artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

珠かな子 改名記念展「マタギタマ」

会期:2016/05/06~2016/05/15

神保町画廊[東京都]

珠かな子は、自撮りによるややエロティックな写真を「村田タマ」名義で発表してきた。可愛らしい容姿で人気があったのだが、自分の写真の世界をどんなふうに展開していくのか、方向性を定めきれない揺らぎが、魅力的でもあり心配でもあった。だが、今回の「改名記念展」を見て、彼女のなかに、写真を撮り続けることの覚悟がしっかりと育ちつつあるように思えた。
「マタギタマ」というタイトルは、「村田タマ」から「珠かな子」へと跨いでいくという意志表明と、文字通りの「マタギ」とのダブルミーニングである。マタギ(猟師)の「自分の命を晒して猟をする。そして命に敬意をはらって食す」という生き方と、「少女から大人になり、子供を孕み産む」という自分の姿とを、写真行為を通じて結びつけようという意図が、今回のシリーズには明確に貫かれている。それを象徴するのが本物の熊の毛皮(会場に展示してあった)で、それを身に纏ったり、画面の中に取り込んだりしたセルフ・ポートレートが、展示の重要なパートを占める。それに加えて、テディ・ベアや小熊フィギュアの「カワイイ」イメージがちりばめられており、強さと弱さ、美しさと醜さ、気高さとポップな俗っぽさとが、引き裂かれつつ同居していた。「自撮り」写真を、ナルシシズムに溺れることなく、かといって退屈な繰り返しに陥ることもなく、どんなふうに展開していくのかというのは、多くのセルフ・ポートレートの写真家に共通する課題だが、その答えのひとつがここにあるのではないだろうか。

2016/05/06(金)(飯沢耕太郎)

ライアン・マッギンレー「BODY LOUD!」

会期:2016/04/16~2016/07/10

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

1977年、アメリカ・ニュージャージー州ラムジー生まれのライアン・マッギンレーは、2000年代に入ってから頭角をあらわし、2003年にはホイットニー美術館で個展を開催するなど、写真の新世代の旗手と見なされてきた。「ポスト・ティルマンス」の一番手ともいわれ続けてきたのだが、日本での最初の大規模点となる本展を見て、そのことには疑問符をつけざるを得ない。
マッギンレーの撮るあくまでもポジティブな若い男女のヌードは、たしかにアメリカのユース・カルチャーの本質的な部分を掬いとっている。「9.11」以後の社会の不安感、閉塞感に対して、若者たちのポジティブな生命力で対峙するというのは、たしかにひとつの戦略としては成り立つだろう。だが、それがいつまでたっても一本調子、同工異曲のイメージの繰り返しになっていて、ヴォルフガング・ティルマンスのように多層的なレイヤーとして現実世界を捉え返す視点に欠けているのは、あまりにも能天気としか言いようがない。
今回の展示の目玉は、壁一面に「ビニールステッカー」のプリント約500点を貼り巡らした巨大作品「YEARBOOK」(2014)だろう。だが、その圧倒的なスケール感にもかかわらず、そこに写っている男女の姿は、次第に区別がつかなくなり、均質化して見えてくる。まさにインスタグラム的な見え方の極致というべきで、その親しみやすさは、写真に向かってスマートフォンのシャッターをひっきりなしに切っていた観客たちに、大いにアピールするのではないだろうか。だが、おそらくこれらの写真は、会場を出れば、あっという間に忘れ去られてしまうだろう。スマホのデータもそのうち消去されてしまうのではないか。「それでいいのだ」という考え方もあるかもしれないが、「それでいいのか?」という疑問は残る。

2016/05/04(水)(飯沢耕太郎)

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本橋成一「在り処(ありか)」

会期:2016/02/07~2016/07/05

IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]

本橋成一は1940年東京生まれだから、荒木経惟、篠山紀信、沢渡朔、土田ヒロミ、須田一政らと同世代である。2歳上の森山大道や中平卓馬を含めて、まさに「日本写真」の黄金世代というべき充実した多彩な顔ぶれだが、本橋はそのなかでもやや地味な存在であり続けてきたといえるだろう。だが、その彼の50年以上に及ぶ写真家としての営みを集大成した、今回のIZU PHOTO MUSEUMでの展示を見ると、彼のしぶとく、したたかな仕事ぶりにあらためて目を見張ってしまう。ドキュメンタリー写真という枠組みにきちんと寄り添いながらも、ときにはそこからはみ出し、テーマ的にも、手法的にも、地域的にも、大きな広がりを持つ写真を撮り続けてきたことが、くっきりと見えてくるのだ。
約200点の展示作品は、1968年に第5回太陽賞を受賞した初期の代表作「炭鉱〈ヤマ〉」(1964~)をはじめとして、「上野駅」(1980~)、「屠場〈とば〉」(1986~)、「藝能東西」(1972~)、「サーカス」(1976~)、「アラヤシキ」(2011~)、「チェルノブイリ」(1991~)、「雄冬」(1963~)、「与論島」(1964~)といったテーマ別に並んでいた。そこから浮かび上がってくるのは、本橋がある特定の被写体に集中して撮影するよりは、その周囲の環境のディテールを丁寧に写し込んでいることだ。むしろ、聴覚や嗅覚や触覚を含めた全身感覚的なその場の空気感こそを、写真を通じて捉えようとしているように思える。本展のタイトルにもなっている「在り処」、すなわち「生が息づく場所」をどう定着するのかという持続的な関心こそが、本橋の真骨頂といえるのではないだろうか。
興味深かったのは、東京綜合写真専門学校在学中に撮影された、彼の最初期の作品「雄冬」と「与論島」に、すでに後年の本橋の、被写体の周辺を画面に広く取り入れていくスタイルがあらわれてきていることだ。北海道増毛町雄冬と鹿児島県与論島で撮影されたこれらの写真群を、展示の最後に置いたところに、本展を「原点回帰」として位置づけようという本橋の意思が、明確にあらわれているように感じた。

