artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

快快『SHIBAHAMA』

会期:2010/06/03~2010/06/13

東京芸術劇場小ホール[東京都]

とうとう快快の代表作が誕生した!「ポスト演劇」(という名称がふさわしいかわからないけれどさしあたり)の一歩が踏み出された記念碑的作品になるだろう。落語の名作「芝浜」をベースに、テレコ片手に役者はポーズをただ決めているだけで代わりに片手で握ったテレコのテープが「芝浜」を語ってしまう、そんな上演形式をとる冒頭の場面にはじまり、計5パターンの形式を通して物語が語られてゆく。そもそもお話しはフライヤーに書かれていたりして、あらかじめ観客は知っている(ことになっている)。大事なのは、その物語をどう情報化し、情報化したうえでどう観客たちと一緒に遊ぶかということ。次は役者たちが踊るなかDJによってラップで語られ、すると今度は「芝浜」の主人公・くまさんの生き様一つひとつ(「寝てばっかり」「遊んでばっかり」「偶然お金を拾う」etc.)をコーナー化しながら、その都度役者が実演したり(「寝てばっかり」のコーナーでは首を絞めて役者が本当に失神=睡眠した)、あるいはゲームでくまさんの状況を観客に追体験させたりした(「遊んでばっかり」のコーナーでは巨大スクリーンにシューティング・ゲームを映し観客がプレイし、「偶然お金を拾う」では勝ち抜きじゃんけん大会を観客たちが行なった)。その後、役者たちが「芝浜」を3日かけて研究したその成果を語り、最後は、すべてがマッシュアップされて混沌と化し、こうアゲてしまっては下がらない(落ちにならない)という落ちで終幕。アッパーへ向かうほかないところが、よかれ悪しかれ快快のパーティ的なセッティングと痛感。毎回異なるゲストを複数呼んで行なわれる公演=パーティは、集まったことそれ自体が引き起こす盛り上がりへと向かってゆくと同時に、無意味な人力の高揚は、隠しようもなく引き潮のごとく次に現われるダウナー状態を必然的に含みもっている。ダウナーを体現していたのは山崎皓司で、ガチでボクシングするコーナーで勝ってしまい相手の鼻血姿に暗くなったり、フィールドワークで「3日飛び」(3日寝ないことでトランスする遊び)で勃起不全になった話をし、大いに失笑を買った。「アゲ」るか「サゲ」るかしかないという状況、それは快快(という劇団名が基本的にアゲ志向なわけだけれど)のアイデンティティを語っている気がした。いやしかし、注目すべきはこれだけではない。役者が役を演じることで物語を可視化する以外に可能な複数の上演の方法を提示しながら、見る者のうちに「芝浜」の世界が染み渡ってゆく。単純にいって計5回の上演を一度に見たわけだから、染み渡るのも当然といえば当然だ。何度も何度もリミックスして物語をリプレイする。そのやり方こそ今作の快快が試みた表現の核心に他ならず、その遊びが演劇というジャンルの輪郭を大きく揺さぶっているのは間違いなく、さて、この激震が今後どういう次の展開を巻き起こすか、快快の、そして「ポスト演劇」のさらなる展開に注目していきたい。

2010/06/12(土)(木村覚)

プレビュー:快快『SHIBAHAMA』

会期:2010/06/03~2010/06/13

東京芸術劇場 小ホール1[東京都]

6月は快快の『SHIBAHAMA』をお見逃しなく。彼らのつながり欲求は近年ますますどん欲になっている。昨年末の『快快のGORILLA』で催眠術師や岡田利規を招いたイベントはもちろん印象的だったし、今年春の蓮沼執太との交流も記憶に新しい。人間とのつながりだけでなく、演劇というフォーマットのなかに、多様な表現方法や素材を集めてきては放り込む雑食性も彼ららしいところ。本誌にすでに書いたように、本作のショートヴァージョンの上演を見たのだけれど、その際には、落語『芝浜』がラップとつなぎ合わされ、さらに客席は花見というかキャバクラを模した空間になっていた。今回の本公演では、さらにバンドも出演するらしいので、さらに一層のつながり状態が生まれてしまうに違いない。ここまでくると、演劇というよりは情報誌? 世界のさまざまな素材をレイヤーにして束ねてみたら、そこからなにが見えてくるのか? ぼくは彼らに現代におけるミュージカルの可能性を追求して欲しいなんて気持ちもあって、いままで以上に広範な観客層に訴える作品になることを大いに期待したい!

2010/05/31(月)(木村覚)

チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』

会期:2010/05/07~2010/05/19

ラフォーレミュージアム原宿[東京都]

