artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
Monochrome Circus+じゅんじゅんScience『D_E_S_K』
会期:2009/07/20~2009/07/26
こまばアゴラ劇場[東京都]
関西を中心に活動するMonochrome Circusと元「水と油」で活動していたじゅんじゅんがテーブルをテーマに4本の作品を上演。ぼくが見たのはその内の3本、その内の2本について。
『まざはし』(振付・演出:坂本公成)は、100本程の食事用ナイフが載ったテーブルがあり、その上に女がその下に男がいて踊る作品。どうしても(どういうわけか)机の外に出られず板に頭を押し付けて逡巡する男に、アズキ色の薄地ワンピースの女は基本的に無頓着。女が蹴り飛ばし床に散らばるナイフは、両者の関係を淡く彩る。けれど、強く惹きつける何かは出てこない。鴻池朋子の絵画世界に似て非なる感じ。変身があったら、物語が寓話へと転換したらどうなるかと思って見ていた。
『deskwork』(じゅんじゅん)は、彼の技であるパントマイムを用い、黒い床に照明がつくる四角をテーブルに見立てる。「騙される」ところにパントマイムの魅力はある。そのトリックに溺れたい見る者の欲求をもっと叶えて欲しかった。〈あるもの〉から〈ないもの〉を見みせるマイムの〈ないもの〉を生み出すために身体を拘束する構造がきわだってきたら、マイムともダンスとも演劇ともいえないなんともユニークな方法が生まれるはずで、きっとそこに目標はあるに違いなく、そのためにこそ騙しのテクを徹底的な仕方で示して欲しかった。
2009/07/26(日)(木村覚)
手塚夏子『人間ラジオ2』
会期:2009/07/25~2009/07/26
die pratze[東京都]
超難解、なのに見続けてしまう。手塚夏子が主催する「実験ユニット」の第3弾、音楽家・スズキクリとの即興公演。「チューニングを調整する、その調整することそのものの中に異様にダンスを感じる。音楽を感じる」(プログラムより)のがテーマ。「チューニング」とは外のものと自分との関係を意識することらしい。確かに、椅子が2脚あるだけのきわめてシンプルな舞台で、座ったり歩いたりする手塚の身体は、表現するというより感じる身体に映る。シンプルな動きのなかに微細な切断が含まれている気がする。「切断」に見えるところに「チューニング」の作業がなされているようだ。ただし「チューニング」といっても合わせることが目標ではい。むしろ「調整する」作業それ自体が舞台の時間をつくる。「あれかな?」「これかな?」と、スズキクリも幾台かの小型ラジオを抱えて何度も置き直す。「超難解」さは、2人が何をどう調整しようとしているのか判然としないところに原因がある。いま「あれかな?」「これかな?」と書いてみたけれど、そこでの「あれ」や「これ」が何なのかが見る者に理解が及ばないのである。しかし、それにもかかわらず、見る者は放って置けず、見ないことができない。こうした手塚の「身体とは一体何者なのか?」という問いは、身体を「キャラ化」して自己の媒体としか受けとめようとしない今日的身体観の主潮流と対比すれば絶対に劣勢なのだけれど、そうであるだけにとても貴重で、今後、見過ごされた身体を丁寧に反省しようとの気運が盛り上がったときには重要になってくる仕事となるだろう。
2009/07/25(土)(木村覚)
金魚(鈴木ユキオ)『言葉の縁(へり)』
会期:2009/07/24~2009/07/26
シアタートラム[東京都]
