artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
「日本画」の前衛 1938-1949
会期:2011/01/08~2011/02/13
東京国立近代美術館[東京都]
前衛とは何か? 平たく言えば、それはジタバタすることではなかったか。1938年の歴程美術協会から1949年のパンリアルまで、日本画の前衛を集めた展覧会で、思い至ったのはこの点だ。丸木位里や山岡良文、船田玉樹などによる日本画は、花鳥風月に終始する日本画とは対照的に、シュルレアリスムの要素を取り入れたり、構成主義的だったり、たしかに前衛的には見える。けれども、しょせん「日本画」や「美術」という既成の枠内で標榜された前衛だったことを思えば、その実態はたかが知れているし、肝心の絵も、前衛的ではあっても、それ以上でも以下でもない代物が多い。そうしたなか、唯一眼を惹いたのは、山崎隆。戦時中の茫漠とした大陸の地平線を描いた大作から構成主義的な画面まで、その画業は幅広く、戦後になるとさらにシュルレアリスムに展開していく。手広く器用に手がけたと思えなくもないが、右往左往して何かをまさぐり続けているようにも見える。唯一無二の画風を確立してよしとするのではなく、たえず自己否定を繰り返しながら前進していく、まことの前衛の姿を見たような気がした。
2011/02/04(金)(福住廉)
第59回東京藝術大学卒業・修了作品展
会期:2011/01/29~2011/02/03
東京藝術大学上野校舎[東京都]
毎年恒例となっている東京芸大の卒業・修了展。全面的な改修工事に入っている東京都美術館の代わりに、上野校舎内の隅々を使って作品が展示された。作品を展示するための空間ではなかったせいか、全体的になんとか工夫を凝らして作品を見せようとしていたので、次善の策とはいえ、美術館で見せるより結果的にはよかったのかもしれない。もっとも印象に残ったのは、藤島麻実の《一日一膳》。文字どおり365日、毎日ひとつの器を制作して、その365個の器を一挙に見せた。一つひとつの色やかたちがすべて異なっているので、見ていて飽きることがない。唯一無二の作風を求められがちな世界における、ささやかな反逆のように見えた。
2011/02/02(水)(福住廉)
レッド
会期:2011/01/29
新宿バルト9[東京都]
近頃、ハリウッド俳優がノリで出演しちゃったような映画が増えている気がするが、この映画もそのひとつ。何しろキャストには、ブルース・ウィリスをはじめ、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチ、さらにはヘレン・ミレンやリチャード・ドレイファスまで錚々たる面々が名前を連ねている。しかも、この面子でスパイ・アクション・ムービー。冗談としか思えないが、映画をじっさいに見ても、それほど笑えないところがまた、なんともおかしい。
2011/02/01(火)(福住廉)
冷たい熱帯魚
会期:2011/01/29
テアトル新宿[東京都]
善人の話は退屈だけれど、悪人の話であれば何時間でも聞いていられる。それが常識的な倫理や道徳をあっさり超越するほど飛び切り悪い話だったら、なおさらだ。園子温監督による本作も、吹越満が演じる主人公・社本を差し置いて、でんでんが演じる悪人・村田の魅力が全開にされた映画だ。ユーモアあふれる巧みな話術と細やかな人心掌握術によってヤクザや女を手玉に取り、強い者にはへつらい、弱い者には容赦なく強圧する村田の愛すべきキャラクターから、一時も眼が離せない。ウジウジしてオロオロするだけのもやしのような社本を前にして「警察とヤクザに狙われててもなあ、おれは自分の脚で立ってるんだよう!」と啖呵を切る言葉に、「うん、たしかにそのとおり」と膝を打つことしきり。いちいち説得力のある村田の人生論に比べれば、反抗する娘に「人生ってのはなあ、痛いんだよう!」と唐突に説教してみせる社本の言葉は、「いまさら何言ってんだ」と思わず鼻で笑ってしまうほど、白々しい。おそらく、この映画の肝は、常識や世間体に縛られることなく、村田の黒いカリスマ性を全力で描き切ることにあるのであって、悪人に翻弄される社本や社本のこじれた家族問題、あるいはクライム・サスペンスという設定ですら、それを巧みに引き立てるための演出装置にすぎない。あまりにも通俗的で凡庸なラストシーンも、興醒めさせられることにちがいはないが、それにしても映画としての物語を半ば強制的に終わらせるための手続きとして考えれば、我慢できなくはない。善と悪のあいだで揺れ動く曖昧な心情を綴ることを文学的と呼ぶとすれば、村田の悪人ぶりを完膚なきまで徹底的に描き切ったこの映画は、芸術的というべきである。
2011/02/01(火)(福住廉)
ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー
会期:2011/01/08~2011/03/21
金沢21世紀美術館[石川県]
なぜ写真家はアーティストになりたがるのだろうか。荒木経惟しかり、篠山紀信しかり。「カメラマン」はいつのまにか「フォトグラファー」となり、やがて「アーティスト」となって一丁上がりというわけだ。ホンマタカシもこの流れに乗っているように見えるのは、今回の展示で発表された写真が現代アートの文法を確実に押さえているように見えてならないからだ。もちろん、もともとホンマタカシは現代アートと親和性が高かったし、双眼鏡で写真を見せるインスタレーションなどは美術館の展覧会という条件を踏まえた現われなのだろう。けれども雪原に広がる血痕をとらえた写真は、視覚的な美しさを強調する反面、背景となる物語の説明を一切省き、結果的に何かの「痕跡」を直接的に提示することになっている。そう、これは日本の現代アートをいまも牛耳る因襲的なルールである。言葉による明快な説明より見た目の曖昧な美しさを、加算的で過剰な表現より減算的で禁欲的な表現を。痕跡や不在、欠落があるからこそ、その穴を充填しようとして鑑賞者の視線が作品に導かれるというわけだ。けれども、痕跡がつねに同時代の表現を読み解くキーワードであるとはかぎらないし、痕跡そのものが様式のひとつと化しているといえなくもない。現代アートはもっと多様であるし、現実社会はそれ以上に乱雑としている。その混沌をとらえてこそ、「ドキュメンタリー」ではなかったか。今回の展覧会は、もっと貪欲に挑戦することができたはずなのに、どうにも「置き」にいった印象が否めないのだ。
2011/01/28(金)(福住廉)