artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
息もできない
会期:~2011/01/28
ユナイテッドシネマ豊洲[東京都]
名作中の名作である。身体の内側をきつく絞られるような映画とは滅多に出会えないが、この映画はまちがいなくそのひとつと断言できる。見終わった後、ほんとうに息ができなくなるほどだ。何がすばらしいのか挙げていけばきりがないが、そのひとつは残酷で無慈悲な現実を徹底して描き切っているところ。父親に暴力をふるわれて育てられた主人公のチンピラは、仲間はおろか女にも平気で手を出すくらい暴力に染まっているが、ヤン・イクチュン監督はこの男の悲劇をこれでもかというほど鑑賞者に直視させる。手持ちのカメラとクローズアップを多用した画面が、えもいわれぬ緊迫感を醸し出しているのかもしれない。しかも、『ヘブンズ・ストーリー』のように最後の最後で空想的な「神話」を持ち出すのでもなく、『冷たい熱帯魚』のように物語に無理やり決着をつけるわけでもなく、暴力が果てしなく続く絶望的な現実を最後まで描き切る冷徹な粘り強さがすばらしい。かつての被害者がいまの加害者となる暴力の連鎖については、たとえば『風の丘を越えて』(イム・グォンテク監督、1993年)でも主要なモチーフとなっていたが、この旅芸人の一家の物語にはパンソリという音楽芸術がまだ救済として残されていた。しかし『息もできない』には救済や贖罪のための芸術がまったくない。希望もないし、未来もない。その意味で、これは芸術が終わった後の、まさしくいま現在の時代に生まれるべくして生まれた映画である。正直に言って、精神的にはかなりしんどい。けれども、それが何ら嘘偽りのない現実であるなら、この映画を出発点として歩いていかなければならないのだろう。記念碑的な映画である。
2011/01/26(水)(福住廉)
トランスフォーメーション
会期:2010/10/29~2011/01/30
東京都現代美術館[東京都]
明治以来の西洋コンプレックスはいったいいつまで続くのだろうか? 長谷川祐子がキュレーションを手がけた展覧会を見ると、つねにやるせない倦怠感を覚えてならない。西洋の芸術を翻訳しながら輸入することで前進してきた美術史がもはや隠しようがないほど行き詰まり、それに代わる新たな歴史観を模索することが、少なくとも80年代後半のポストモダニズム以後の共通認識だったはずだ。「日本」固有の歴史をでっちあげるにせよ、東アジアの連帯を目指すにせよ、日本社会の隅々で地域の再生に取り組むにせよ、あるいはもっと別のかたちを考えるにせよ、この数十年はその糸口を求めた試行錯誤の連続だったといってよい。けれども、いずれの立場にも通底していたのは、西洋の芸術を一方的に受容する歴史のモデルからの意識的な切断だった。にもかかわらず、何かといえばマシュー・バーニーを召還し、白い空間に審美的な作品を並べ立てる(だけの)展示は、もうこれまで何度も見てきたし、はっきり言って、そうとう古い。今回の展覧会では、その古さを覆い隠す装置として「人類学との出会い」が演出されたのだろうが、それにしてもいかにも取ってつけたような中途半端な扱いで、古さを塗り変えるほど新しいわけではない。いや、これまでの輸入史観を批判的に相対化する視座をもたらした90年代のポストコロニアリズム理論やポストモダン人類学の成果がまるで考慮されていなかったことを考えると、むしろ退行というべきである。こうした果てしない悪循環を許してしまう、私たち自身の精神構造に蔓延る奴隷根性こそ、もっとも厄介な問題なのだろう。
2011/01/21(金)(福住廉)
植田正治 写真展 写真とボク
会期:2010/12/18~2011/01/23
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
福沢一郎にとっての満州は、植田正治にとっての鳥取砂丘だった。地平線と白い砂丘、太陽の強い光などで構成される植田の写真にはシュルレアリスムの匂いが強く立ち込めているが、シュルレアリストの多くが画面のなかに架空の世界を描くほかなかったのに対し、その舞台を鳥取砂丘という現実的な土地の上につくり上げることができたという点が、植田の強みだ。家族や地元住民、都市から呼び寄せたモデルなどを砂丘の上に配置した写真は、奥行き感より平面性が優先され、そのうえ強い陰影と、何より画面を左右に貫く地平線のラインが、現実世界でありながら非現実的に見える両義性を巧みに強調している。植田の写真を見ていると、福沢一郎から引かれたシュルレアリスムの系譜が、北脇昇の《クォ・ヴァディス》や諸星大二郎の『遠い国から』など、美術や写真、マンガなど、じつに多様なジャンルに引き継がれているのが、よくわかる。
2011/01/20(木)(福住廉)
藝大先端2011
会期:2011/01/15~2011/01/23
BankART Studio NYK[神奈川県]
BankART Studio NYKで催される芸大先端の卒展修了展は毎年必ず見ているけれど、正直に言って、今回は秀作に出会う機会がことのほか少なかったように思う。いま思い返してみても、記憶に焼きつけられた作品がまったくない。作品の内容以前に、水平線が取れていなかったり、ビニール紐がだらしなく剥き出しにされていたり、粗雑な展示技術も目について仕方がなかった。「先端」という看板におごっているようにしか見えないといったら言い過ぎかもしれないが、しょせん看板などは、いつか朽ち果ててしまうものなのだから、歴史に打ち勝つ作品を残すつもりがあるのなら、結局は個人の底力を自分で鍛えるほかないのである。
2011/01/18(火)(福住廉)
山下菊二 コラージュ展
会期:2011/01/08~2011/03/27
神奈川県立近代美術館/鎌倉別館[神奈川県]
山下菊二のコラージュ作品を見せる展覧会。近年同館に寄贈された作品のなかから50点あまりの作品が展示された。なかでも冤罪の可能性がきわめて高いとされる狭山事件をモチーフにした連作《戦争と狭山差別裁判》全41点のうち30点が一挙に展示されたところが見どころだ。同シリーズには、事件の詳細を伝える報道写真や文字、戦争被害者や解放指導者、骸骨や仮面などさまざまな図像が切り貼りされ、不正な捜査を告発する山下のメッセージ性が強く前面化している。とはいえ、これは社会に蔓延る差別構造を是正するためのプロパガンダではないし、社会正義を世間に訴えるイデオロギー絵画でもない。というのも、山下は差別される側の被虐性だけを描いているわけではないからだ。同シリーズの大半には、ハンス・ブルクマイヤーによる《マクシミリアン一世の凱旋》のイメージがコラージュされており、奴隷や金銀財宝などの戦果を誇示しながら行進してゆく隊列は、明らかに支配者の加虐性や暴力性を示している。善悪や聖俗をすべて含みこみながら、魑魅魍魎が跋扈する世界。それを外側から観察するのではなく、内側から肉迫しようとしたからこそ、私たちはそこにみずからの影を見出してしまうのだろう。いずれのコラージュも黒く縁取られているのは、このどうしょうもない世界で生きざるをえない私たち自身を成仏させるためなのかもしれない。
2011/01/18(火)(福住廉)