90分、息つく間もないテンション。鈴木ダンスの到達点を見た。彼の暮らす藤野の森のような静寂(トム・ウェイツが冒頭曲)は、同時に社会から隔絶された野性的な世界で(大きな枝やカモシカの角が効果的に舞台を飾る)、暴力に満ちている。荒涼として美しく、官能性に満ちた舞台。「官能性」とは、目が合えば衝突してしまう男たちや足を拡げて身を沈める女たちの仕草などに不意に薫るというだけではなく(それはそれで繊細でありとても美しいのだけれど)、徹底的に鈴木の振り付けをダンサー全員が身体化しているという至極ダンス的な事態から醸し出されているものなのである。ダンサーを鍛えるとは、こうしたことなのだろう。身体が振りを結晶させる媒体となって、みずからを殺す。そこに生命が煌めく。言葉が内と外を結ぶ道具だとすれば、その縁はやはり内を外と繋ぐ道具である身体と接触しているに違いなく、鈴木はきっとその接触をとらえようとこのタイトルを作品につけたのだろう。まさしくその接触の瞬間がこの作品に起こったかは定かではないけれども、身体が内を外と繋ぐときに起こるそのひりひりとした感覚は存分に味わうことができた。
2009/07/24(金)(木村覚)
大駱駝艦・壺中天公演:村松卓矢『穴』
会期:2009/07/01~2009/07/12
大駱駝艦・壺中天[東京都]
白塗りの若い裸体はダンサーというより異世界の怪物みたいで、村松卓矢はその怪物をゲーム的な「キャラ」として扱っているように見えた。タイトル通り、舞台の中央に穴が空いていて、ものやダンサーが入ったり出て来たりと作品構造はきわめてシンプル。冒頭、中堅ダンサー4人が横並びになって微動する。蟻地獄のような具合に、いずれ4人は穴に滑り込んでゆくのだけれど、その間に見せたこの微動は、ゲームのキャラがコントローラーからの指令を待っているときの反復動作のようだった。表現なき表情、ロボット的な風体はかわいく、しかも独特のリアリティを感じる。ただ動作がキャラ的に見えるという形式的なゲーム性もあるのだけれど、より重要なのはダンサーの動く動機にゲーム的な構造が含まれているところだ。例えば、後半で、若手8人ほどが踊る際、「シュッ」と息を小さく吐く合図をきっかけに「首を振る」などの単純な動作のヴァリエーションが展開される。普通ならば隠すはずの合図、それが響くたびに切り替わる動作、この指令と応答のセットによって、自己表現とは異なる何かが舞台上に生じていると見る者は感じる。指令と応答を繰り返す遊びは芸術的とは言い難いけれども、芸術的ではないからこそ今日的なリアリティがある。むしろ、こうした構造への探究から生まれるものの内にこそ未来の芸術の姿を見ることができるのではないだろうか。
2009/07/08(水)(木村覚)
プレビュー:村松卓矢『穴』/鈴木ユキオ『言葉の縁』/大橋可也&ダンサーズ「明晰の夜1」
[東京都]
7月の日本(東京)で見るべき公演No. 1は、間違いなく村松卓矢『穴』(7/1~12@大駱駝艦スタジオ「壺中天」)です。昨年の『どぶ』、一昨年の『ソンナ時コソ笑ッテロ』は、どちらも傑作でした。なぜ体が動くのか?というダンスのきわめてシンプルな問いが、きわめてシンプルなかたちで展開されるところがなんとも素晴らしいのです。きっと今回も期待を裏切らないことでしょう。
また、村松と同じく突出した存在である鈴木ユキオの公演『言葉の縁』(7/24~26@シアタートラム)もあります。とても誠実に舞踏の姿をとらえようとしている鈴木と舞踏という装置をいまもっとも楽しそうにいじり倒している村松。こう並べるとじつに対照的な二人ですね。両方見ると今日の舞踏の振り幅がよくわかることでしょう。ぜひ、二公演見て比較してみましょう!
dance company KINGYO(Yukio Suzuki)New WORK
ちなみに、私事で恐縮ですが、大橋可也&ダンサーズのイベント「明晰の夜1」(7/18@UPLINK FACTORY)に、私こと木村覚がトークのモデレーターとして参加します。お相手は飴屋法水×大木裕之×大橋可也という空前絶後のラインナップ。こちらとしては、機会をとらえて「パフォーマーの身体」というものについてどう考えているのかを御三人から聞き出してみたいと考えています。初音ミクの時代(三次元じゃなくて全然オッケーの時代)に人間の身体をメディアとしてあえて用いる意味はあるのか? あるとしたらどこに?
2009/06/30(木村覚)