artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
福島菊次郎 全写真展
会期:2014/12/22~2014/12/27
今年、94歳になる現役の写真家、福島菊次郎の個展。福島は2013年に公開されたドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘 福島菊次郎90歳』で大きな注目を集めた写真家である。本展では、これまでに発表した約2,000点が一挙に展示された。広島の原爆から自衛隊、学生運動、公害、ウーマンリブなど、戦後日本の歴史が凝縮したような現場を写し出した白黒写真は、非常に見応えがあった。
なかでも注目したのは、雷赤烏族を撮影した写真。雷赤烏とは、1960年代末に、詩人の山尾三省を中心に結成された「部族」のひとつ。ヒッピーやビートニクの影響のもと、反都市社会や自然回帰を目指した、ある種のコミューンである。「部族」は国分寺や鹿児島のトカラ列島諏訪之瀬島などに拠点をつくったが、福島は八ヶ岳山麓の富士見高原に建設された雷赤烏の住処を訪ねた。
髭面で長髪、上半身は裸で、足元はわらじ。住居は円錐形の茅葺きだから、文字どおり原始人のような暮らしぶりだ。福島の取材メモによると、彼らは「木の実や貝殻のアクセサリーを身につけ、開墾を始め、畠を耕しているかと思うと、座禅や逆立ちを始め、陽が暮れると焚き火を囲み、空き缶を叩いて一晩中踊っている」。焚き火の前で踊り、井戸を掘る姿を写し出した福島の写真には、彼らに対する共感のまなざしが一貫しているように思われた。「大地とともに生きている人間たちは健やかである」。
むろん、このような活動を逝きし世のカウンターカルチャーとして退けることはたやすい。だが、都市文明の限界と矛盾が、雷赤烏の時代よりいっそうあらわになっている現在、彼らほど極端に先鋭化することはなくとも、彼らの活動と思想から学べることは多いのではないか。例えば、近年改めて評価が高まりつつある「THE PLAY」の主要メンバーである三喜徹雄は、かつて雷赤烏に参加していた。PLAYと雷赤烏のあいだに直接的な関係はないとはいえ、PLAYの作品に通底している野外志向には、雷赤烏との並行関係が認められないでもない。福島もまた、かつて瀬戸内海の無人島に住んでいたことがあるから、三者が交差する地点から現代的なアクチュアリティーを取り出すことができるかもしれない。
2014/12/27(土)(福住廉)
渡辺篤 個展「止まった部屋 動き出した家」
会期:2014/12/07~2014/12/28
NANJO HOUSE[東京都]
昨年の初夏に秋葉原のアートラボ・アキバで個展「ヨセナベ」を成功させたばかりの美術家・渡辺篤が、早くも新たな個展を開催した。今回のテーマは「ひきこもり」。自身のひきこもり経験をもとにした作品を中心に発表した。
会場の中央に設置されていたのはコンクリート製の傾いた小屋。粉砕された一面から中を覗くと、寝袋やパソコン、数々の日用品が散らばっている。会期前半に渡辺自身がここにひきこもり、密閉された小屋の中で数日間過ごしたという。外界と隔絶した空間に自閉したり、ひきこもりの当事者を展示したりするアーティストはほかにいたが、自らのひきこもり経験を再現的に表現したアーティストは珍しい。事実、会場にはひきこもり当時の自室を撮影した写真や、ひきこもりを中断して自室の扉をノコギリで切り開いて出てくる自分を写した映像も展示されていた。
特筆したいのは、渡辺がこの個展において全国のひきこもりの当事者たちに自室を撮影した写真を募集した点である。傾いた小屋の内部に設置されたモニターには、渡辺のもとに集まった写真が連続して映し出されていた。乱雑な部屋もあれば、整然とした部屋もある。当事者の身体が写り込んでいる場合もあれば、そうでない場合もある。いずれにせよ共通しているのは、自閉という内向性を強く感じさせる点である。
しかし、その内向性は、この展覧会において外向性という矛盾にさられることになる。言うまでもなく、彼らの写真は私たちによって見られるという点で「開かれている」からだ。閉じているにもかかわらず開かれているという両義性。それは、決してひきこもりからの解放と直結しているわけではないが、ひとつのささやかな関係性であることに違いはない。
この極めて繊細で壊れやすい関係性は、しかし、ひきこもりという特殊な境遇にいる者に特有のものではないのかもしれない。たとえ自室にひきこもっていなくても、振り返ってみれば、私たちの日常的な人間関係には「閉じる」という契機が確かに機能しているからだ。「開く」ことや「つながる」ことを強迫観念的に強いる現代社会において、渡辺の作品は「閉じる」ことの積極的な意義を改めて問い直しているのではないか。
2014/12/26(金)(福住廉)
Yusuke Asai × ISETAN
会期:2014/12/03~2014/12/25
新宿伊勢丹 2階[東京都]
百貨店の店舗内で催された淺井裕介の個展。レディースのショップが立ち並ぶ店内の一角に淺井のマスキングテープの作品が展示され、あわせてアメリカで発表した作品の制作過程を記録した映像も上映された。きらびやかな照明が、淺井の絵画をいつも以上に輝かせていたように見えた。
