artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

アルブレヒト・デューラー版画・素描展─宗教・肖像・自然─

会期:2010/10/26~2011/01/16

国立西洋美術館[東京都]

オーストラリアのメルボルン国立ヴィクトリア美術館が所蔵する作品を中心に、アルブレヒト・デューラーの版画と素描を見せる展覧会。デューラーが芸術の本質として唱えた「宗教・肖像・自然」という三つのセクションに分けて、あわせて150点あまりが公開された。《メランコリアI》をはじめ、キリストの生涯を描いた連作《受胎告知》を一挙に見ることができたのはもちろん、それ以上に圧巻だったのが《マクシミリアン一世の凱旋》。40数枚もの版画をつなぎあわせたこの作品は高さ3mを超える大作で、鑑賞者を文字どおり見下ろすほどの圧倒的な迫力を醸し出しながらも、細部の描写がひじょうに丁寧で、巨視的にも微視的にも楽しめる芸術作品になっている。照明がそれほど効果的ではなかったのが難点といえば難点だが、それでもデューラーの並々ならぬ制作意欲を物語るには十分な作品だった。

2011/01/09(日)(福住廉)

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多和圭三 展 鉄を叩く

会期:2010/11/13~2011/01/09

目黒区美術館[東京都]

鉄の塊を玄翁で打ち続ける多和圭三の個展。足利市立美術館からの巡回展だが、今回のほうが見劣りして見えたのはいったいどういうわけか。広い空間に鉄の立方体を配置するレイアウトが不適切だったからなのか、照明に工夫が足りなかったからなのか。打撃の金属音が一定のリズムにしたがっているように、足利の展示は心地よいテンポで鑑賞することができたにもかかわらず、目黒の展示はてんでバラバラで、不協和音にすら達していなかった。展示場の床面をすべて引き剥がし、剥き出しのコンクリートの上に作品を設置した展示方法も、作品の表面的な暴力性と共振させようとしたのだろうが、作品が背景に埋没してしまい、細部の繊細な造形を見えにくくしてしまっていたように思う。

2011/01/09(日)(福住廉)

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福沢一郎 絵画研究所展

会期:2010/11/20~2011/01/10

板橋区立美術館[東京都]

日本にシュルレアリスムを導入した画家として知られている福沢一郎が主宰していた絵画研究所の実態を明らかにした企画展。《牛》をはじめとした福沢の絵画はもちろん、研究生として通っていた山下菊二や杉全直、高山良策などの作品もあわせて展示された。福沢のシュルレアリスムを見ていて気づかされるのは、その着想の起源としての満州の存在だ。どこまでも広がる荒涼とした光景には、たしかに無意識の深遠さが託されているのかもしれないが、その無意識は中国東北部という現実的な国土のかたちをとおして現われていたのではないか。地政学的にも政治経済的にも、かつて満州には狭い島国とは比べものにならないほどの可能性が宿っていると信じられていた。少なくとも日本のシュルレアリスムにとって、満州が果たした役割はかなりの程度大きいといえるように思う。作家の内発性や無意識などをより深く掘り下げるには、表現の起源としての満州という問題を考える必要があるのではないか。そして、福沢のみならず、たとえば五代目古今亭志ん生や赤塚不二夫、加藤登紀子など満州からの引揚者たちの創作活動を比較検討することができれば、現行の美術史をより幅広く、厚みのある表現史として書き換えることができるだろう。

2011/01/08(土)(福住廉)

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暗殺の森

会期:2010/12/25~2011/01/07

シアター・イメージフォーラム[東京都]

同じ「森」でも、こうもちがうものか。ドミニク・サンダとステファニ・サンドレッリがまるでタイプのちがう女性を見事に演じて見せた『暗殺の森』は、直子と緑を似たような女性として映してしまった『ノルウェイの森』とじつに対照的だ。双方にいい顔をする卑屈で孤独な男をあいだに挟んでいる設定は同じだが、ちがっているのはおそらく女性の描き方だけではない。それは、世界への向き合い方だ。あちらが世界が多様であることの厳しさから逃避する無垢な美しさを描いたとすれば、こちらはその厳しさを正面から受け止める残酷な美しさを描いた。きらびやかな舞踏会での文字どおり心躍る熱気と、静かな森のなかで殺される冷たい恐怖。ベルナルド・ベルトルッチが描き出したのは、罪の意識に苛まれながらも、打算を働かせ、快楽を追究し、やがて孤独に打ちひしがれる人間のありようだった。「森」とは、それらが剥き出しのまま露にされる舞台であり、いま私たちが眼にしている芸術にもっとも欠落しているのは、この「森」なのだ。

2011/01/02(日)(福住廉)

ノルウェイの森

会期:2010/12/11

TOHOシネマズスカラ座[東京都]

もし世界がこんなにのっぺら坊の一枚岩になってしまったとしたら、一刻も早くおさらばしたい。思わずそんな独り言を喉元で呑みこんだほど、映画『ノルウェイの森』は単調きわまりなく、じつに退屈な映画である。というのも、この映画の登場人物たちはみな一様にボソボソと呟くような話し方をしていたからだ。それが「世界的文学」を映像化した監督の世界観の現われなのか、あるいはそもそも村上春樹のファンは小説を読むときからすでにあのような小さくて暗い声を脳内で再生させているのか、正確なところはよくわからない。百歩譲って、根暗な主人公はよしとしよう。ただ、その陰湿な文学青年を効果的に引き立てるはずの脇役まで同じように暗く染め上げてしまったのは、どうにもこうにも理解に苦しむ。緑の心に落ちている陰は表面上の明るさと表裏一体だからこそ陰になりうるのであって、天真爛漫なキャラクターを失ってしまえば緑は緑でなくなり、直子とのちがいがわからなくなってしまう。ニヒルな魅力とユーモアにあふれていたレイコも、この映画では肉欲にかられた年上の女にすぎない。みんながみんな小さな声でブツブツとなにやら「文学的」な会話を繰り広げる、自己陶酔を極限化したエロ映画。ここには、しかしはっきりと美術の問題が含まれている。撮影のロケーションとして神奈川県立近代美術館鎌倉館や多くの貸し画廊が入居している銀座の奥野ビルが登場しているからではない。趣味趣向を共有する同族同士で連帯しながら他者を排除する一方、その親密性の高い範囲だけを世界として誤認する傾向は、オタク文化を背景にしたスーパーフラットであろうと、翻訳不可能な独自の絵画言語を死守する抽象絵画であろうと、社会的であることを金科玉条とするアートプロジェクトであろうと、いまやあらゆるアートに通底する「普遍的」な性格だからだ。無数の小宇宙が並立する相対主義に居直るこのであれば、何も問題はない。けれども、群島のあいだを交通する航路を切り開こうとするのであれば、このつぶやき型コミュニケーションとどうすれば関係性を結ぶことができるのかを考えなければならない。これを思うと、さらに気が滅入る。

2011/01/01(土)(福住廉)