artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

楳図かずお恐怖マンガ展 楳恐─うめこわ─

会期:2011/01/21~2011/02/14

PARCO FACTORY[東京都]

漫画家・楳図かずおの恐怖マンガを回顧した展覧会。「ねこ目の少女」や「猫目小僧」、そして「漂流教室」など、珠玉の名作をもとに展示を構成した。一枚一枚丁寧に描かれた絵の迫力が凄まじいのはもちろん、会場の照明を落としてペンライトの灯りを頼りに歩かせるという見せ方も、絵のおどろおどろしさに巧みに拍車をかけていた。けれども、その一方で「恐怖マンガ」という括りが気にならないではなかった。それが「ギャグマンガ」と相対させられていることはわかるにしても、ギャグマンガと恐怖マンガの明確な違いがよくわからないからだ。「まことちゃん」はたしかに抱腹絶倒のマンガだが、身の毛もよだつほど恐ろしい場面がないわけではないし、「漂流教室」をギャグマンガとして読むこともできなくはない。笑いと恐怖がじつは表裏一体の関係にあり、その薄い皮膜を爆笑と悲鳴で縦横無尽に切り裂いてきたのが、楳図かずおのマンガではなかったか。だからこそ、戦後マンガ史において楳図かずおは特殊な位置を占めているのである。

2011/02/08(火)(福住廉)

ソウル・キッチン

会期:2011/01/22~2011/03/04

シネマライズ[東京都]

料理人のサクセス・ストーリーではない。何を隠そう、これはオルタナティヴ・スペースについての映画である。しかも、飛び切り上等な傑作だ。舞台はハンブルク。古い倉庫を自分たちで改築した大衆的なレストランが買収の危機に瀕するが、これを何とかして阻止するという物語の骨格はいたって単純明快。けれども、ここに保健所や税務署といった面倒な行政の問題や生々しい移民問題、そして弱みにつけこんでまで乗っ取りを図る貪欲な資本主義などが肉づけされることで物語の厚みが増し、さらに良質のソウル・ミュージックが次から次へと淀みなく流れてくるおかげで、映画の旨みがよりいっそう味わい深くなっている。美人で大酒呑みで画家志望のスクワッターや子持ちのバンドマン、さすらいの料理人、あこぎな不動産屋、恐るべき税務署員、そしてダメ兄貴など、それぞれキャラ立ちした登場人物たちもたまらない。まるで落語を聴いているかのような心地よさを覚える。人生において大切なのは、みんなで分け合える旨い料理とみんなで踊ることができるソウルフルな音楽、それらに欠かせない大量の酒、そして恋愛とセックス(さらに少々の媚薬とちょっとした違法行為)。ファティ・アキン監督がこの映画で描いているのは、それらを自分たちの手でなんとか確保しようと四苦八苦する人びとのありようである。だから、この映画を見ると、助成金をあてにしなくても、知恵を絞って力を集めてなんとかすれば、自分たちのオルタナティヴ・スペースを手にすることができるのではないかという元気がもらえるはずだ。ただし、注意しなければならないのは、この映画には美術が一切登場しないということ。音楽はあるが、絵画はないし、彫刻もない。映像すら出てこない。オルタナティヴ・スペースはアートを必要としているのだろうか。いや、もっと厳密に言えば、社会はアートを必要としているのだろうか。あるいはアートがなくても、人は幸福になれるのだろうか。これは、今も昔もさほど変わらない、つまり今も考えるに値する、根源的な問いである。

2011/02/08(火)(福住廉)

小林礫斎 手の平の中の美~技を極めた繊巧美術~

会期:2010/11/20~2011/02/27

たばこと塩の博物館[東京都]

