artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
成田亨 美術/特撮/怪獣
会期:2015/01/06~2015/02/11
福岡市美術館[福岡県]
成田亨の本格的な回顧展。ウルトラマンの怪獣をデザインしたことで知られているが、その前後に制作された絵画や彫刻なども含めて700点あまりの作品が一挙に展示された。
何より眼を引いたのは、数々の怪獣を描いた絵コンテ。強弱のある線と濃淡をつけた水彩の色彩を組み合わせた怪獣の描写がとてつもなくすばらしい。昆虫や動物など、怪獣の着想の源となったイメージも併せて展示されていたので、成田の想像力の展開過程も理解できるようになっていたが、やはり最大の見どころはその想像力を実際にフォルムに置き換えた手わざにある。線とかたちの有機的な結合の巧みさに何度も唸らされた。ウルトラマンという大衆文化を生み出した根底には、成田の類まれな描写力が隠されていたのだ。
本展の醍醐味が怪獣デザイナーとしての成田亨の全貌を解き明かすことにあることは疑いない。けれども、その余韻として残されるのは、むしろ大衆芸術と純粋芸術が重なり合う余白である。ウルトラマンシリーズ以後の成田のクリエイションが次第に先鋭化していき、そのデザインの重心も有機性から抽象性に移り変わっていった事実を考えれば、成田を大衆芸術から純粋芸術への移行過程に位置づけることはできなくはない。けれども、成田はジャンルを横断するように大衆芸術から純粋芸術へ転身したわけではあるまい。晩年盛んに描いていた油彩画には、カネゴンやピグモンといった自らが生み出した怪獣がたびたび登場しているからだ。成田にとって、自らの立ち位置はそもそも最初から大衆芸術と純粋芸術が重複する領域にあったのだ。
多くの場合、現代美術を中心に考える思考方法によると、純粋芸術を大衆芸術から切り分ける傾向がある。そのことによって美術の自立性を唱導しようとしたわけだが、成田亨の豊かな創作活動が示しているのは、そのような制度上の区分があくまでも人為的につくられたものにすぎないという厳然たる事実である。
80年代以後、成田の想像力は神話的な物語へと向かった。龍や天狗など、誰もが知るキャラクターであるがゆえに、成田の想像力がそれらを十分に開花させたとは言い難いが、それでもここには重大な意味がある。なぜなら成田がはじめから大衆芸術と純粋芸術が重複する領域に立脚していたとすれば、成田の想像力はそもそも最初から神話を物語っていたとも考えられるからだ。晩年になって根源的な神話に立ち返ったのではなく、ウルトラマンシリーズの怪獣をデザインしていた頃から成田は神話的な想像力を発動していたのではなかったか。成田自身が的確に指摘しているように、「神話は歴史ではなく人の想像力」の問題なのだとすれば、純粋芸術であれ大衆芸術であれ、想像力をもって何かを創作することは、必然的に神話の水準に到達するはずだ。成田亨の功績は、現代美術やサブカルチャーという制度的区分にかかわらず、ものづくりの極限化が神話にいたる道筋を、私たちの目前に示した点にある。
2015/02/05(木)(福住廉)
鉛筆のチカラ 木下晋・吉村芳生 展
会期:2014/12/06~2015/02/08
熊本市現代美術館[熊本県]
木下晋と吉村芳生の二人展。それぞれ主題も関心も異なるが、ともに鉛筆を用いている点では共通している。前半に木下、後半に吉村の作品が立ち並んだ展観は、よく知られた代表作が多かったとはいえ、非常に見応えがあった。
この二人の優れたアーティストについては、すでに十分に論じられているので、新たな論点を提起することは、なかなか難しい。ただ、両者による作品をあわせて見てみると、木下にとっての「他者」と吉村にとっての「自己」が、鉛筆という画材をとおして表裏一体の関係にあるように思われた。
ハンセン病患者で詩人の桜井哲夫や最後の瞽女、小林ハルをみつめる木下の視線は、絶対的な他者を見ているようで、そのなかに自分自身を見出しているように見えるし、尋常ではない執着心によって自分の顔を徹底的に対象化している吉村にしても、描かれた自画像の視線が見ているはずの他者を私たちに想像させている。つまり木下と吉村は、それぞれ自己と他者に焦点を強く当てながらも、自己の中の他者、他者の中の自己を浮き彫りにすることで、結果的に、自己と他者の境界線を溶け合わせているように見えた。両者による鉛筆の線は、どれほど正確に対象を写しとったとしても、自己と他者の曖昧で不確かな質を照らし出すのである。
