 刺繍の作品に目を転じると、ディズニー・ショーのエンディングでキャラクターが横並びになっている様子が描かれている。それも示唆的なのだが、それ以上に重要なのは、はがきサイズの布に身近な品々が刺繍され(ex.スイカ)たものだろう。図柄の上下に文字で例えば「せーのスイカ」などと縫い込まれている。「せーの」「いくよ」「いくぞ」「(大きな)こえで」などの呼びかけは、工房のスタッフの方によれば、テレビ番組「おかあさんといっしょ」のステージで歌の前に観客にかける呼び声がもとらしい。「自閉の人のなかで起こっている熱いコミュニケーションへの思い」と解釈できなくはない。けれども、むしろ美術作家/アウトサイダー作家の境界線をこえて、また同じく「いくぞ」というかけ声を美術の分野に持ち込んだ遠藤一郎と並べたりなどしながら、川戸の絵や刺繍の魅力にもっと巻き込まれてみようと思う。

2010/07/28(水)(木村覚)

吾妻橋ダンスクロッシング2010

会期:2010/07/16~2010/07/18

アサヒ・アートスクエア[東京都]

 「重苦しい感じ」というのが第一印象(ぼくが見た回には、ライン京急、スプツニ子は出演せず)。機械仕掛けでかかしのカップルを空中で踊らせた宇治野宗輝の薄暗い雰囲気が冒頭を飾る。off-nibrollの「ギブ・ミー・チョコレート」は「チョコレート」という矢内原美邦の旧作を第二次世界大戦的戦争の問題へとアレンジし直すことで、暗さ(具体的には黒)の強烈なイメージが浮かび上がった分、旧作にあったデリケート(な他人との接触の感覚)さが蒸発してしまっていた。飴屋法水の作品では、三人の人物が舞台に並び自分語りをするのだが、真ん中の男が絶望的な個人的ストーリー(薬物摂取や望まぬ妊娠と出産について)を絶叫するので、他の人物の話が聞き取れない。チェルフィッチュは登場人物が1人。先日の「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」の最後のパートについて、それを演じた主人公が映像を脇に置いた状態で解説するというスピンオフ的趣向。それはチェルフィッチュが今回の公演に本腰を入れていないと思わされる内容で、正直見る者に脱力を催させた。最後に登場した遠藤一郎は、こうした重苦しい舞台の空気に巻き込まれていった。出演者それぞれの能力が十分に示されているとは思えなかった、と言わざるをえない。残念。ダンス、演劇、美術などの作家を集めたという点で公演タイトルにある「クロッシング」の含意は明確だった、その一方「ダンス」の意味合いが明確ではなかったというのが大きい。東京ELECTROCK STAIRSがいたじゃないかって? そ、それが答えなのでしょうか。

2010/07/17(土)(木村覚)

プレビュー:吾妻橋ダンスクロッシング

会期:2010/07/16~2010/07/18

アサヒ・アートスクエア[東京都]

今月推薦する公演は吾妻橋ダンスクロッシング。桜井圭介のライフワークともいうべきこのイベントは、いつの間にか「ダンス」の概念が極端に拡張され、とうとう遠藤一郎の出演という事態にまで至っています。こんなこと、一年前にいったい誰が予想できたでしょうか?! クロスジャンルのアーティストたちがパフォーマンスする「吾妻橋」的企画はここ2、3年で急速に増えましたし、観客の受容の仕方もジャンルレスに「面白ければジャンルはとくに関係なし」といった様子で益々どん欲になっていると感じる昨今です。この大きなストリームに身を委ねる最良の機会に間違いありません。お祭り的な要素も濃い企画ですが、ここは一発芸的な力業ではなく、小さくてもきらりと光るアイデアをアーティストたちには競ってもらいたいものです。はたして、チェルフィッチュの後に見る遠藤一郎、Off-Nibrollの後に見る宇治野宗輝はどんなふうに見る者に映るのか! 想像するだけでわくわくします(実際の順番はいまのところ定かではありません)。ちなみに、7/10には、本イベントがプロデュースしているSNACにて「2人が見ている未来の美術」というトークイベントが開催されます。木村が聞き手となり、高橋瑞木さん(水戸芸術館学芸員)と伊藤悠さん(island代表)という2人の学芸員/ギャラリストをお招きして、日本の美術の現状と未来の美術の行方などについてお2人が「見ている」ところをお聞きする予定です。2人の共通項はもちろん遠藤一郎。だからこのイベントは、今回の吾妻橋ダンスクロッシングの予習を兼ねた関連企画でもあります。こちらもふるってご来場ください。

