2021年04月15日号
次回5月17日更新予定

artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

[東京都]

『バベル』や『ビューティフル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督による新作。マイケル・キートンが演じる落ち目のハリウッド俳優が、ブロードウェイで再起を図るという物語の構成はシンプルだが、全編ノーカットに見える編集をはじめ、エドワード・ノートンやエマ・ストーン、ナオミ・ワッツといった贅沢な脇役の素晴らしい演技が相俟って、じつに厚みのある傑作に仕上がっている。
見どころは多い。「バードマン」というキャラクターを演じるマイケル・キートンが、『ダークナイト』より前の『バットマン』を演じていたため、観客はおのずと「バードマン」に「バットマン」を重ねてしまう。そのようなメタ物語によって観客の視線と意識を牽引しつつ、しかし最終的には、ある種のファンタジーのように物語の結末を観客の想像力に委ねるという手口が、じつに鮮やかである。ラストシーンの高揚感は、この物語の束縛からも、メタ物語のそれからも解放された、私たちの想像力の爆発的な飛翔を示しているのかもしれない。
とりわけ注目したのは、この映画のサブタイトル。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」とは言い得て妙で、じっさい、主人公の俳優は信じがたいほど知性に乏しい。軽薄というわけではないにせよ、猪突猛進というか意固地なわりに考えすぎるというか、いずれにせよ合理的な思考とは無縁のタイプである。周囲の登場人物たちが、いずれも鋭い観察眼や深い洞察力、的確な言葉に恵まれているため、その貧しさがよりいっそう強調されているのだ。追い詰められた彼が直情的な直接行動に身を乗り出す様子には、まるでテロリズムを決断する被抑圧者の心持ちが透けて見えるようだ。
しかしながら、この主人公の「無知」は、彼特有の精神性というわけではあるまい。これはあくまでも主観的な印象だが、物語が展開するにつれ、主人公の胸中には「もしかして世界で俺だけがバカなんじゃないか?」という強迫観念が芽生えつつあるように見えた。こうした物語がある種のユーモアを醸し出すことは疑いないとしても、別の一面では、現代人が苛まれてやまない知性主義への劣等感や強迫観念を暗示していることもまた否定できない事実である。「本物はすげえじじいだ!」と若者に笑われながらパンツ一丁で路上を力強く歩く主人公の姿に泣くほど笑いながら、同時に、心の底に深い影が落ちているのを実感するのは、そのような強迫観念にどこかで身に覚えがあるからにほかならない。
今日的な症候を暗示しつつも、それを想像力によって爆発させる、きわめて良質の映画である。

2015/05/08(金)(福住廉)

フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展

会期:2015/04/25~2015/06/30

東京都庭園美術館[東京都]