吉村の作品に《未知なる世界からの視点》という絵画がある。川岸に咲き乱れる黄色い花を色鉛筆で描いた大作だが、吉村はこれをつねに天地を逆にして展示しており、実際本展でもそのように展示されていた。川面に映る花々が上に、実際の花々が下に見えるわけだが、あまりにも精緻に描かれているため、一見しただけでは逆転していることがわからない。ただ今振り返れば、この転倒は、展示上の工夫を超えて、上述したような自己と他者の転倒をも暗示しているように思えてならない。
自己と相対する他者がいる。その他者の先には死者がいる。木下と吉村の作品は、おそらく自己と他者の境界線のみならず、死者と生者のそれをも撹乱しているのではないか。木下の作品に強く立ち込めている祈りの雰囲気は、自己と他者、そしてその先の死者に連なる、長い時間性が感じられるし、前述した吉村の絵画が描いているのは文字どおり此岸と彼岸の狭間だからだ。自己を出発点にしながらも、他者や死者にまで到達する魂の往来。木下晋と吉村芳生は、それぞれ別々のやり方で、その境地を目指しているのではなかろうか。
2015/02/05(木)(福住廉)
生誕100年 小山田二郎
会期:2014/11/08~2015/02/22
府中市美術館[東京都]
小山田二郎(1914-1991)の回顧展。160点あまりの油彩画と水彩画が、時系列に沿って展示された。
小山田をめぐる言説といえば、下唇が腫れ上がった顔面の異形や家族を置いて失踪した波乱に満ちた私生活などに焦点を当てられがちだったが、今回の展観で再確認させられたのは、そうした副次的な情報に手を伸ばすことより、小山田の絵画の力強さをこそ、まず語らなければならないという自明のことだった。
とりわけ50年代に描かれた作品は圧倒的である。生涯のテーマともいえる《鳥女》をはじめ、《ピエタ》《愛》《はりつけ》など、いずれもシンプルな構図と乏しい色彩で描かれているにもかかわらず、見る者の心を鷲掴みにしてやまない。それは、描かれた怪物的なモチーフがおどろおどろしいからだけではない。そのような迫力ある異形が、ある種の貧しさのなかから生み出されていることが、十分に理解できるからだ。
その貧しさとは、むろん小山田の貧窮した暮らしぶりを意味するわけではなく、絵画のうえでの貧しさを指している。画面の表面に視線を走らせると、思いのほか薄塗りであることに驚かされる。要所要所で厚塗りのポイントがないわけではないとはいえ、全体的には非常に薄いのだ。絵画全体が重厚感を醸し出しているだけに、この薄塗りはひときわ強い印象を残す。
しかも、小山田の絵画に特徴的なのが、表面に加えられた無数のスクラッチである。その傷跡は、背景にある場合もあるし、図像の輪郭線をかき消す場合もある。いずれにせよ、そうすることで画面全体の激情性を著しく高めていることは明らかだ。小山田は、量的には乏しい絵の具でも、それをあえて削り取ることによって、逆に質的な豊かさを絵画の中に現出させたのだ。
60年代以後、小山田は色彩をふんだんに取り入れた作品に展開していくが、瑞々しい色彩が目を奪うことは事実だとしても、形態の力強さや緊張感はむしろ後退してしまったように見える。
研ぎ澄まされた形態は色彩に頼ることができなかったという貧しい条件と裏腹だったのであり、だからこそ色彩の多用は形態の弱体化をもたらしてしまったのである。
必要以上に絵の具を盛りつけがちな昨今の若いアーティストは、小山田から学ぶことが少なくないのではないか。
2015/01/27(火)(福住廉)
シャレにしてオツなり 宮武外骨・没後60周年記念
会期:2015/01/10~2015/02/11、2015/02/14~2015/03/01
伊丹市立美術館[兵庫県]
宮武外骨は、江戸時代に生まれ、明治から大正、昭和にかけて活躍した反骨のジャーナリスト。官憲による度重なる弾圧を、媒体を次から次へと創刊することでかいくぐり、何度逮捕されても決して体制に飼い慣らされることなく、鋭い批判精神によって政府や資本家を糾弾した。本展は、外骨が手がけた『滑稽新聞』や『スコブル』、『面白半分』といった印刷物をはじめ50点弱の資料を展示したもの。比較的小規模とはいえ、外骨の批評的活動のエッセンスが凝縮した好企画だった。
