artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

室伏鴻『常闇形 Hinagata』

会期:2010/08/18

snac[東京都]

同会場で行なわれているChim↑Pom「Imagine」展に室伏鴻が触発され突如行なわれた本公演。「見えないことを想像する」というChim↑Pomのテーマを舞踏者が引き受けるとどうなるかといった問いに答える意欲作となった。「闇のなかで踊るなんてギャグかよ!」と突っ込みたくなる気持ちは、床や壁をガリガリとひっかく音が小さい会場に響きはじめると消えてなくなった。ああ、室伏は目のみならず耳にも訴える舞踏者だった、と思い出した。かすれる呼吸の音、小さな叫び声、体をよじるときのうめく声、激しい声……。その声が、ときに鳥のように、ときに赤ん坊のように、ときに得体の知れない怪物のように聞こえる。物まねではない。模倣の技量に驚くわけではない。ただただ、室伏の「なること(生成変化)」に巻き込まれ、導かれ、置いて行かれてしまう、その事態に唖然とし、その一瞬一瞬を堪能する。目が慣れて薄闇になったあたりで、激しい上下動を繰り返しながらうめき声を上げたとき、その反復動作が次々と似て非なるイメージを生み出していった。差異と反復。室伏を見ること以外では生まれえない豊かで知的で野蛮な時間がこの夜は生まれた。真鍮板、白いオーガンジー、塩など、過去のソロ作品でも彼にはパートナーがいた(そうした姿勢はジーン・ケリーに似ている)。生成変化のトリガーとして今回の「闇」はなかなかよいパートナーだったといえるかもしれない。近年では、海外公演が多い室伏だが、日本の観客にも雄姿をもっとみせて欲しいものだ。

2010/08/18(水)(木村覚)

Chim↑Pom『Imagine』

会期:2010/08/07~2010/09/11

SNAC[東京都]

Chim↑Pomの葛藤は、「アートであってアートであってはならない」ことにあり、この点についてはしばしば議論がなされているように思うのだけれど、彼らはもうひとつの葛藤を抱えているとぼくは感じている。それは「なにかを愛しつつも単なる愛と受けとられてはならない」ことである。この二つの葛藤が交差して、複雑に絡み合うときに、もっとも彼ららしい一種のグルーヴが生まれ、その瞬間にこそ立ち会いたいと、ぼくは思っている。アイロニーではだめだ。「アートを笑うアート」でもなく「愛を笑う愛」でもなく、思案を重ねた末、いざ制作を始めてみたものの、どういう結果になるのか最終的に皆目わからなくなってしまった、そんな不測の事態が発生してこそ葛藤する価値があるというもの。さて、新作展。ハジくんという盲目の若者を主人公に、観客に「見えないことを想像させる」作品群。点字の表記がキラキラと輝くキャンバスの作品やハジくんとにらめっこの勝負をする映像作品などが並ぶなか、昔のエロ雑誌のページにオノ・ヨーコのインストラクション集『グレープフルーツ』の文章を点字で刻印した作品があって、ぼくはこれにひきつけられた。点字(触覚)の世界からすればオノ・ヨーコで、視覚の世界からすればエロ雑誌。ぼくの行った日はハジくんもいて、点字を読んでもらったのだけれど、読み上げる言葉とは関係なく、ページをなでる手がなんだかなまめかしく映る。しかし、自分の手のなまめかしさをハジくん自身は見られない。ハジくんの世界と見える者の世界との「すれちがい状態の出会い」が、とても上手く作品化されていた。問題は、あるとすれば上手すぎることかもしれない。丁寧に織り上げられた愛のアート。アイロニーへ転換させることなく、これをダイナミックなものにするには、出会ってしまった「ハジくん」と徹底的につき合ってみるべきなのかもしれない。

2010/08/17(火)(木村覚)

快快×B-Floorコラボレーション作品『どこでもdoor』

会期:2010/08/13~2010/08/15

東京芸術劇場小ホール[東京都]