ケ・ブランリが所蔵する仮面を一堂に集めた展覧会。改装された東京都庭園美術館の本館と新館でそれぞれ作品が展示された。昨年、国立民族学博物館が所蔵する民俗資料を国立新美術館で展示した「イメージの力」は改めて人類による造形の魅力を深く印象づけたが、それに比べると本展はいかにも中庸な展示で、じつに退屈だった。だが問題は、そうした印象論を超えて、ことのほか根深い。
もっとも大きな問題点は、本展の展示方法が、取り立てて工夫の見られない、凡庸だった点。さまざまな仮面は、ガラスケースの中に収められていたため、鑑賞者はそれらについての解説文を読みながら、一つひとつの造形を鑑賞することになる。美術館においては王道の鑑賞法であるが、本展のような文化人類学的な民俗資料を展示する場合、必ずしも王道として考えることはできない。なぜなら、それらの民俗資料は本来的に美術館から遠く離れた異郷の地に存在していたものである以上、美術館でそれらを造形として鑑賞する視線には、その土地に根づいていたものを引き剥がしたという暴力の痕跡を打ち消してしまいかねないからだ。1990年代以降のポストモダン人類学やポストコロニアリズムの功績は、そのような展示する側と展示される側の不均衡な権力関係を問題化してきたが、本展の展示構成はそのような学術的な蓄積を前提として踏まえているようにはまったく見えなかった。問題を問題として認識していない無邪気な素振りが、問題である。
例えば、前述した「イメージの力」展は、まさしく古今東西の仮面を凝集的に展示することで、仮面の造形に隠された妖力を引き出すことに成功していた。それが、展示する側の権力性を免罪することには必ずしも直結しないにせよ、少なくとも本来の文脈を、テキストによって解説するという安易な方法ではなく、あくまでも展示という方法のなかで伝えようとしていた点は高く評価するべきである。言い換えれば、展示という方法の芸術性を存分に引き出していたのだ。だが、本展のそれは、そのような芸術性はまったく見受けられなかった。むしろ逆に、(そのような意図が含まれていたわけではないにせよ、結果的には)この美術館の歴史性が帝国主義的ないしは植民地主義的な視線をより一層上書きしてしまっていたようにすら思える。
その「イメージの力」展の関連イベントとして、2014年4月12日、国立新美術館で「アートと人類学:いまアートの普遍性を問う」というシンポジウムが催された。新進気鋭の3人の人類学者による基調講演に、同美術館館長の青木保や写真家の港千尋がコメントするという構成だったが、何より驚かされたのは、いずれの発表にも「普遍性」という言葉が、あまりにも無邪気に用いられていた点である。人類学は、その「普遍性」を徹底的に再検証してみせたポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズの経験を忘却して、かつての古きよき人類学に回帰してしまったのだろうか。本展の中庸な展示が、そのような「普遍性」の無批判な称揚と同じ地平にあるとすれば、他者への不寛容と攻撃性が増している昨今の社会状況にあっては、十分警戒しなければならない。

2015/05/07(木)(福住廉)

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天才ハイスクール!!!!展覧会「Genbutsu Over Dose」

会期:2015/04/17~2015/04/23

高円寺キタコレビルほか[東京都]