すでによく知られているように、外骨の活動は批判的なジャーナリズムを中心にしながらも、決してそれだけにとどまらなかった。吉原の遊女たちの言葉づかいをまとめた『アリンス語辞彙』、賭博の歴史について体系的に論じた『賭博史』など、その射程は言語論や史学にまで及び、じつに広範囲なフィールドで活躍した。とりわけ後者は、賭博、すなわち博打の定義から由来、種類などを詳細に解明した画期的な書物で、この分野における古典として読み継がれている。
この本の執筆を持ちかけたのは、民俗学者の折口信夫だった。外骨によれば、その際折口は「賭博のことを書いた本は古来ひとつもないが、これも国民性研究のひとつとしてぜひなければならぬ物で、あなたのような人がやるべきことだろうと思います。われわれの如き教職に携わっている者共は、賭博研究の専門書がないので、いつも困ることがあるのです、あなた一流の編纂式でやってくださいませんか」と言ったという。ここに認められるのは、アカデミズムの研究者の限界と、その穴を充填しうる在野の研究者との、ある種の補完関係である。
「歴史は民衆生活の表裏を基礎とした叙述でなくばならぬ」。賭博が表なのか裏なのかはさておき、民衆生活に根を下ろしていることは、いまも昔もさして変わらない。重要なのは、その事実を歴史研究の主題として対象化した慧眼と、それを実行に移した行動力である。アカデミズムであれ在野であれ、はたして美術史は、その2つを持ちえているだろうか。
2015/01/12(月)(福住廉)
インターステラー
会期:2014/11/22
丸の内ピカデリー[東京都]
クリストファー・ノーランによる最新作。宇宙を舞台にした冒険活劇の体裁をとりながら、その内実は父娘のあいだの絆を描いた人間ドラマである。そのいかにも凡庸な主題は、ややもすると陳腐で退屈な印象を与えかねないが、それを巧妙に回避しているのが、抑揚のある物語展開と、入念につくり込まれた映像美だろう。
冒頭、不意に飛来したドローンを追って主人公の親子がトウモロコシ畑の中を車で突っ走るシーンで、物語に一気に引き込まれる。次々となぎ倒されるトウモロコシ。ここで表わされているのは、地球規模の環境汚染による食糧難のため、いまや希少な食料源となったトウモロコシを踏み倒してまでもドローンを捕獲しようとする父親のすさまじい執念と並外れた行動力である。このシーンで主人公の性格が端的に示されたと言ってもよい。
だが、それより何より私たちの眼を奪うのは、青々とした広大なトウモロコシ畑の中に車輪が引いていく線であり、この大地に刻まれる線の運動性は、そのような「意味」を読み取るより前に、鑑賞者の視線を釘づけにしたに違いない。映画の醍醐味のひとつが、言語より速い速度で眼球を独占する映像美にあるとすれば、それは必ずしもCG技術に依存しているわけではなく、むしろアースワークやランドアートのような泥臭い水準でも成立しうることを、本作は実証していた。
ところでトウモロコシ畑といえば、類似した作品として『フィールド・オブ・ドリームス』が挙げられる。父親と娘という違いがあるものの、ともに親子の和解を主題としており、ともにトウモロコシ畑と野球場を主要な舞台装置としているからだ。違うのは、『フィールド・オブ・ドリームス』のトウモロコシ畑が別世界への通路として描写されていたのに対し、本作における別世界への通路はガルガンチュア(ブラックホール)とされていた点である。さらに前者の主人公はトウモロコシ畑の野球場でゴーストとしての父親を待ち受ける側だが、後者の主人公は宇宙の五次元空間へ飛び、その闇から娘を見つめるゴーストと化す。
わたしには見えないが、向こうからは見えているような気がする。これは、例えば霊場や墓場で経験しうる特殊で非日常的な感覚だが、本作のもっとも大きな功績は、「わたし」としての娘と「向こう」としての父親の双方の視点から物語を描写することによって、近接しながらも隔てられた両者のあいだの距離感をまざまざと浮き彫りにした点である。「わたし」と「向こう」は、家庭の中であれ地球の外の宇宙であれ、つまり物理的な距離にかかわらず、近づきつつも遠く隔てられている。だが逆に言えば、そのような絶対的な距離があればこそ、「わたし」は「向こう」を感知することができるのだろう。
2014/12/29(月)(福住廉)