artscapeレビュー
ダレン・アーモンド 追考
2014年03月01日号
会期:2013/11/16~2014/02/02
水戸芸術館現代美術センター[茨城県]
「時の旅人、ダレン・アーモンドが光と音で紡ぎ出す人類の叙事詩」。いかにも大仰な、本展の宣伝文句である。しかし、実際に展覧会を見ると、ダレン・アーモンドの真骨頂は「叙事詩」というより、むしろ「叙情詩」なのではないかと思わずにはいられない。
展示されたのは、写真や映像、インスタレーションなどさまざまであり、その内容も一貫性があるとは思えないほど多様である。けれども、少なくとも通底しているのは、それぞれのメディウムにおける形式的な美しさを最大限に洗練させながら、それぞれ鑑賞者の情動に強く働きかけている点である。
例えば、京都の比叡山で行なわれている千日回峰行を主題とした《Sometimes Still》(2010)は、複数のスクリーンを設置した映像インスタレーション。暗闇の中、斜面を駆け上がる修行僧を追尾したカメラの映像は、音響効果も手伝って、得も言われぬ緊張感が漂っている。シベリアで撮影したという《Less Than Zero》(2013)も、粗いモノクロ映像によって荒々しい風土や溶鉱炉の灼熱を映し出し、来場者の皮膚感覚を強く刺激していた。
一方、自分の父親に身体の負傷についてインタビューした《Traction》(1999)は、生々しい体験談に身体の内奥に眠っている痛覚が呼び覚まされる。肉体労働者の父はチェーンソーで指先を切り落とし、工事現場の高所から落下して骨を折り、フットボールの試合で歯がごっそり抜けた。文字どおり頭のてっぺんから足先まで全身傷だらけなのだ。その痛々しい歴史を淡々と口にする父親の語り口には思わず笑ってしまうほどだが、傍らで黙って話に耳を傾ける母親の眼を見ると、そこに家族の歴史が凝縮していることに気づかされる。痛みは記憶の糸口であり、それゆえ歴史を紡ぎ出す結節点となる。
肉体的な感覚と社会的な文脈の縫合。前者に傾きすぎると情緒的なだけになるが、後者に偏りすぎるとたちまち芸術性が失われてしまう。ダレン・アーモンドの妙技は、さまざまなメディウムを駆使しながら、双方のあいだで調和をはかる絶妙なバランス感覚なのだろう。
2014/02/01(土)(福住廉)