2016/05/01(日)(飯沢耕太郎)

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「マグナム・ファースト日本展」

会期:2016/04/23~2016/05/15

ヒルサイドフォーラム[東京都]

マグナム・フォトはロバート・キャパ(ハンガリー)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(フランス)、デイヴィッド・シーモア(ポーランド)を中心に1947年に設立され、「写真家による写真家のための写真エージェンシー」として、現在に至るまで強い影響を及ぼしてきた。本展は、初期マグナムの活動を支えた8人の写真家たちの作品83点によって、オーストリアの5都市で1955年に開催された「時の顔(Face of Time)」展を再構成したものである。この展覧会の出品作は、その後行方がわからなくなっていたのだが、2006年になってオーストリア・インスブルックのフランス文化会館の地下室から、全作品が発見され、「マグナム・ファースト」展として世界中を巡回することになった。マグナムの草創期のヴィンテージ・プリントを、まとめてみる機会はめったにないので、それだけでも貴重な展示といえる。
本展の出品作家は、創設メンバーのキャパ、カルティエ=ブレッソンに加えて、ワーナー・ビショフ(スイス)、エルンスト・ハース(オーストリア)、エリック・レッシング(同)、ジャン・マルキ(フランス)、インゲ・モラス(オーストリア)、マルク・リブー(フランス)の8名。展示された作品を見ると、第二次世界大戦終結から10年というこの時期に、「報道写真」の理念が写真家たちのバックボーンとなっていたことがよくわかる。例えば、のちに「決定的瞬間」の美学を確立していくカルティエ=ブレッソンにしても、まぎれもなくフォト・ジャーナリストの視点で、インドのガンジー暗殺の前後を記録した一連の写真を出品している。それぞれの写真家の代表作として知られている作品だけでなく、若々しいエネルギーを発する初期写真が多数展示されているのが興味深かった。そのなかでも特に印象に残ったのは、会場の最後に並ぶワーナー・ビショフの、堂々とした風格を備えた写真群である。1954年、ペルー取材中に自動車事故で悲劇的な死を遂げた彼の写真を、あらためて再評価する時期に来ているのではないだろうか。

2016/04/30(土)(飯沢耕太郎)

「京都国際写真祭」

会期:2016/04/23~2016/05/22

京都市美術館別館ほか[京都府]

4回目を迎えた「京都国際写真祭」(KYOTOGRAPHIE)。2013年の初回を見た時には、どれだけ続くのかと心もとなかったのだが、質量ともに飛躍的に向上している。今回は「いのちの環」をテーマにしたメインプログラムが13会場で開催されたほか、サテライト展示の「KG+」、関連企画など、50以上の展覧会が開催された。かなり広い地域に散らばっているので、一日ではとても全部回りきれないが、それでも、何日か滞在してじっくり見てみたいと思わせる魅力的な企画が目白押しだった。主催者の仲西祐介とルシール・レイボーズがめざしているのは、「国際的に通用する写真祭にする」ということだが、その志の高さが全体の雰囲気を盛り上げているように感じる。
KYOTOGRAPHIEの特徴のひとつは、美術館やギャラリーだけでなく、京都らしい寺院や町家などの空間を活かした展示が多いことだろう。フィンランド出身の写真家、アルノ・ラファエル・ミンキネンの「YKSI: Mouth of the River, Snake in the Water, Bones of the Earth」(建仁寺内両足院)では、作品が建物の中だけでなく、日本庭園内にも配置されていた。町家の座敷に作品を並べた古賀絵里子の「Tryadhvan(トリャドヴァン)」(長江家住宅)、「マグナム・フォト/EXILE─居場所を失った人々の記憶」(無名舎)、蔵の中に写真と漂流物でつくったランプを展示したクリス・ジョーダン+ヨーガン・レールの「Midway:環境からのメッセージ」(誉田屋源兵衛 黒蔵)も見応えがあった。
インスタレーションやライティングに気を配った「見せ方」にこだわっているのも、KYOTOGRAPHIEの特徴で、昨年逝去した報道写真家、福島菊次郎の「WILL:意志、遺言、そして未来」展(堀川御池ギャラリーほか)では、写真パネルを鉄パイプや鉄の箱を使ったソリッドな装置を組んで展示していた。海洋生物学者のクリスチャン・サルデの写真映像を、高谷史郎が床置きの複数のモニターで上映し、坂本龍一がサウンドをつけた「PLANKTON 漂流する生命の起源」(京都市美術館別館2階)も、高度に練り上げられたインスタレーションを愉しむことができた。
予算的にはかなり厳しいようだが、このクオリティを保ちつつ、「国際写真祭」としてのさらなる広がりを期待したい。将来的には、東川町国際写真フェスティバルのような先行する地域写真イベント、またアジア各地の写真祭などとも相互交流を図ってほしいものだ。

2016/04/27(水)(飯沢耕太郎)