2010/06/30(水)(木村覚)

手塚夏子『私的解剖実験-5~関わりの捏造~』

会期:2010/06/21~2010/06/28

こまばアゴラ劇場[東京都]

舞台上をひとがたの怪物が4体うろついている、そんな、とてつもなく変則的な上演を目撃してしまった。怪物の外面的な模倣ではない、むしろ意識のコントロールから身体を離したりずらしたりしたことで生まれたと想像される、無意識の身体、故にリアルにおかしな状態の身体が、小さな舞台空間をうごめいていた。
前半は、篠原健、小口美緒、若林里枝の若い3人が、最初は立った状態で自分の身体に起きている微細な出来事を逐一口にし(胃袋が、肛門が、右腕が……)、次は向かい合わせに座って会話をはじめた。立っていたときにも時折起きていた痙攣的な首の微動などの動きが、会話のなかで次第に甚だしくなり、また強いテンションを帯びるようになってくる(ギョロ目になる者もいれば、反対にぐっと内側にテンションを溜め込んで硬直する者もいる)。
そうこうするうちに手塚夏子が現われると、立ちあがった3人に囲まれるようになった。まるで3人の身体が発する電波をすべて受信しようとしているかのよう。低く太鼓の鳴る音がして、トランス的な祭儀かと錯覚させられる。このときの手塚もやはり身体の状態を実況している。語る我(意識)と語られる我(身体)、その主従関係は日常のそれと反転しており、語りは身体の暴走にすっかり支配されてしまわずに、どうにか意識の覚醒した状態を保つための唯一の手段になっているように見える。
後半、4人は椅子に座り向かい合うとそれまでのテンションを落ち着かせるようにあくびを繰り返す。そのあいだ、圧倒的にひきつけられたのは「ゲー、ゲー」とえずいているようなげっぷしているような背の低いほうの女の声。かわいらしいルックスとは明らかに不似合いのおかしな音が止まらない。不安を感じる。この不安に観客は「別の可能性」(パンフレットでの手塚の言葉)を予感すればよいのだろうか。4人は次第に立ちあがると、磁石のように互いにひきつけられたり引き離されたりして、前代未聞の、不思議な動きの怪物と化した。それは、神を必要としない祭儀、身体が身体に身体を奉る祭儀のように思われた。

2010/06/28(火)(木村覚)

酒井幸菜『難聴のパール』

会期:2010/06/18~2010/06/20

ヨコハマ創造都市センター[神奈川県]

見終わった直後、この既視感をどうとらえようかと思った。はっきり「参照しています」と表明する身振りが含まれていないものの、ゴダール?タルコフスキー?などとある種の映画たちのシーンを想起せずにはいられない場面が脈絡なく(少なくとも観客にはその流れの必然性は読みとれない)続いてゆく。個々のイメージのみならず振付や音楽の用い方なども個性は希薄で、「きれいだな」「雰囲気がいいな」と思わされた数々の瞬間は(ダンサーたちのルックスにもいえることなのだけれど)どこかで見たような「らしさ」に満ちている。この「らしさ」は批評的で戦略的なものなのか、ただたんに作家がある種のアートへの憧憬に突き動かされた結果なのか。恐らく後者だろう。だとすれば、アートに憧れる若いダンス作家の熱情がかなりベタな状態で舞台化されているのが本公演ということになろう、そうなると、その熱情に共鳴できるか否か、あるいはそうした熱情を抱く作家に愛着を抱けるか否かに、観客の評価はかかってくることだろう。さらに、だとしたら気になるのは、そうした評価のされ方を作家が望んでいるのかどうかで、つまるところ、作家は舞台を通して観客とのあいだになにを引き起こしたいと思っているのか、その問いが見ながらずっと心に離れなかった。

2010/06/19(土)(木村覚)