今年の冬の公演『わたしたちは無傷な別人であるのか?』と比べポップで軽快、手慣れているという印象を受けた。現在の岡田利規の力量のすごさと映る一方、ほころびのなさゆえだろうか、観客の心が舞台に入り込む隙を感じなかった。3本の短編がタイトル通り並ぶ構成。非正規社員が送別会の幹事を任され愚痴れば(「ホットペッパー」)、正規社員もクーラーの温度設定にストレスを感じると愚痴る(「クーラー」)。最後は、彼ら正規社員と非正規社員が集う場(朝会?)で、明日は他人となる送別会の主役がその場の誰にもほとんど関係ない内容をえんえんとしゃべり続けた(タイトルに従って「そして、別れの挨拶」の部分といえようか)。すでに単独で上演されている前者2作は、セリフとは無関係に(とはいえもちろんセリフが被さってそれに動機づけられた振る舞いが消えることなく)音楽に合わせて役者が身体を繰るところなど、いくつかの新しい要素が付け加えられていた。今回とくに音楽と演技の絡み合いが緊密で、それは演技より音楽のほうに引きつけられてしまうほど音楽が強かったということも含めてそうで、演技はときに音楽の添え物に映ることさえあった。岡田の関心が音楽に強くあるということなのだろう。元々の独特なセリフ回しも若者言葉というより岡田的言い回しととらえたほうが納得できるわけで、近年のチェルフィッチュは岡田の趣味が彼の方法と同じくらい鮮明になってきている。それはいいことだ、岡田演劇には傍若無人な無謀さ凶暴さこそ求めたい。ところで、本作のテーマは「労働」より「独り言」だったのではないか。であれば『わたしたちは~』は誰かの「独り言」が他人に侵入し感染する事態に迫っていたことを思い出さずにはいられない。それと比べると、本作の独り言(すべてのセリフは聞き手に届けようとの意志が弱く独り言に見える)は誰によるものであれ純然たる独り言であり、ほかの(役の)誰かの内に(また見る者、少なくともぼくの内に)侵入し傷つける力が希薄だった。

2010/05/19(水)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『春の祭典』

会期:2010/05/14~2010/05/16

シアタートラム[東京都]

冒頭に、スーツ姿の大橋可也が頭にミッキーマウスの(『ファンタジア』の魔法使いの)帽子をかぶって登場したときには、思わず爆笑してしまった。そうかそうきたか、と。大橋=ミッキーが指揮棒を振る。次に、彼に似た格好の男を呼び出し、帽子を被らせ同じような振る舞いをさせると、50人近い人々が舞台空間に登場した。彼らは耳にイヤフォンをしていて、シンプルな振りを(恐らく)耳からの指令で実行してゆく。大橋作品の特徴として、振付家=指令者(大橋)を舞台上に登場させる(ないし意識させる)ところがある。大橋はたいていの公演で上演の最初と最後に出てきて観客に「はじめます」「終わりです」と挨拶する。またその間は観客に見える場所から舞台を監視していることが多い。大橋作品が多くのほかのダンス作品と比べてクールで現代的な面があるとすれば、「誰がこの場の支配者なのか」という問いを作品の一部にしてきたところだろう。今回、その大橋がミッキーに化けて出てきた。現代のエンターテインメントにおける最強の魔法使いこそ、大橋の想定する闘争相手というわけだ。50人近い人々はやがてしかばねのように倒れ、大橋たちに片付けられると、今度はグループ・メンバーたちによる舞台がはじまった。日常から切り取ってきたような短い動作は、見る者の個人的/集団的な記憶を呼び覚ます。そうした動作があちこちででたらめに展開しているようで、不意にはっとするようなコンポジションをうみだしもする。無精ヒゲの男が次々と人々を襲ってゆく場面などもあり、まさに(秋葉原通り魔事件の)記憶の断片をまさぐられている気がした。ラストでは、支配者である大橋が犠牲となって集団リンチをうける。いまの日本お得意のリーダーを叩くお祭り? とはいえ、場のルールを設定する立場としての支配者を社会や舞台から追放すればそれでよし、とは簡単にはいえまい。むしろ見る者の記憶にアクセスしその浄化を画策するかに見える大橋的魔法使いと、記憶の忘却をはかり空想へと見る者を誘うミッキー的魔法使いとの闘いこそ焦点となるべきだろう。その闘いのドラマの片鱗は本作で見えた気がした。

2010/05/15(土)(木村覚)

壺中天『オママゴト』

会期:2010/05/01~2010/05/16

大駱駝艦・壺中天[東京都]

本作の振付担当でもある田村一行は夏の学生服の格好で現われると、洗面台にて手を洗う。すると後ろのほうに不意に魚の頭をした怪物が二頭。日常のなにげない瞬間に、空想への入口がぽっかりあいた。冒頭、この怪物たちに次第に巻き込まれてゆくまでに見せた、日常と空想的な世界とを往還するかのようなソロダンスが素晴らしかった。自分のなかから出てきていながらはっきりと自分のではないといわねばならない、そんな動きのきっかけから生みだされるダンス。それはまた、村松卓矢や向雲太郎のような男の子的な強さで魅了する振付とは少しニュアンスが違う、巧みに制御されたやわらかさやうつくしさが盛り込まれていた。それが顕著だったのは女性たちのシーン。女たちが4人、白塗りでときおり白目をむくなど舞踏的なテイストは濃厚であるものの、よく見たらおだんご頭で、表情も会場のある吉祥寺の街に歩いていそうな雰囲気が漂っている。村松や向の舞台で白塗りの男性ダンサーたちが不意にリアルな若者集団に見えることがあるのに似て、彼女は空想の隙間から現実の女の子をチラチラと見せていた。丸太を担いだときは「森ガール?」とまで連想が膨らんだが、威勢よく大きな音を立てて丸太を倒すと、男たちとともにやぐらを組み立てはじめた。現代の女の子/男の子であり、空想の怪物であり、習俗のなかの女/男にも見えるダンサーたち。現実と非現実、現在と過去とがダイナミックに接合と分解を繰り返した。

2010/05/15(土)(木村覚)