artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
ヤン・ファーブル『寛容のオルギア』
会期:2009/06/26~2009/06/28
彩の国さいたま芸術劇場[東京都]
「欲望のカリカチュア、21世紀のモンティ・パイソン」がキャッチフレーズ。なるほど、冒頭、白い下着の男と女は、テロリストらしい存在を脇に、ひたすらマスターベーション競争を続ける。股間をシェイクし叫びを上げるといったオルガスムなしの単なるポーズは「マスターベーション」を誇張し記号化する。西洋風のギャグと受け入れ爆笑する観客もいる。「権力の時間ですよ」と役者が観客に向けて語りかけると、消費社会、テロと戦争、左右の政治、性差に基づく暴力などの記号が、じつに戯画的に、舞台に呈示される。そうした仕掛けは、日本の若手演劇のデリケートなアプローチに慣れたぼくにはずいぶん単純で古めかしく映った。人間を束縛するステレオタイプ・イメージを舞台に上げることは、ステレオタイプのイメージに無批判に浸かってしまっている人間たちへの批評になりうると同時に舞台のステレオタイプ化も助長する。ミイラ取りのミイラ化(ステレオタイプ化する批評性)は、それもまたギャグ?と笑えればよかった。けれど、正直ぼくは楽しめなかった。
終幕に近づき、延々とマスターベーションのポーズをとらされた役者たちが「ファック○○!」とあちこちへ不満をぶちまけると、ファーブルも日本人の観客も批判のやり玉にして、その後彼らは、真の自慰行為としてしばらく即興的なダンスを踊った(ダンスってナルシスや自慰そのものだなあとあらためて思わされた)。役者二人が「じゃあ、上野公園へアイスクリームでも食べに行こう……そこにオルガスムは?」とおしゃべりして終幕。社会の権力への批判が演劇の権力への批判へスライドし、さらに演劇の外へと飛びだそうとするラストから推察するに、ファーブルは「演劇の終焉」(演劇やめた!)を宣言しているように見えた。「寛容のどんちゃんさわぎ」のなかでもっとも寛容さを発揮したのは、こうした袋小路への道程につき合った観客だろう。
2009/06/27(木村覚)
ミクニヤナイハラプロジェクト vol.4『五人姉妹』
会期:2009/06/25~2009/06/28
吉祥寺シアター[東京都]
「延々に続けばいいのに」と思わされるか否か、ぼくにとって「傑作」かどうかの基準はこれなんだけれど、『五人姉妹』は傑作だった。五人のかしましい姉妹と一人の召使い男子。姉妹の一人春子は6時間しか起きていられず一日18時間は眠り姫。キャーキャーギャーギャー、激しい身ぶりを交えてほとんど聞き取れないガールズトークはマンガによく出てくる図形化したオノマトペ(擬声語・擬音語)みたいにポップ。と思うと、舞台の4つの白いキューブは、可動式で家の間取りを表わしながら、空間を均等に区切っていて、まるでコマ割。キャラや衣装は岡崎京子テイスト? マンガを舞台でやるという発想と思えば、とてつもない早口も、吹き出しを早読みする感じに似ていて楽しくなる。
激しいといえば、春子を起こそうと全員が体育用の笛を「ビャー」と吹くときの、耳が聞こえなくなりそうな感じや、春子が起き出してくるときに長い間真っ暗闇のまま舞台が進行する演出方法もじつに激しい。けれども、そうしたアイデアも、すべては演劇の効果として上手く機能していて不快ではない。物語は、つい先日の大叔母の死と、彼女たちにとってもっと深刻な17年の経つ母の死へと向かう。春子が危うく交通事故死しかけたところを助けてくれた男は、じつは母なのではないかと推測し出すクライマックスは、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』を思い出させた。最後に、かしましさで埋めようにも埋められない大きな不在を示し、演出の才能のみならず戯曲作家としての力量を矢内原は見事に見せつけた。
2009/06/25(木村覚)
ラボ20 #21
会期:2009/06/20~2009/06/21
ST spot[神奈川県]
1997年に始まり今回で21回目となる「ラボ20」は、毎回キュレーターを置き、10分程度の作品が審査を受け、そこから選ばれた若手作家がキュレーターからアドバイスを受けながら、20分ほどの本番の作品を仕上げてゆくという企画(「ラボ20」とはこの20分の作品時間を指す)。新人育成機能を果たしてきたこのイベントから羽ばたいていった作家は多い。ニブロール(矢内原美邦)、康本雅子、快快、大橋可也&ダンサーズ……。今回のキュレーター手塚夏子も「ラボ」出身。彼女が出演した回では、ボクデスの小浜正寛もいた。
