artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

アルバレス・ブラボ写真展 ─メキシコ、静かなる光と時

会期:2016/07/02~2016/08/28

世田谷美術館[東京都]

期待にたがわぬ素晴らしい展示だった。このところ立て続けに紹介されているラテン・アメリカの写真家たちのなかでも、マヌエル・アルバレス・ブラボ(1902~2002)の回顧展は特別な意味を持つ。作品のクオリティの高さ、多様性、持続力、どれをとっても世界的なレベルで通用する大写真家であることが、まざまざと見えてくるからだ。192点という点数もさることながら、年代順に章を区切って代表作を並べるというむずかしいキュレーション(担当=塚田美紀)を、きちんと実現できたのはとてもよかったと思う。
とはいえ、ブラボの作品はメキシコやラテン・アメリカ写真の文脈にはおさまりきれないところがある。むろん彼は初期から、メキシコの広大な大地、遺跡、独特の風貌のインディオたちや彼らの生活ぶりをカメラにおさめており、メキシコ・シティの活気あふれる路上のスナップもある。だが、それらはブラボの写真世界の中心に位置を占めているのではなく、むしろごくプライヴェートな場面、身近な人物たちの写真が、彼にとっては重要な意味を持っていたのではないかと思える。しかも、それらの写真の基調になっているのは「静けさと詩情」であり、喧騒に満ちたエネルギッシュなメキシコの現実は、写真の背後に退いているのだ。
晩年の80歳代で制作された「内なる庭」(1995~97)が典型的だろう。このシリーズは、メキシコ・シティのコヨアカンの自宅の庭を、淡々と縦位置で写しとめたものだ。壁に落ちる植物の影、波打つカーテンなど、ひっそりとした事物のたたずまいを静かに見つめているのだが、そこには目に見えない精霊たちと戯れているような気配が色濃く漂っている。このような内省的(瞑想的)な眼差しのあり方こそが、ブラボの写真を特徴付けているのではないだろうか。驚くほど多様な被写体を扱いながら、そこには明確にブラボの物の見方が貫かれているのだ。
それにしても、メキシコ(ラテン・アメリカ)の写真はじつに面白い。ぜひどこかの美術館で、その全体像を概観する展覧会を企画してほしいものだ。

2016/07/03(日)(飯沢耕太郎)

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From Life─写真に生命を吹き込んだ女性 ジュリア・マーガレット・キャメロン展

会期:2016/07/02~2016/09/19

三菱一号館美術館[東京都]

ジュリア・マーガレット・キャメロン(1815~79)は、19世紀イギリスを代表する写真家である。女性写真家の草分けの一人でもあり、48歳の誕生日に娘夫婦からカメラを贈られたのをきっかけにして、以前から持ち続けていた「美への憧れ」を満たす手段として写真撮影とプリントに熱中する。数年で自分のスタイルを確立し、「肖像」、「聖母群」(聖母マリアと幼子のイエス)、「絵画的効果を目指す幻想主題」(神話や宗教的なテーマに基づく演出写真)という3つのジャンルを精力的に作品化していった。
今回の三菱一号館美術館での展示は、キャメロンの作品を多数所蔵するヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)が、生誕200年を記念して開催した回顧展の掉尾を飾る日本巡回展である。貴重なヴィンテージ・プリント118点をまとめて見ることができる機会は、日本ではもう二度とないだろう。ほかにキャメロンの同時代の写真家たち、ルイス・キャロル、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン、ヘイウォーデン卿夫人クレメンティーナらの作品も出品され、「キャメロンとの対話」の部屋には、キャメロンの世界観、写真観と共鳴するピーター・ヘンリー・エマーソン、アルフレッド・スティーグリッツ、サリー・マンの作品も並んでいた。見逃せない好企画といえるだろう。
キャメロンの写真は発表された当時から、ブレやピンぼけ、画像の剥落やひび割れなどの技術的欠陥について、強い非難を浴び続けてきた。だが、いまあらためて見ると、V&Aのキュレーターのマルタ・ワイスが指摘するように、それらの「失敗」が、彼女自身の身体性(「キャメロンの手の存在」)をより強く意識させる役目を果たしているのがわかる。彼女にとって、モデルの外貌を正確に描写するよりも、彼らの存在そのものから発するリアリティを受けとめ、捉えることのほうが大事だったのだ。そんな強い思いが、時には画面からはみ出してしまうような極端なクローズアップや、ふわふわと宙を漂うようなソフトフォーカスの画像によって、生々しく露呈し、強調されているように感じる。キャメロンは、当時の女性としては小柄な方だったという。にもかかわらず、その作品から放射されるエネルギーの総量はただならぬものがある。現代写真にも通じる大胆不敵な描写を、全身で味わっていただきたい。

2016/07/01(金)(飯沢耕太郎)

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楢橋朝子「近づいては遠ざかる 1985/2015〈ベトナムの場合〉」

会期:2016/06/21~2016/07/03

photographers’ gallery[東京都]