「天才ハイスクール!!!!」が終わった。2010年以来、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務めた美学校のクラスからは毎年のように数々の異才が輩出され、とりわけ美術大学の教育を経由しない表現のあり方は、東京のアートシーンに物議を醸しながら新たな局面を切り開いてきた。その功績は間違いなく大きい。
ただ、既存の美術大学と対照的な教育を実践してきた「天才ハイスクール!!!!」とはいえ、卒業と同時に社会の荒波に揉まれることになる多くの美大生と同じように、卒業後に孤独な闘いに挑むことを余儀なくされる点は変わらない。今後アーティストとして大成するかどうかは、それぞれ一人ひとりが、「天才ハイスクール!!!!」という集団性で得た経験をもとに、どのように闘いながら生き残っていくかにかかっているだろう。
そのために重要な点は、おそらく3つある。
第一に、先人との関係性。「天才ハイスクール!!!!」は、Chim↑Pomの卯城竜太を講師にして始められたということもあり、もともと上下の関係性が乏しい。むろん、そこには不必要な束縛からは無縁であるという利点があると同時に、ほどよい緊張関係にある先人のアーティストからの激励や批判を受けにくいという弱点も抱えている。むろん会田誠やChim↑Pomなどの先人たちに恵まれていないわけではないが、それにしてもある種の偏りは否めないし、とりわけコミュニティが細分化されている東京では、そのような縦の関係性の恩恵はもたらされにくい。Chim↑Pomが彼らの師匠にあたる会田誠の芸風に影響を受けつつも、同時に軽やかに乗り越え、独自の芸風を確立したように、「天才ハイスクール!!!!」もまた、Chim↑Pomの影響圏内から鮮やかに脱出することが必要となるはずだ。
第二に、地方との関係性。「天才ハイスクール!!!!」とは、よくも悪くも、きわめて東京的な運動体だった。東京のアートシーンは、世代や美術大学、趣向などの条件によって細かく分割されており、その細分化された環境がある種の快適な自由を担保することは事実だとしても、その反面、外部との接点を見失いがちだという欠点も否定できない。外部とは、すなわち自分が帰属する世界以外の世界であり、外部を見失うとは、それらを視野に収めることなく、例えば東京という舞台を全国と錯誤することにほかならない。改めて言うまでもなく、東京とは日本の首都機能を担っているものの、少なくとも美術に限って言えば、全国にあるアートシーンのひとつにすぎない。東京のある部分で評価されたからといって、勝ち誇ったように振る舞うのは、まさしく「井の中の蛙」である。Chim↑Pomが広島という地方都市で決定的な挫折を味わい、その後自力で復活を遂げたように、「天才ハイスクール!!!!」のメンバーは、あえて東京から離れたところでの活動に身を投じるべきだ。東京とはまったく異なる、それぞれの土地の事情を肌で感じれば、自らの表現を根底から見直さざるをえないし、そのことを契機として、さらなる展開を期待できるからだ。
第三に、より根本的には、直情的かつ単発的な表現のあり方をどのように発展させ、展開していくか。「天才ハイスクール!!!!」にしばしば浴びせられがちな批判として、それらの表現がきわめて単純明快であり、まるで思いつきをそのまま可視化したような作品が多いという点が挙げられる。表現の初期衝動を具体的な作品として結実させる点では、なんら問題はない。他の文化表現に比べると、とりわけ現代美術は歴史や文脈、技術などの専門知によって不必要に初心者を遠ざけてきたことを思えば、むしろそのような直接性は推奨されるべきだろう。けれども、「天才ハイスクール!!!!」が解散したいま、彼らはもはや「初心者」ではありえない。少なくとも、そのようなアート・コレクティヴを経験したアーティストとしてみなされるとき、直情的かつ単発的な表現だけではあまりにも物足りない。それらを出発点としつつも、独自の方法を練り上げ、自らの世界観を深めていくことが必要とされるに違いない。
本展は、「天才ハイスクール!!!!」の最後の打ち上げ花火としては、じつに華々しいものだった。しかし、その華やかさの先へ伸びる道はすでに始まっているのだ。

2015/04/20(月)(福住廉)

小泉明郎──捕われた声は静寂の夢を見る

会期:2015/03/21~2015/06/07

アーツ前橋[群馬県]

