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木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:ダンス企画おやつテーブルVol. 5『板間の間』/ローザス『ツァイトゥング』/黒沢美香『起きたことはもとにもどせない』ほか

11月に注目すべき筆頭は、ダンス企画おやつテーブルVol. 5『板間の間』(2009年11月6日~8日@lucite Gallery)でしょう。毎回、ユニークな空間にその場所ならではのダンスをふるまってきた世代の異なる女子たち。日常の空間だからこそ見えてくるデリケートな世界がとても魅力的なのです。今回は、レギュラーメンバーの岡田智代、おださちこ、木村美那子に新人赤木はるかが参加。舞台芸術のライターでもあるまえだまなみが出演/演出。

ローザス『ツァイトゥング』も彩の国さいたま芸術劇場(2009年11月27日~29日)でありますが、『起きたことはもとにもどせない』(2009年11月25日~12月6日@こまばアゴラ劇場)という公演タイトルで黒沢美香&ダンサーズが行なう連続作品上演も必見です。黒沢を知らずして日本のダンスを語るなかれ。フェスティバル/トーキョー09秋も要チェックですけれど(とくに庭劇団ペニノ!)、今月中には『HARAJUKU PERFORMANCE + (PLUS)2009』のチケットとっておいたほうがいいかもなー。

2009/10/31(土)(木村覚)

菊地成孔+大谷能生『アフロ・ディズニー』

発行所:文藝春秋

発行日:2009年8月28日

映画によって視覚が、レコードによって聴覚が、それぞれ自律した二十世紀。菊地+大谷は、この2つの記憶装置に「感覚が統合された後には絶対に思い出せないはずの、乳幼児期の『認識の分断』状態」を見る。二十世紀は、夢の記憶に似た、幼児期の経験の記憶が映画とレコードによって反復される時代。なるほど、ならばトーキーは、視覚と聴覚を再統合することで、この記憶を忘却する装置なのである。本書の白眉は、この再統合のあり方を通して(彼らはそこに「マリアージュ」という言葉もおき添える)、二十世紀以降の芸術、ポップカルチャー、文化現象が分類・分析されているところだ。しかも、それは優れたダンス論として読める。タイトルの「ディズニー」は、ディズニー初のトーキー『蒸気船ウィリー』を例に挙げながら、視聴覚の過剰なシンクロ(「ミッキーマウシング」という用語があるそうだ)の象徴として用いられている。対して「アフロ」は、「揺れ」と「ズレ」の象徴。この議論がとくに菊地によって〈なぜランウェイではハウス系の音楽が求められ、しかもモデルたちはそのビートを適度に無視するのか〉という問いへと展開する。その音楽とウォーキングのズレについて彼らは、北朝鮮のマスゲームがその完璧なシンクロによって永遠の価値=モード変換の拒否を示すのとは対照的に、ファッションショーの時空では、複数のモード(例えば、音楽とウォーキングのモード)が交差し、しかも見る者と見られる者という異なる立場の者たちの交差する「社交」さえもが発生しているのだ、と説く。きわめて刺激的な問題提起だ。ただし、本書の整理では、シンクロ=ダンスとあるのだが、むしろこうした「社交」の「ズレ」「揺らぎ」こそ、今日のダンスの優れた作家たちが模索している焦点にほかなるまい。(彼らも承知のことだと思うが)この点は付言しておきたい。

2009/10/30(金)(木村覚)

神村恵『次の衝突』

会期:2009/10/16~2009/10/17

現代美術製作所[東京都]

身体の内側に向けた新たなアプローチは、手塚夏子との交流を通じて得たものなのだろうか。ただ立っているだけでも痙攣的な運動が身体のあちこちで明滅して目が離せない。意志をもって動く身体のなかに顔を覗かせる、勝手に動いてしまう身体。白いギャラリースペースの隅。扇風機がある。それだけの空間のなかで神村が見せるのは、純粋にダンス的な瞬間としかいいようのないなにか。枠を設定し、その裏をかく。「枠」などと言ってみたが、見ればすぐに感じられるほどわかりやすくはない。それは「意図」と言い換えてもいいかもしれない。時間が進むと、見る者の内に神村の動作が堆積してゆく。そこには、この「枠」「意図」と、それらからの逸脱の軌跡が山と積まれる。シンプルな作業ではある。ただし、あらゆるものが意図となりえ、あらゆる次の時間はそれをかいくぐる「裏」となりうる。その無数の可能性を丹念に探りつかみ取ってゆく頑固な知性が神村の魅力で、例えばそれは、終幕頃に突如椅子ごと舞台空間にじわじわ侵入し、すっと立ち上がると、お喋りを始めてしまう岸井大輔の起用にも感じる魅力である。会場では、小林耕平と福留麻里と共作した映像作品が上映されていた。そこでも枠の無数の生成と崩壊があちこちで起きていて、スリリングだった。

2009/10/16(金)(木村覚)

小林耕平「右は青、青は左、左は黄、黄は右」

会期:2009/09/26~2009/10/24

山本現代[東京都]

2作の映像作品と数点の絵画作品。映像作品における小林耕平の最近の特徴は、自分が出演してカメラを他者に委ねているところ。「セッション」と言えば聞こえはいいが、カメラマンが小林の言いなりになることなく、むしろ小林とは別系統の意志が映像に映り込んでいる。頻繁に主人公から気を逸らすカメラ。舞台は、どこでも見かけそうな郊外の公園と造成地。自転車に乗ったり、ビンやビニール紐や枝切り鋏を手にしたり、小林と小さなオブジェたちは空間に散らばる。そうしたことどもが画面上でおのずと「構図」を発生させる。そこにあるのは絵画? しばしば首がフレームアウトされ撮影される小林の身体は彫刻? 環境音は音楽に思われ、カメラマンの気まぐれで突然ズームアップが始まると、そもそもこれは映像作品だと我に返る。きわめてシンプルな映像のなかに多様な芸術ジャンルの問題が掴み出されて提示されている。そのことになにより驚愕した。時間芸術である映像作品ならではの豊かさを見た。もうひとつ気づかされたのは、なに気ない景色にも無数の見所があること。きっと小林は日々、なに気ない日常から多様なイメージを拾う作業をしているのだろう。そんな眼差しをあちこちへ投げかける身振りが小林の絵画作品からも感じられた。

2009/10/14(水)(木村覚)

青年団リンク ままごと『わが星』(作・演出:柴幸男)

会期:2009/10/08~2009/10/12

三鷹市芸術文化センター[東京都]

□□□(クチロロ)三浦康嗣の担当した音楽が効果的だった。舞台床に直径5メートルほどの白い円があって、終始、その周囲を役者たちが何十回と回る。台詞は三浦のリズムにあわせてラップのように語られる。ラップ・ミュージカル? タイトル通り、「地球」や「月」を象徴するキャラたちが家族の物語を紡いでゆく。セカイ系というかウチュウ系。ダイナミズムは空間のみならず時間に対しても与えられていて、誕生日が1年ごとにやって来るサイクル、おばあちゃんと主人公の間で示される生と死のサイクルなど大小の時間サイクルが、開演から終幕まで舞台が進んでゆくそのリアルな時間も時折意識させながら、描かれてゆく。プラネタリウムに(「ちびまる子ちゃん」のような)小市民の物語が貼り付けられていると言えばいいか。不思議な躍動感に心が揺さぶられた。

2009/10/12(月)(木村覚)