楢橋朝子は、以前同じタイトルの「近づいては遠ざかる 2009/1989」(東京アートミュージアム、2009)という個展を開催したことがある。そのときには、新作のドバイの写真(カラー)と旧作のスナップショット(モノクローム)を並置したのだが、今回も同じコンセプトを踏襲している。つまり、まだ学生だった1980年代半ばに「目を輝かせながらも少し恥ずかしそうにしている子どもたちや、朗らかでしたたかな人びとのエネルギーに惹きつけられて」ベトナムを3度にわたって訪ねたときの初々しい写真と、2015年に30年ぶりにホーチミン市を再訪した時の写真とが、交互に展示されているのだ。
同じ場所を、時を隔てて再び訪ねるというのは、写真家にとって興味深い経験なのではないだろうか。すっかり変わってしまった人や街の様子だけではなく、自分のものの見方の違いも確認できるからだ。今回の展示では、日付を入れて撮影された、素朴だが力強い1980年代の写真群(モノクローム)と、楢橋流にバイアスをかけて、やや斜めから距離をとって撮影された2015年のカラー・スナップの対比がもくろまれている。その狙いはうまく成功していて、近代化、資本主義化の急速な進行によって大きく変貌しつつある街の空気感が、ヴィヴィッドに伝わってきた。新作と旧作を同時に展示する「近づいては遠ざかる」のシリーズは、これから先も別なヴァージョンで続けていってほしいものだ。
なお、隣室のKULA PHOTO GALLERYでは、1985年にベトナムで撮影したVHSビデオを再編集した映像作品と、2015年撮影のデジタルビデオ画像を、マルチスクリーンで同時上映していた。2015年の、街を縦横無尽に走り回るバイクの群れの映像作品は、撮り続けていくとより面白くなりそうだ。

2016/06/30(木)(飯沢耕太郎)

山田弘幸「Fragment」

会期:2016/06/17~2016/07/09

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

ちょうど東京国立近代美術館の吉増剛造展を見たばかりということもあって、EMON PHOTO GALLERYで開催された山田弘幸展の出品作にアーティストとしての共通性を感じた。山田は昨年度の第5回EMON AWARDのグランプリ受賞作家だが、写真家という枠組みから大きく逸脱した作品を発表し続けている。「素材」を得るための基本的なメディウムとして写真を使用してはいるのだが、それらをプリントするときに、画像に絵画的な操作を施したり、テキストを書き込んだり、実物とともにミクスト・メディアとして提示したりする。原稿用紙に書いた「男」という文字を重ねてプリントしたり(ネガ画像とポジ画像で)、紙に釘で無数の穴を穿って図像を描いたりといった、写真家の仕事とは思えない作品も多い。そのあたりの、発想をすばやくかたちにしつつ、変形し、拡張していく画像操作のあり方が、吉増と重なって見えてくるのだ。
あまりにも多彩な作品群なので、焦点を合わせるのがむずかしいのだが、今回の展示のメインとなっていた大作「NOSOTROS SOMOS」は、珍しく彼の意図がストレートに伝わってくる作品だった。とはいえ、この作品もかなり複雑な構成で、トレーシングペーパーにプリントしたセルフポートレートを中心にして、その背後に父親と母親の結婚式の写真、軍服を着た祖父の写真、母親が撮影した仏壇の写真などが二重、三重に重なり合っている。それに加えて、余白には「私たちは……」を意味する「NOSOTROS SOMOS」や、「一か八か」という意味だという「A TODA MADRE O UN DESMADORE」といったスペイン語の文字が書き込まれている。つまり、祖父、両親、自分と繋がってくる過去─現在─未来の時間軸を、一旦バラバラに解体し、強引に結び合わせて再構築する試みなのだ。
山田のようなタイプのアーティストに、「普通の」写真表現を求めても無駄だろう。彼の画像操作は単なる思いつきではなく、現実の背後に潜む「見えない」ヴィジョンを引き出したいという強い意志を持って、確信犯的に為されているからだ。まだ、思いつきを撒き散らしている段階だが、それがもう少し明確にひとつの方向に収束していくようになれば、恐るべき表現力を備えた「写真家」が出現してくるに違いない。

2016/06/25(土)(飯沢耕太郎)

大塚咲「3P」

会期:2016/06/24~2016/07/10

神保町画廊[東京都]

性的な行為を写真として表現するのは、簡単なようでなかなかむずかしい。人間が何かに夢中になって没入している時の、真剣かつ厳粛で、時にはたまらなく滑稽な表情や身振りは、写真の被写体としてとても魅力的なのだが、下手すると退屈なポルノグラフィ以上のものにはならないからだ。しかも、それは時には法の規制を受けるような「危ない」イメージであり、写真家も観客も感情を完全にコントロールするのは不可能である。何人かの写真家たちが、そのぎりぎりの綱渡りを試みてきたが、あまりうまくいかないことが多かった。
プロフェッショナルの性的なパフォーマーとして活動してきた大塚咲の新作は、自らが被写体となるという仕掛けのなかで、その難題にチャレンジしている。この「3P」のシリーズには、彼女自身を含んだ3人/3組の男女が登場してくる。その複雑に進行していくプロセスを捉えるために、彼女が思いついたのは、複数のイメージをA3サイズで「コンタクトプリント」のように提示することだった。100カット以上をひとつの画面におさめることで、めくるめくような視覚的な効果が生じてくる。それに加えて、単独の写真(2L、A3、A2サイズ)も300点近く展示することで、ギャラリーの空間を活かしたインスタレーションとして、とてもうまく構成されていた。「性は好奇心に突き動かされて、どうして人の本性を見せるんだろう。どうして心の傷を見せるんだろう。どうしてそれを見た時、私は安心するんだろう」。写真の選択にはまだ甘さが残るが、写真展に寄せたこの大塚のコメントを見る限り、性行為を媒介にした人間観察には、さらなる深化が期待できそうだ。

2016/06/24(金)(飯沢耕太郎)