artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
岡田利規 演出『タトゥー』(デーア・ローアー作、三輪玲子 訳)
会期:2009/05/15~2009/05/31
新国立劇場 小劇場[東京都]
父娘の近親相姦が物語の中心。不在と化してくれない父にうんざりする家族の絶望的な状況が描かれる。演劇界の内輪においてはインパクトのあるテーマや台詞回しなのかも分からない。けれども、正直、新鮮さを感じなかった。ローアーの特徴とされる「無名の人々へ寄せる痛みに似た思い」(新野守広『ベルリンの窓』パンフレット、p.14)は、ひと頃のベンヤミン・ブームの際に語られまくったクリシェ以上には感じられない。こうした「痛み」を自ずとステレオタイプにし、これを語ればなにかを語ったことになるなどと思いなす無邪気な思考に基づいた荒唐無稽な形式こそ危険なはずで、そうした形式を批評していかない限り、「思い」はなんら在るべき実質を持ちえない気がする。
岡田利規は戯曲をポップなものへと変貌させていた。岡田の舞台は音楽に似てきている気がする。家族の会話は、極端な棒読み。冷え切った家族の表現であるとして、いつの間にか初音ミクが喋っているかのように聞こえてくる。娘を救い出そうとする青年が娘と執拗に続けるキスは、舌と舌が接触するだけ、奇妙で人間的じゃない。けれども、不思議にエロティックで、その反復のリズムはきわめてポップ。時に応じて上下動する、美術作家・塩田千春がドイツで収集した大小の窓枠、テーブル、椅子、ベッドの間を、岡田のアイディアが飄々と泳いでいた。
2009/05/22(木村覚)
スティーヴ・パクストン+リサ・ネルソン『Night Stand』
会期:2009/05/17
スパイラルホール[東京都]
パクストンは、体を接触したまま二人組で踊るC.I.(コンタクト・インプロヴィゼーション)の創始者として有名だけれども、70年代以前は、カニングハムのカンパニーに在籍していたり、ジャドソン・ダンス・シアターに参加したりとアメリカのモダンダンス以後の展開を全身で生きたひとだ。肉眼で初めて見た彼の身体は、マリオネット人形のようにフワっとしていて自由自在。派手な動きはない。胸の辺りがしっかりと核をもち、そのうえで全身が揺れ、全身が見所となっている。最初の5分で打ちのめされた。70才の老体は、大野一雄のことも想起させた。いや、大野はパクストンに比べれば微細さに欠ける。ならばもし土方が生きていたら?などと思って見ていると、舞踏にはない独特の構造的性格が気になってきた。空間を数学的に分割してそれにしたがって移動しているように見える。縦、横、前、後、上、下……。共演のリサ・ネルソンは、パクストンのリズムに応じながら、彼とともに時空を埋めてゆく。旅館の浴衣で額にティッシュ箱を括りつけたり、箱からティッシュを取るとネルソンの体の上に並べたり、即興的な時間が続く。ものとひとがともに自分の身体性を表出している。あわてず丁寧につくりだす時間は、往時の「ポスト・モダンダンス」のかたちを示してくれている気がした。
2009/05/17(木村覚)
Chim↑Pom「捨てられたちんぽ展」
会期:2009/05/16~2009/05/17
ギャラリー・ヴァギナ(a.k.a. 無人島プロダクション)[東京都]
Chim↑Pomの磁場に入り込むと、ひとは冷静ではいられなくなる。高名な美術評論家が完成作を見る前に美術作品とは到底言い難いと断定したり、ぬるいお騒がせ野郎たちだと断言する美術関係者の口ぶりがなんだかぬるかったり、お手つきを誘発する魔力がある(Chim↑Pomの作品は非美術的というよりも、むしろ生真面目に美術史を参照しているように私には見える。この点で、美術批評、美術史研究の観点から冷静に検証すべきではないだろうか)。本作は、ひとを冷静でいられなくさせるという彼らの本質がそのままの姿で顔を覗かせた。比喩ではない。小さいホワイトキューブには一カ所だけ穴が開いてあり、そこから赤くて頻繁に形状の変化する体の一部がはみ出している。後ろに立つメンバーが無言で会期中(2日間)ひたすら一部を陳列し続けているというわけだ。会場に足を踏み入れると、観客や関係者達が酒盛りをしていた。飲まずにやっていられるか、といった感じ。なんであれが曝されているだけでひとは冷静さを欠いてしまうのだろう。あれは膨張と収縮を黙々と繰り返す。赤くなったり白くなったり忙しい。しゃべりかけるとジェスチャーで返してくる。彼らの名は伊達ではないのだ。ひとの隠している部分を露出させてしまう、それがChim↑Pomなのだ。そうした自分たちの本質をきわめて丁寧に説いた自己批評的作品。ギャラリーの隅っこでは「裸でなにが悪い」と公権力に声を荒げた中年アイドルの在籍するグループ5人分の表札が、本人たちの立ち位置に合わせて壁に掛けてあった(Chim↑Pomの過去作品)。
2009/05/17(木村覚)
神里雄大『グァラニー~時間がいっぱい』(キレなかった14才♥りたーんず)
会期:2009/04/21~2009/05/04
こまばアゴラ劇場[東京都]
〈日系のパラグアイ人〉という説明しにくいアイデンティティを生きる作家が描いた、自伝的な作品。面白かった。冒頭は、作家本人の反映である主人公の喫茶店での1人語り。自分を語る不確かさ、表現の不正確さを確認しながら、パラグアイに移ったばかりの、自尊心と自己嫌悪が混在する少年時代を振り返る。「誰も興味ないだろうが」と言いながら客に向かう矛盾に自嘲する場面がいい。自分を語り紹介するなんて日常でもよくすること。それが演劇化されるとむしろ気づかされるのは、ぼくたちの日常の演劇性。自分を語ることそれ自体の力をひらく神里の手つきはとても丁寧で、だからきわめて個人的なエピソードも他人事とは思えなくなる。夢と現実のギャップ。少年の魅力も惨めさもそこに集約される。エピソードは、「サザン」や「マテ茶」や「ビートルズ」や具体的な対象がどう他人と交わり、誤解や不理解を招いたかを明かすことで、味わい深さを湛える。演劇をちゃんとやっていると思った。
2009/05/05(木村覚)
柴幸男『少年B』(キレなかった14才♥りたーんず)
会期:2009/04/21~2009/05/04
こまばアゴラ劇場[東京都]
36歳の男が、少年時代を振り返る話。少年というものはいつも興奮している。興奮は、現実を正しく計る余裕を奪う。漫才師に憧れ真夜中に友達と練習し、昼間はクラスの合唱大会や女の子に夢中になっている。戯曲は、妄想と現実の曖昧な少年の生活を丁寧に浮き彫りにした。演出も冴えている。強くて超面白いと自分を思いこむ、その思いこみ(空想)を再現フィルムのように演じ、その直後、現実の時間が演じられる。何度かあったそうした上演のアイディアがじつに楽しい。猫の殺害事件や殺人事件が少年の周囲で起きる。自分の仕業かどうか判然としない。そもそも自分の輪郭が曖昧模糊としているのだから当然と言えば当然。その曖昧さはそのままに、気づけば大人になってしまったということに対する辛さ、それがとてもリアルに感じられた。このリアリティは、36歳の主人公演じる同年代の男優を14歳くらいに見えるリアル女子学生と共演させたが故に引き出されたものだろう。
2009/05/02(木村覚)