artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

福山えみ「岸を見ていた」

会期:2016/05/11~2016/06/18

POETIC SCAPE[東京都]

福山えみの同会場での個展は、2012年以来4年ぶりになる。前回は、旧作のヨーロッパのシリーズを出していたのだが、今回は新作の展示だった。といっても、作品の成り立ち、画面の構成の仕方にそれほどの大きな違いはない。
6×7判のカメラで折りに触れてシャッターを切る。被写体の幅はかなり広いが、特徴的なのは画面の手前にフェンスや建物の一部、植え込みなどがぼんやり写っていて、それら越しに奥を見渡すような写真が多いこと。撮り手がどこにいるのかというポジショニングが、手前の写り込みによって強調され、何かに視線を向けているという出来事の意味(といってもごく日長的なものだが)が強調される。もうひとつは、歩行中、あるいは移動中の車や電車から撮ったと思しき写真がけっこう多くあることで、一所に留まることなく通過していく視点のあり方が目についてくる。11×14インチサイズに引き伸されたモノクローム・プリントを含めて、その視覚形成と画像定着のシステムは、ほぼ固定されてはいるが、そのなかで独自の進化を遂げ、洗練の度を増してきている。
そのこと自体に問題はないのだが、このまま続けていけばいいのかといえば、やや疑問が残る。ひとつのシステムに依拠して作品をつくり続けるのは諸刃の剣で、せっかくの写真家としての優れた資質を、充分に発揮しきれていないもどかしさも感じる。昨年体調を崩して、しばらく写真が撮れなかったとそうだが、従来の写真制作のシステムをもう一度見直して、新たなチャレンジをするいいチャンスではないだろうか。スナップショットの偶発性の呪縛から、いったん自由になるのもいいと思う。なお、展覧会にあわせて、同名の写真集(自費出版)が刊行されている。

2016/05/14(土)(飯沢耕太郎)

W.H.フォックス・タルボット写真展 「自然の鉛筆」

会期:2016/04/18~2016/06/05

写大ギャラリー[東京都]

東京工芸大学中野キャンパスの写大ギャラリーでは、1977年9月にW.H.フォックス・タルボットの没後100年を記念して、「近代写真術の発明家FoxTalbot 自然の鉛筆」展を開催した。そこでは、彼が発明したカロタイプの技法を使った24枚のプリントを貼付した、「世界最初の写真集」である『自然の鉛筆』(The Pencil of Nature, 1844~46)の収録作品をはじめとして、42点のタルボットの作品が展示された。プリントはフォックス・タルボット美術館の館長を務めていたマイケル・グレイによるもので、カロタイプ・ネガから当時実際に使われていた塩化銀紙(ソルテッド・ペーパー)に焼き付けてある。没後100年にあたって3セットつくられたうちの1セットが日本で初公開され、そのまま写大ギャラリーにコレクションされることになった。本展は、その「自然の鉛筆」展のリバイバル企画ということになる。
カロタイプ特有の、ややソフトフォーカス気味の描写や、淡くはかなげな色味は、今見ても充分に魅力的だ。それに加えて、数学、歴史、文学にも造形が深く、アッシリア語やバビロニアの楔文字の研究家でもあったというタルボットの知的な関心の広さは、建築物から彫刻、絵画まで及ぶ被写体の選択にもよくあらわれている。画面構成に繊細な美意識がはたらいていることにも注目すべきだろう。まさに写真表現の源流、原型として、何度でも参照すべき作品群といえるのではないだろうか。
ところで、先頃赤々舎から青山勝の翻訳で日本語版の『自然の鉛筆』(畠山直哉のエッセイ、マイケル・グレイの解説も含む)が出たのだが、その作者名の表記は「トルボット」になっている。この「タルボット/トルボット」問題は悩ましいもので、たしかに現地の発音は「トルボット」に近いようだが、長年「タルボット」という表記を使ってきたことで、今さら変更するのがむずかしいという事情もありそうだ。少しずつ「トルボット」に統一されていきそうだが、しばらくはどうしても混乱が続くのではないだろうか。

2016/05/13(金)(飯沢耕太郎)

石山貴美子展──わたしが出会った素敵な作家たち

会期:2016/05/09~2016/05/14

巷房(3階、地下、階段下)[東京都]