淺井の絵画の特徴は、支持体とイメージを一体化させながらイメージを拡張させていく点にある。通常はあらかじめ固定化された支持体の中にイメージを収めるが、淺井はマスキングテープを貼り重ねながら支持体を構成するので、原理的にはどこまでも拡大することができる。例えば、ほぼ同時期にアラタニウラノでの個展で発表された作品は、マスキングテープで構成した支持体が四方八方に伸び、床や天井、壁に接着していた。それはまるで支持体の中のイメージが空間の中で手足を突っ張って自立しているかのようだった。
それだけではない。支持体を一定の大きさに限ったとしても、淺井の描き出すイメージは往々にしてその枠外にはみ出していく。今回も、店内の白い壁や柱にイメージが溢れだし、百貨店内の光景としてはある種異様と言っていいほどの爆発的な増殖力が見せられていた。
地と図の反転。いや、地を地として残しつつ図が地を追い越していく。淺井の絵画の真骨頂は、イメージの疾走感である。自力で道を切り開きながら邁進する速度は、時としてイメージが道の先へと突出してしまうほど、速い。凡庸な絵画に飽き足らない私たちは、絵画というフレームを置き去りにするほどの圧倒的な速度にこそ、惹きつけられてやまないのだ。
だが、淺井の躍動するイメージを支える空間として、百貨店があまりにも小さすぎたことは否定できない。現代絵画の隘路を軽々と突き抜けていく淺井裕介に、その仕事にふさわしい空間を提供することが、専門家の務めではないか。
2014/12/20(土)(福住廉)
丸山純子 展 漂泊界
会期:2014/09/20~2014/12/21
発電所美術館[富山県]
丸山純子は、スーパーのビニール袋で花畑をつくったり廃油からつくった粉石鹸で床に絵を描いたり、日用品をアートに転用することを得意とするアーティストである。今回の展覧会は、大正15年に建設された水力発電所を改装した美術館で、主に粉石鹸による絵画作品を発表した。
会場の広い床一面に、白い粉石鹸で植物の有機的なイメージが描かれている。会場に残された巨大なタービンや大きく口を開けた導水管の力強い存在感とは対照的に、描かれたイメージはきわめて儚い。粉石鹸というメディウムも、とくに定着を施しているわけではないので、ふとした瞬間に雲散霧消してしまいかねないほどだ。高い天井に恵まれた空間の容量が、イメージの儚さをよりいっそう際立てている。
この脆さや儚さは、ややもすると造形上の弱点のように見えかねない。空間と正面から対峙し、それに打ち勝つ志向性を心がけるアーティストであれば、あるいはそうなのかもしれない。だが丸山が目指しているのは、空間に垂直的に屹立する造形ではなく、おそらく空間に水平的に浸潤する造形である。もちろん、それは絵画的な平面に拘泥するという意味では、まったくない。
床一面に描かれた作品とは別に、粉石鹸を正立方体に固めた作品があった。天井から滴り落ちる水滴によって塊にいくつもの亀裂が走り、部分的に崩落していたから、来場者の視線は必然的に重力を意識することになる。かたちは、水と重力によって、かたちを失い、やがて水平にならされていく。丸山が見ようとしているのは、その水平面にかたちが浸透していく、まさにその造形のありようではなかったか。床一面に描かれた植物のイメージは、だから三次元の主題を二次元に置き換えて表現したというより、むしろ植物が土に還ってゆく、その過程の痕跡なのだ。
かたちを立ち上げる美術だけではなく、かたちが失われていく道程を見せる美術もある。丸山純子の作品に見られる儚さには、生物を成仏させる敬いが隠されているのかもしれない。
2014/12/05(金)(福住廉)
岡本光博 マックロポップ
会期:2014/10/25~2014/11/22
eitoeiko[東京都]
京都在住のアーティスト、岡本光博の、東京では21年ぶりになるという個展。決して広くはない会場に、新旧あわせた作品が凝縮して展示された。
「マイクロポップ」をもじった展覧会名に端的に示されているように、岡本の醍醐味は記号を反転させる単純明快さにある。しかも今回展示された作品の大半は、セックスに関わるものであり、平たく言えば下ネタのオンパレードであった。一つひとつの作品に笑わされるというより、それを終始一貫させる、あまりの徹底ぶりがおかしい。
しかし現代美術の現場において、岡本のような作品は、あまり評価されない傾向がある。高尚な思想を背景にしているわけではなく、解釈の多様性が担保されているわけでもなく、要するにあまりにもわかりやすく、「深み」に欠けているように見えるからだ。とりわけ絵画においては、唯一の解答に導くのではなく、鑑賞者の想像力を無限に拡張させることが至上命令とされている感すらある。芸術とは、かくも深遠なものというわけだ。
けれども、実際のところ、こうした考え方は芸術の本質であるわけではない。そのような芸術の「深さ」はポップ・アートによってすでに相対化されてしまったと言えるし、その「深さ」とやらこそ、美術と庶民のあいだに不必要な距離感をもたらしたとすら考えられるからだ。だとすれば、岡本の作品をたんなる下衆で低俗な言葉遊びとは到底言えなくなる。それは、そのような「深さ」を伴った芸術に向けられた、そしてそのような芸術を依然として待望してしまう私たちの心根に向けられた、きわめて鋭利な批判なのだ。性的な主題を大々的に前面化させているのも、それを忌避しがちな現代美術への露悪的な身ぶりなのだろう。
だが岡本の作品もまた、同時代を生きる者によって同時代を生きる者に向けられた美術という点で、現代美術のひとつであることに違いはない。「マックロポップ」が「マイクロポップ」のようなムーヴメントを形成することはないだろうが、現代美術におけるどす黒い反逆の身ぶりを示す指標にはなりえるのではないか。
2014/11/21(金)(福住廉)