artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

平成22年度第34回東京五美術大学連合卒業・修了制作展

会期:2011/02/17~2011/02/27

国立新美術館[東京都]

東京の主だった五つの美術大学による卒業・修了制作展。今回、もっとも注目したのは、日大芸術学部の眞間悠。横断歩道を渡るパンク少年と彼に続く鶏の行列を、淡い色彩の水彩画で巧みに描いた。双方が「鶏冠」でつなげられているのは一目瞭然だが、おもしろいのは脱力感あふれるモチーフだけではなく、それらを水彩だけの直球勝負で描いたところ。おそらく本展の広大な会場を見渡してみても、これほどストレートな水彩画はほかに展示されていなかったのではないだろうか。一見するとモチーフと手法が噛み合っていないようにも思えるが、ある意味愚直ともいえる方法論を徹底して突き詰める心意気が、パンクの魂と共振しているように見えた。

2011/02/21(月)(福住廉)

隠れマウンテン&ヴォルカノイズ Vol.1

会期:2010/11/18~2011/02/20

VOLCANOISE[東京都]

鴻池朋子の未公開ドローイングを見せる展覧会。わりと底の深いケースに一枚ずつ入れたドローイングを壁や床に並べ、空間の中央に敷かれた畳の上で、来場者に作品についての会話を促す設定だ。大半は鉛筆で描かれたものだが、大作のためのラフドローイングから、それ自体で非常に完成度の高いエスキースまで、一口にドローインクといえども、その絵の幅は広い。一つひとつを丁寧に見ていくと、制作の過程を目撃できることはもちろん、新たな発見もあって、かなりおもしろい。《みみお》の原型となった初期のドローイングに見られる柔らかい描線は手塚治虫を彷彿させるし、《ナイファーライフ》の当初の構図は青木繁の《海の幸》のようだ。しかも後者の余白には鴻池による手書きの文字が残されているから、それらを目の当たりにすると、まるで鴻池の脳内活動を追跡するかのような錯覚を起こし、スリルと気恥ずかしさがないまぜになった不思議な感覚に陥る。アーティストにとって素描や習作は進んで見せるものではないのかもしれないが、鑑賞者にとってはもっともっと見たくなるものである。ただ、そこでとどまっていてはもったいない。そこからどんな言葉を紡ぎ出すことができるのか。鴻池朋子にかぎらず、アートを楽しむ醍醐味と難しさは、きっとここにある。

2011/02/20(日)(福住廉)

愛する人

会期:2011/01/15~2011/02/25

TOHOシネマズシャンテ[東京都]

「孤独と悔恨」。誰もが生きていくうえで必ず身につまされる厄介な代物だ。それらを克服するには「忘れる」か「強がる」か、あるいは「祈る」ことなどが考えられるが、どうあがいたところで「なかった」ことになるわけではないから、どっちにしろ人はそれらを心の底に折り畳みながら何とかやっていくしかない。この映画は、若くして産み落とした娘を養子に出してしまった悔恨にいまも苛まれる母と、その母に捨てられた孤独を胸に秘めて強くたくましく生きてきた娘が、30数年の後、それぞれのやり方で互いを探し出そうとする物語。両者の物語とは別に、もうひとつの物語を同時に描きながら、それらを一気にまとめあげていく脚本がよくできているし、何よりアネット・ベニングとナオミ・ワッツの演技がとてつもなくすばらしい。物語の設定から言えば、たしかに特殊な条件における悲劇なのかもしれない。けれども、この映画の醍醐味が私たち凡庸な観覧者のもとにしっかり届くのは、悲惨な境遇を哀れむ同情に由来しているからではなく、この母娘を演じた2人がともに不器用な人間、いや正確に言い換えれば、人間の不器用さを見事に体現しているからだろう。孤独と悔恨に苛まれる人は、他者との適度な距離を保つために身の回りに壁を打ち立てるほかない。そうやって囲い込んで孤独と悔恨を飼い慣らさなければ、自分が内側から食い破られてしまうからだ。自分で自分の首を絞めるかのような不器用さには、きっと誰もが思い当たる節があるにちがいない。

2011/02/14(月)(福住廉)

連続デブ小説 プロット展

会期:2011/02/03~2011/02/27

@btf[東京都]

AR(Augumented Reality)=拡張現実の技術を駆使するユニット、AR三兄弟の初個展。携帯カメラやパソコンなどをとおしてリアルな風景にデジタル情報を重ねて見せるAR技術を体験させる装置はもちろん、AR技術を用いた企画のもとになったアイデアノートなどを展示した。「どんなにおもしろそうなアイデアであっても、A4一枚の企画書に収まらなければおもしろくならない」。この鋭い言葉が如実に物語っているように、AR三兄弟の真骨頂は、AR技術を駆使する想像力というより、むしろその前提となる簡潔明瞭な言語感覚だ。無駄な部分を削ぎ落とし、必要な部分を育む。的確な言葉を選択することで、思考のプロセスを他者に向けて開いていく。昨今のアートプロジェクトでもっとも重要視されていることを、AR三兄弟はすでに身体化してしまっているわけだ。「メディアアートって、なんかださいじゃないですか」という彼らの言葉は、メディアアートのみならず現代アート全般に対する、的を射た批評である。

2011/02/09(水)(福住廉)

わくわくSHIBUYA

会期:2011/01/13~2011/02/13

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

未来美術家の遠藤一郎がコーディネートする「わくわくプロジェクト」の展覧会。トーキョーワンダーサイト渋谷の決してそれほど大きくない空間に、有象無象の表現者たちによる作品が文字どおり鮨詰め状態で展示された。壁面と床はもちろん、階段の途中やその手すりなど、見過ごされがちな空間の隙間まで存分に使い切るエネルギーは凄まじい。原色と安価な素材による作品が多いのは、「100均的」というか「ドンキ的」というか、いずれにせよいま現在の同時代的リアリティーを体現しているのだろう。それらを学園祭的な祝祭性によって一気に爆発させる狙いはわからないではない。けれども、その一方で、若干の物足りなさを覚えないでもない。「わくわくプロジェクト」が現代アートの底辺に仕掛けられた爆発だとすれば、もっとも肝心なのはその爆発によって生まれる新たな遠心力ではないか。「わくわくプロジェクト」の内部で安穏とするのではなく、外部へと躍り出ていくこと。これまでの充実した成果を踏まえれば、すでにその段階に進んでいておかしくはない。

2011/02/08(火)(福住廉)

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