『面白半分』(1972~80)は、僕の世代にとってはとても懐かしい雑誌だ。作家や詩人が半年交代で編集長を務め、それぞれの特徴を打ち出した洒脱な編集ぶりで人気を集めた。初代編集長は吉行淳之介で、以下野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆と続く。これらの顔ぶれは、若い世代にはぴんと来ないかもしれないが、高度経済成長下に花開きつつあった「70年代文化」のエッセンスそのものといってよい。石山貴美子は、その『面白半分』でインタビューや対談記事の写真撮影を担当していた。本展では、その時代に撮影したポートレートを、ヴィンテージ・プリント6点を含めて65点ほど展示している。
文学者たちの普段着の気取らない表情を、いきいきと捉えることができたのは、石山があくまでも傍観者としての位置からシャッターを切っているためだろう。黒子に徹することで、むしろ彼らの無防備な、壊れやすい内面が写り込んできているように見える。今回の写真展のDMには吉行、野坂、開高、五木、金子、井上といった『面白半分』の歴代編集長に加えて、羽仁五郎、草野心平、田中小実昌、寺山修司、大島渚、唐十郎のポートレートが使われている。皆若々しい風貌だが、その12人のうち、五木と唐を除いて10人が故人になっていることに気づくと、感慨深いものがある。「70年代」が、すでにはるか彼方になりつつあるということだが、逆にこれらの写真を見ていると、彼らの記憶が生々しくよみがえってくるように感じる。写真に力があるので、いいエッセイをつけて、ぜひ一冊の本にまとめてほしいものだ。

2016/05/12(木)(飯沢耕太郎)

蜷川実花「ファッション・エクスクルーシヴ」

会期:2016/04/23~2016/05/08

表参道ヒルズ スペースオー[東京都]

東京・原宿の表参道ヒルズ開業10周年記念展として開催された、蜷川実花「ファッション・エクスクルーシヴ」展に向かう階段の上から会場を見渡した時、空気がどよめいているように感じた。蜷川独特の浮遊する原色の塊が、強烈なエネルギーを放射しており、それが周囲の環境にまで影響を及ぼしている気がしたのだ。近頃あまりお目にかかれない、会場全体をある種のワクワク感が包み込んでいるような展示だった。
主に天井から吊り下げられた、広告・ファッション写真85点を見ていると、蜷川が2000年代以降の時代のテイストを汲み取りつつ、じつに的確にヴィジュアル化し、撒き散らしていったことがよくわかる。広告・ファッション写真が果たすべき役割は、もちろん企業イメージを視覚的情報として打ち出していくことだが、それは同時に「時代の鏡」に磨きをかけていくことでもある。2000年代の日本のヴィジュアルはまさに「蜷川実花の時代」であったと断言してもいいだろう。
いつも不思議に思うのは、蜷川が「アート」としての側面を強調した写真を発表する時、広告・ファッション写真から発する輝きやオーラが、薄まり、弱まってしまうように感じることだ。天性のヴィヴィッドな色彩感覚や、ひとつの場面を細部まで緊密に気を配って(とはいえその場の臨場感は保ちながら)組み上げていく能力の高さは、むしろ「アート」作品にこそ活かされるべきではないかと思う。むろん蜷川本人は、そのあたりのことはとっくの昔に承知していて、世界戦略のなかに組み込んでいるかもしれない。

2016/05/08(日)(飯沢耕太郎)

深川の人形作家 石塚公昭の世界

会期:2016/04/23~2016/05/08

深川江戸資料館レクホール[東京都]

石塚公昭の仕事に注目しはじめたのは最近だが、人形作家としてのキャリアは1980年代からだから、かなり長い。ジャズやブルースのミュージシャンからスタートして、近年は小説家を中心に細部まで作り込んだ人形を制作し続けている。今回、東京・清澄白河の深川江戸東京資料館で展示された、泉鏡花、稲垣足穂、江戸川乱歩、澁澤龍彦、谷崎潤一郎、寺山修司、中井英夫、夢野久作、さらにエドガー・アラン・ポーやジャン・コクトーといった顔ぶれを見ても、彼の好みがどちらかといえば耽美・幻想系の小説家に偏っているのがわかる。
さらに、それぞれの小説家の作品を読み込み、人形を使ってその作品世界を再構築するために、石塚は写真を積極的に用いている。例えば江戸川乱歩なら、怪人二十面相ばりに気球に乗り込もうとしているとか、三島由紀夫なら燃え盛る金閣寺の前に立ち尽くすとか、稲垣足穂なら人力飛行機に乗り込むとか、作品中のある場面を設定してセットを組んだり、実際の風景のなかにはめ込んだりして撮影しているのだ。その凝りに凝った場面設定はどんどんエスカレートしており、日本の写真家には珍しい洗練された「コンストラクティッド・フォトグラフィ」として成立しているのではないかと思う。近年は、江戸川乱歩や谷崎潤一郎をフィーチャーした作品を、1920年代に流行したオイル・プリントの技法で制作するという実験も試みている。人形作家だけではなく、写真家としての石塚公昭にも注目していきたい。彼の仕事にはまだ、さまざまな可能性が秘められている気がする。

2016/05/06(金)(飯沢耕太郎)