こりゃ「タイの快快」だ!なんて思わされたB-Floorと短時間でつくったコラボ作品。タイトルにあるようにベースはシンプルで、ドアをひとつ用意して行ったり来たりする。終幕あたりでぐっときた場面があった。観客に合図を送り拍手をさせるとその音が「雨」になり、役者たちはそれまで観客とやりとりしていた商いをやめて雨宿りをはじめる。あらかじめ観客に20バーツ札を渡してあってそれで行商人たちと値切り交渉を楽しんでくれという趣向。拍手=雨なんていうのも快快らしい参加型のアイディア。こういうのはとてもよかった。「タイの雨」や「タイでの値切り」を湿度や熱気を錯覚するほどに体感できた。とはいえ、小さなアイディアの数々がひとつの束としてまとまることはなかった。いや、あるルール(台本や演出方法)を決めて、それに沿って作品づくりをすればこぎれいにまとめあげることは短期間でも可能だったかもしれない。強いルール設定を拒んだのだろう。その一方、二組の出会ったことそれ自体が主題化された。結果として、学生や社員がオリエンテーションで行なう即席の芝居と大きくは変わらないものになってしまったかもしれない。とはいえ、時折つぶやかれたセリフ「ア・ジ・ノ・モ・ト」は印象的で、二組が共有できる単語であった以上に、すべてを同じ(旨い)味にしてしまう調味料(的存在)に対する批判を含んだものであったに違いない。ゆえにちょっと薄味だった舞台。その分、素材(役者たちの個性)を感じることができた。

2010/08/15(日)(木村覚)

東野祥子『I am aroused..............Inside woman』

会期:2010/07/31~2010/08/01

世田谷美術館[東京都]

「くぬぎ広場」と称する世田谷美術館の裏庭が会場。歴史的な暑さの夏の夜。おつまみやビールが販売されるミニ「野外ライブ」みたいなリラックスした場に、東野祥子はサイレント映画的イメージを持ち込んだ。プロジェクターを駆使して、巨大な映像が芝生や建物の壁面に映される。そこに、強烈に速くまた奇妙なカーブを描く東野のダンスが紛れ込む。すると東野が、回転数の速いサイレント映画のなかの人物のように見えてくる。ダンスというのは、踊れれば踊れるほどその身体の正常さが現われるもの。そうした正常さは東野の妄想するダークで奇っ怪なイメージとなかなかかみ合わない。東野の試みの難しさはここにある、とぼくはつねづね思っていた。映像のなかの人物と目の前のダンサーを錯覚するといった今回の趣向は、その難しさを少し軽減する効果があった。ただ「サイレント映画的」と形容してみたように、センスが1920年頃に設定されていて(レジェの『バレエ・メカニック』をリミックスしたような映像が用いられるなど)、それがぼくには個人的な趣味に映ったのだけれど、そうなのだろうか。懐古趣味というよりも、目の前の身体以上に映像に映された身体こそリアルに感じる今日のぼくたちの認識こそがテーマになるべきで、しかし、今後東野作品のなかでそうした事柄が展開されるかもしれないという予感を強く受けた公演だった。

2010/08/01(日)(木村覚)

プレビュー:平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)『森の奥』/東京デスロック『2001-2010年宇宙の旅』

平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)の『森の奥』がおすすめです。類人猿ボノボを人間化しようとする人間とロボットのお話。演劇は人間が演じなくても可能か?という問いに対する平田のひとつの解答が示されるはず。必見です。ただし、これはあいちトリエンナーレ2010の関連公演なので、名古屋に行かないと見られません。
もうひとつのおすすめは東京デスロックの『2001-2010年宇宙の旅』。音楽に大谷能生を迎え、即興という点で音楽と演劇は重なるところが多いのではないか、という問いが本作の発端だそう。どんどんクロスジャンル化していく今日の舞台芸術において、そうした姿勢が表明されているということは、期待したくなるというものです。しかし、これも会場は富士見市文化会館キラリ☆ふじみなので、都心からは離れています。いっそ8月は旅心とともに観劇してみてはいかがでしょう。

2010/07/31(土)(木村覚)