artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ハイバイ『て』

会期:2009/09/25~2009/10/12

東京芸術劇場小ホール1[東京都]

認知症の祖母が死ぬ。その出来事を軸に、精神的かつ肉体的な暴力を家族に与え続けた父親とその父に苦しめられ続けた家族(二人の息子、二人の娘、母)、それぞれの心の事情が描写されてゆく。
死がテーマの芝居を最近よく見るなあ。父というテーマもよく見るなあ。いまアゴラ劇場周辺の〈小さな物語を扱う演劇〉では、しばしば小さなグループのあり方が描かれる。すると、家族の関係とくにその中心となる(はずの)父親がどんな存在であるかが、重要なテーマとなることが多い。父の不在、父の非不在、いろいろなパターンがある、けれどもそれらは一貫して中心をめぐる演劇であり、その意味で『ゴドーを待ちながら』以後の演劇と言ってもいいのかも知れない。珍しく家族が全員集まった。その宴の場で井上陽水を歌う父のなんとも言えないイヤーな感じは、絶妙だった。全員の心を傷つけなおも居座る父の内に中心がない。なのにいばる、ふて腐る、ひょうひょうとしている。こんな父が描ける岩井秀人の力量に圧倒させられた。

2009/10/05(月)(木村覚)

プレビュー:神村恵『次の衝突』/岡崎藝術座『ヘアカットさん』/「踊りに行くぜ!!」ほか

[東京都]

神村恵の新作ソロ『次の衝突』(@現代美術製作所、10/16~17)は、神村とpotaliveの岸井大輔が出演(え、でもソロなんだよね!?)、美術家の小林耕平(国立近代美術館の「ヴィデオを待ちながら」に出展など)が神村と共作した映像作品も公演の前後に上映するという楽しみの多い上演になりそうで、期待大です。

春に『キレなかった14才♥りたーんず』でも活躍した神里雄大の主宰する岡崎藝術座が駒場アゴラ劇場にて上演する『ヘアカットさん』(10/16~25)も要注目です。

あと「踊りに行くぜ!!」がはじまります。東京以外の地域にお住まいのみなさん、近くで公演があったらチェックしてみて下さい。

2009/09/30(水)(木村覚)

神村恵+手塚夏子『毛穴の高気圧』(実験ユニット第4弾)

会期:2009/09/26~2009/09/27

Art Center Ongoing[東京都]

実験ダンス界(?)の孤高の女王・手塚夏子とミニマル傾向のダンスのなかでもっとも注目されている神村恵とが実験公演を重ねている。今回は、2人はテーブルを挟んで「手塚さんて緑色好きだよね」などと他愛のない会話をし(色をめぐって服の話、バッグの話、シャンデリアの話などと続く)、3分ほどでブザーが鳴ると、その内容を(一字一句同じというのではなく)何度も繰り返す。手塚の「プライベートトレース」が過去の自分(あるいは他人)の映像をトレースしたなら、これは話のトレース。ひとが言葉を発するときに発生しているはずの厖大な出来事の束。過去を思い返し、言葉を選び、その言葉がどう他者に届いたか確認し、言葉を修正し、そのあいだに、あせったり、くいさがったり、とぼけたり、それもわざとだったりたまたまだったり体が動く。あるエピソードが2回、3回と語られると同じ内容なのに微妙な言い回しの変更や言い足しなどが発生する(台本のある演劇とは異なるところだ)。そのズレに、ひとの振る舞いに普段は隠れている多様な可能性たちが見えてくる。喋っているあいだには、神村は手塚がよくする突発的な身体のつっぱりを起こしたり、手塚はある回では異常に暗く閉じた風で会話したりするのだがそのルールはよくわからない。とはいえ、会話(発話、言葉)に注目したことで、2人のダンスの可能性がぐっと広がる予感がした。

2009/09/26(土)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『深淵の明晰』

会期:2009/09/22~2009/09/26

吉祥寺シアター[東京都]

「明晰」三部作と称したシリーズの三作目。今作で「明晰」に大橋が込めた意味合いがようやくわかった。余計なものを排して、形式だけが残った状態。そうした明晰なダンスが明かすのは、舞踏にルーツをもつ作家らしい闇。「暗黒」と呼ぶほど濃密ではない、いわば都会の公園でベンチ下にできる影のような薄闇。壺中天のメンバーたちが暗黒舞踏印のモチーフやキャラをおもちゃのように遊ぶのとはまったく異なる、外見上は舞踏的ではないけれども、リアルすぎてひとが必死に見ないように努めている日常の薄闇。この薄闇を舞台に置くこと。ここしばらく大橋が試みてきたことがそれだったのならば、彼の目論見はただただ純粋に「今日の舞踏を上演すること」にあった、といえるのではないか。薄闇はどこにあらわれる? 大橋は、不意に後ろに気配を感じる、後ろから引っ張られる、後ろにひっくり返る、そんな「背後」から起こる出来事をダンサーに踊らせた。それに徹底したのが見事だった。ダンサーたちは、電車の中や街中で出会うひとが恐ろしく空虚だと感じるときに似て、なにかが抜かれているようでからっぽだった。fooi(舩橋陽、大谷能生、大島輝之、一樂誉志幸)の演奏もよかった。舞台奥に巨大なスクリーンが吊ってあり、舞台裏の廊下のベンチが映るとそこにも舞台から出たダンサーが現われた。映像のなかの身体と舞台のなかの身体。どちらも等しく、軽く薄い。大橋が見つけたこの「今日の舞踏」が、「メンヘル」の闇も「格差社会」の闇も抱え込みしかもそこからさらに突き抜けて、すべてのひとの背後に潜む薄闇を見る者に意識させ、それだけでなく、薄闇の深淵をのぞき込むことが楽しいと思わせることができるか、ようするに、この舞踏にどうひとを誘惑し、魅了し、引き込むことができるか、いまの大橋の課題はほとんどそこにしかない気がする。

2009/09/26(土)(木村覚)

ヤスミン・ゴデール『Singular Sensation』

会期:2009/09/23~2009/09/24

青山円形劇場[東京都]

なんかファッション誌のモデルみたいな痩せた男の子だなと思ったら、突然、舌を「ペコちゃん」みたいに唇の端にぺろっと出した。冒頭のこのポーズがやっぱり雑誌で見かけるクラブでのスナップみたいで、チープでリアル。センスあるなあというのが最初の印象。女3人と男2人。ひとりの小さな妄想が周りを巻き込む遊びへと発展してゆく、その繰り返し。軽い身体が繰り広げる、チープなイメージ断片の乱射。パーティ・ピープルの悪ふざけだったら、快快(のある部分)と似ているかもと連想するが、違うのは快快が観客とのコンタクトをつねに図ろうと画策しているのに対して、この舞台は、悪ふざけのダンス作品化が目指されているところだ。とくに70分ほどの公演のラスト15分、ゼリーや絵の具が出てきて、ドロドロ、グチャグチャがどんどんエスカレートする。それに反比例して、見ているこっち(少なくともぼく)は醒めてしまった。なんであんなにはしゃげますかね?ドラッグもなく(ぼくの目がメディアにやられているだけですかね)、と思ってしまった。「上げる」ことで舞台をつくる常套手段を用いるなら、なぜ上がるかの理由が必要だし、上がった自分が他人(観客)と何を取り交わそうとするのかについて明確なアイディアが必要なはずだろう。

2009/09/24(木)(木村覚)