今回出演は5組。辻田暁、下司尚実、柴田恵美、井上大輔、石田陽介+松原東洋。非常に丁寧に自分独自の運動(ダンス)を模索する、そのさまは共通していて、安易な受け狙いではないところは感銘を受ける。けれど逆に言えば、そうした点以外では評価しにくい作品ばかりだった。物語性は希薄で、展開を求めず、故にミニマルで、独自の動きの動機(ルール)を設定しようする点も共通で、その傾向は問題ないのだけれど、そのルールをある程度わかりやすいかたちで観客に共有できるようにしなければ、観客はただの傍観者になるしかない。石田と松原の「二人は雲の中」は、タイトルの印象と異なり、〈キスとかの濃厚な接触をしそうになる二人がどうにかそうしないで時間を進ませる〉というルールが明確で、他の四作品よりも見る側はアクセスしやすかった。とはいえ、二人がキスするかどうかなど、正直観客にとってどうでもいい事項。わくわくする作品はなかった。そのぶん、こうした新人公演の意味について考えさせられた。
一定の水準には達していないとしても、発信したいという欲求をもてあましているひとは多い。その受け皿として、美術のGEISAIにあたる無審査のイベントがダンス、パフォーマンスの分野にあってもいいのかも知れない。「ラボ」よりももっと気楽な、5分から10分くらいの作品を立て続けに上演する、ゴングショー的な公演。そこでもやはり観客は蚊帳の外に立たされるのかも知れないが。
ラボ20 #21:http://stspot.jp/finished/lab20-21.html
2009/06/20(木村覚)
プレビュー:ミクニヤナイハラプロジェクト『五人姉妹』/『ラボ20#21』
[東京都]
6月のダンス、演劇の公演数は少なめ。
ミクニヤナイハラプロジェクト『五人姉妹』(6/25~28@吉祥寺シアター)は、大いに期待したい一本。ダンス作家・矢内原美邦(ニブロール)が同時並行的に進めてきた演劇プロジェクトの最新版。昨年のワーク・イン・プログレスとしての同作品の上演は、時間を様式化するダンスの可能性と役者の個性を引き出す演劇の可能性が両方引き出されていた好演だった。今回の本公演は、演劇界にもダンス界にも大きな刺激を与えてくれるに違いない。
ミクニヤナイハラプロジェクト『五人姉妹』稽古場インタビュー1
その他、手塚夏子がキュレイターを務める『ラボ20#21』(6/20~21@STスポット)公演も気になる。『ラボ20』は、若手振付家を年長の振付家・批評家が育てるコンテンポラリーダンス界の重要企画。これまで、室伏鴻、桜井圭介、岡田利規らがキュレイターを担当してきた。ここから頭角を現わした新人は数え切れない(例えば快快もその一組)。今回5組の公演が準備されている。彼らがどんな公演をするのかのみならず、彼らに手塚夏子がどんな関わり合いをしたのかにも想像を膨らませてみたい。
2009/05/31(日)(木村覚)
室伏鴻×ベルナルド・モンテ×ボリス・シャルマッツ『磁場、あるいは宇宙的郷愁』
会期:2009/05/27
慶應義塾大学日吉キャンパス 来往舎イベントテラス[神奈川県]
昨年も同じ時期にこの会場でソロ作品『quick silver』を上演した室伏鴻が、今回はメキシコとフランスのダンサーをともなって現われた。室伏の真骨頂は即興にある。またしばしばそれは1人ないし2人のパートナーとのバトルである場合が多い。恐らく「舞踏はハイブリッド」を標榜する室伏にとって、共演者とのバトルには、思いもよらない〈複数性に満ちた場〉に自分をそして観客を誘いうるといった計略があるのだろう。タイトルの抽象性に対して、舞台空間はじつにダイナミックかつめりはりのあるものだった。テーブルに座る男三人がティッシュを引き出しながら顔に詰めてゆくシーンなどコミカルな場面が目立った。ずんぐりむっくりなモンテや若さと背の高さで凶暴に見えるシャルマッツにまじって、室伏はいつも以上に自分のフレームを変形させ、より幼児的な振る舞いを見せてゆく。そう、シャルマッツはじつに危なっかしくて、実際、室伏を蹴り飛ばしたり、テープでぐるぐる巻きにしたりしたのは印象的だった。そんななかでぼくのなかに浮かんだのが「エモーショナル」という言葉で、強烈な仕方で肉体の現前をアピールしようとするのは、最近よくみかけるあり方だな、と思うのだけれど、とりわけ即興的な空間に現われる「エモーショナル」な振る舞いは、パフォーマーの暴走振りについていけないという気持ちを観客に起こさせる。ぼくはそう思う。乱暴に振る舞うパフォーマーたちにいわば母親のような心持ちで見つめてあげられればよかったのかもしれないのだけれど、ぼくにはそれができなかった。
2009/05/27(木村覚)