小泉明郎の回顧展。映像作品を中心に立体や平面など、初期作から新作まで幅広く発表された。
よく知られているように、小泉明郎の映像には演劇的要素が強い。いや、より正確に言えば、登場人物が演技をしながらも、同時に、演じていることそのものを鑑賞者に開陳している場合が多い。それゆえ鑑賞者は、その映像を見るとき、その主題が戦争をはじめとする現実的かつ歴史的なものであったとしても、映像の中の世界が虚構であることを否応なく意識せざるをえない。
だが注目したいのは、そのような意識の二重性は、だからこそ逆に、強い現実感を醸し出す場合があるという点である。さしあたり小泉の代表作と言っていい《若き侍の肖像/Portrait of a Young Samurai》は、若い役者に特攻隊員を演じさせた映像だが、随所に演技指導をする小泉の声が差し挟まれているため、そのような二重性が出発点となっている。出撃を前に母親への感謝と報告をする隊員の演技は、小泉のディレクションにより次第に激烈になってゆき、やがて内臓を絞り出すような嗚咽が漏れ始めると、そこに小泉によって演じられた母親の声が重ねられ、姿を見せないまま、彼の出撃を止めようと懇願するのだ。
戦争に翻弄される母と子。それ自体は数々の戦争映画で描写されてきたような、中庸な主題である。だが小泉の映像が秀逸なのは、その虚構性を上書きしながら極限化することによって、虚構の先にしか見出すことのできない類のリアリティを導き出しているからだ。それは、現実を虚構化する劇映画とも、現実を現実として見せようとするドキュメンタリー映画とも異なる、虚構の内側を徹底的に突き詰めることで初めて現われる、非常に独特な映像経験である。それが過剰な演技であることを了解しつつも、思わず落涙してしまう鑑賞者が多いのは、そこにある種の現実感を感知してしまったからにほかならない。
今回改めて小泉の映像作品を見てみると、彼の関心が見えないものを召喚することに注がれていることがよくわかる。特攻隊員の母親はもちろん、戦時中に前橋で空襲された経験をもつ老人の語り口を聞くと、当時の情景がありありと眼に浮かぶし、同じ特攻隊員でありながら生き別れた友人との会話を演じる老人の映像には、あの世から呼び出された彼の魂が老人と交わっているような感覚がある。言い換えれば、眼に見えない霊的な存在がそこに立ち現われているような気がするのだ。むろん、それらは実証的な裏づけを欠いた、あくまでも感覚にすぎない。だが、そもそも「メディア」の語源のひとつに「霊媒」があるように、芸術に可能なのは、そのようにして眼に見えないものを身体に宿らせ、その内側に響き渡る実感をもって増幅させることではなかったか。
思えば、そのような霊的な交感は、かつてもいまも、ある種の人工的な虚構性を必要不可欠としていた。小泉が演技の虚構性を自覚的に前面化させているのは、自らの作品を安直なスピリチュアリズムに回収させないための方策であるばかりか、不可視の存在を可視化する営みにとって、それが不可避の手段であることを熟知しているからではなかろうか。芸術は嘘を真として信じさせる技術ではなく、むしろ真実を体現する嘘なのだ。

2015/04/05(日)(福住廉)

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春を待ちながら──やがて色づく風景をもとめて

会期:2015/02/28~2015/04/05

十和田市現代美術館[青森県]

阿部幸子、高田安規子・政子、野村和弘によるグループ展。共通しているのは、いずれもささやかでひそやかな手わざによる作品という点である。
野村が発表したのは、おびただしい数のボタンを集積したインスタレーションなど。来場者が持ち寄ったボタンを投入させる観客参加型の作品である。高田姉妹の作品は、透明な吸盤に緻密な模様を彫り込んだり、軽石から円形競技場を彫り出したり、いずれも非常に繊細で緊張感の漂う制作過程を連想させる。ボタンや吸盤などの日用品を素材にしながら、ささやかでひそやかな感性を育んでいる点は、昨今の現代美術のひとつの傾向と言えるだろう。
とりわけ印象深かったのが、阿部幸子。会期中の毎日、会場内でパフォーマンス作品を披露した。白い雲が立ち込めたかのような幻想的な空間の中心で、阿部自身がはさみで紙を切り続けている。行為そのものは非常にシンプルだが、その白い雲が彼女が切り出した紙片の塊であることに気付かされると、その行為にかけた並々ならぬ執念と反復性に驚かされる。このような持続的な行為の反復は、数ミリ単位の細長い円形模様を長大なロール紙の上に繰り返し描きつけた彼女のドローイング作品にも通底していた。
はさみは紙の四辺に沿ってリズミカルに進む。その音はマイクで拾われ、会場内に大きく反響している。脳裏を刻まれているように錯覚する者もいれば、封印したはずの遠い記憶が呼び起こされる者もいる。視覚的には単純な情報しか入ってこないにもかかわらず、脳内では実に多様で豊かな感覚が生まれるのだ。
しかし思えば、このような変換による感覚の増幅こそ、美術の可能性の中心ではなかったか。本展で展示されていた作品は、華々しいスペクタクルを見せつけるようなものでも、コンセプトという知的ゲームに溺れるようものでもなく、ごくごく控えめで、どちらかと言えば地味な部類に入るが、いずれも美術の王道を行く作品であると言えるだろう。

2015/04/02(木)(福住廉)

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