これはすごい。いま超絶技巧という言葉は乱用されているきらいがあるが、それはこの人のためにこそ用いられるべきと誰もが思い改めるにちがいない。礫斎(れきさい・1884-1959)がつくり出したのは、文字どおり手のひらに収まる驚異のミニチュア。茶道具や香箪笥をはじめ、筆、箸、茶碗、火鉢、灰ならし、算盤、印鑑、パイプ、杖など、礫斎は日常的な実用品の数々を細部まで忠実に再現しながらサイズダウンしてみせた。この展覧会は繊細で巧みな造形物という意味で礫斎みずから命名したという「繊巧美術」と、礫斎を中心に極小の工芸品を集めた旧中田實コレクションの中から選りすぐりの逸品などをあわせて一挙に公開するもの。ガラスケースに入れられた極小の造形物を見入る来場者たちは、眼精疲労をもろともせずに驚愕の溜息をあちこちで漏らしていた。注目すべきは、礫斎がただひとりで制作していたわけではなく、礫斎を中心とした職人たちによる共同制作だったこと。それぞれの職人の固有名が溶け合うほど、強い共同性が結ばれていたらしい。しかも、その共同制作を繰り返していくうちに次第に極小への欲望が極限化していく様子がわかる展示になっているのが、おもしろい。百人一首をすべて並べた豆本や爪先にも満たないほどの独楽、当然指には入らない真珠指輪など、職人たちの関心が手のひらから指先へと先鋭化していくのだ。米粒に写経するのは、なんとかまだわかる。けれども、米の籾殻の中に大黒様と恵比寿様を彫り出した微細な象牙を収めた作品を目の当たりにすると、文字どおり開いた口がしばらくふさがらない。狂気と紙一重の創作だったからこそ、後世に残る美術となりえたのだろう。

2011/02/08(火)(福住廉)

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平成22年度(第14回)文化庁メディア芸術祭

会期:2011/02/02~2011/02/13

国立新美術館[東京都]

デジタル技術が映像文化を著しく成長させている一方、私たちの感性は依然としてアナクロニズムにとどまっているのではないだろうか。映像は日進月歩で進歩するが、それを映す眼球が追いつけないといってもいい。テクノロジーの進歩によって身体感覚を思いのままに拡張させることが容易になった反面、かえって肉体の物質性が際立ち、その不自由なリアリティの求心力が強まるという逆説。現在の映像表現が直面しているのは、このパラドクスにほかならない。今回のメディア芸術祭でいえば、Google earthやインターネットの情報セキュリティを主題とした作品がおもしろくないわけでないが、どうも理屈が先行している印象が否めず、眼で楽しむことができない。むしろ、素直に楽しめるのはサカナクションのミュージック・ビデオ《アルクアラウンド》。関和亮監督によるワンカメラ・ワンカットで撮影された映像は、CGを一切用いることない愚直なアナクロニズムに徹しているが、楽曲の進行にあわせて移動する画面に歌詞を視覚化したタイポグラフィーが次々と現れる仕掛けがたいへん小気味よい。ある一点によってはじめて文字が成立して見えるという点では、ジョルジュ・ルースを動画に発展させた作品といえるかもしれない。

2011/02/07(月)(福住廉)

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八木マリヨ展 縄の森をくぐりぬけると…

会期:2011/01/14~2011/03/10

GALLERY A4[東京都]

会場にあるのは、縄である。八木マリヨは徹底して縄の作品を制作するアーティストで、巨大な縄を空間に配置したインスタレーションにしろ、観客参加型のプロジェクトにしろ、表現形式は異なるものの、主題が縄から離れることはない。縄といえば自然環境や原始社会、あるいは縄文的なものを連想するが、八木の作品には岡本太郎のそれ以上に縄文的なものが強く立ち現われているように見える。太郎の縄文論は思想としては強かったが、それが必ずしも作品と対応していなかったところが弱みである。大衆的な人気とは裏腹に、太郎の絵画はまったくチンケでつまらない。けれども、作品がダメだからといって思想も退ける必要はない。太郎の縄文論をマリヨの作品で甦らせてしまえばよいのだ。これからの時代を生き抜くヒントがあるとすれば、それは太郎を再び呼び出して消費することにあるのではなく、そうした、ある意味で節操のない異種混交にあるのではないか。

2011/02/04(金)(福住廉)