artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

小瀧達郎「PARIS 光の廻廊2010-2013」

会期:2013/11/20~2014/01/18

gallery bauhaus[東京都]

小瀧達郎の10年ぶりの新作展は、とても贅沢な展覧会だった。2010年から13年まで、4年間何度もパリを訪れて撮り続けた写真群は、「パリ写真」の典型と言ってよい。「パリ写真」というのは今橋映子が『〈パリ写真〉の世紀』(白水社、2003)で提起した概念で、アジェ、ブラッサイ、ドアノー、イジスらがパリを舞台につくり上げてきた、情感のこもった街と人間の写真を示す。21世紀の現在においては、パリを、伝統的な「パリ写真」の雰囲気を保って撮影すること自体がかなり贅沢なことと言える。それに加えて、小瀧は撮影とプリントのスタイルも、徹底してクラシックなものにこだわり続けた。カメラはライカM6、レンズはヘクトール50ミリ、75ミリ、タンバール90ミリ、ズミルックス35ミリ、50ミリ、モノクロームの印画紙は現在では最高品質と言えるチェコ製のFOMAである。結果として、40点あまりのプリントは、香気漂う高級感を立ち上らせる見事な出来栄えとなった。
現代のパリをベル・エポック風に再現するために、カメラアングルにも工夫を凝らした。主な被写体はポスター、壁画、彫刻、ショーウィンドーの中の商品などだが、それらの一部をクローズアップして切り取っている。余分な要素をカットすることで、あえて「パリらしさ」を強調するイメージだけを、コラージュ的に再構築するやり方を選びとったのだ。画面はすべて縦位置。これも、横位置の広がりのある画面だと、余計なものが写り込んでくるからだろう。写真の詐術と言ってしまえばそれまでだが、気持ちに余裕のあるベテラン写真家だからこそ実現できた贅沢な写真行為の集積と言える。

2014/01/08(水)(飯沢耕太郎)

小野啓『NEW TEXT』

発行所:赤々舎

発行日:2013年12月01日

1977年、京都府生まれの小野啓は、立命館大学経済学部を卒業後、2002年頃から現役の高校生のポートレートを撮影し始めた。「大人でも子供でもない年代」の高校生たちに向き合うことで、「人としての根本」を探り出したいと考えたからだ。大学を卒業して社会に出る頃、誰しも自分自身の人間形成の時期だった高校時代が気になってくるものだ。小野はそのナチュラルな気持ちの動きを、写真家としての営みにストレートに結びつけていったということだろう。
それらの写真は「青い光」というタイトルでいくつかの写真コンペに出品され、2006年にはビジュアルアーツフォトアワード大賞を受賞し、同名の写真集として刊行された。だが、小野の撮影はさらに続けられる。途中からは雑誌やフライヤーを使ってモデルを募集して、メールのやりとりで撮影の日取りを決めるようになった。モデルたちの居住範囲も関西エリアだけでなく、全国各地に広がっていく。結局、高校生たちを写した撮影総数は2013年までの11年間で550人にまで増えていた。
小野はそれらをまとめた写真集を刊行しようと考えるが、それには小野自身にも出版社にも大きなリスクがかかる。その問題をクリアーするために2012年から「『NEW TEXT』をつくって届けるためのプロジェクト」を開始した。
5,000円で写真集を予約すると、1冊は手元に届き、もう1冊が全国の図書館や学校など希望する場所に寄贈されるというものだ。参加者が500名を超えて、このプロジェクトの目標は無事達成され、赤々舎から『NEW TEXT』が刊行された。ハードカバー、344ページの堂々たる造本の写真集である(デザインは鈴木成一)。
高校生たちのこの時期にしかない一瞬の輝き(あるいは翳り)を捉えるために小野が用いたのは、決して奇をてらった撮り方ではない。撮影場所を丁寧に選び、6×7判のカラーフィルムで細部までしっかりと画面におさめていく。中間距離の写真が多いが、時にはクローズアップ、逆にやや遠くから撮影する場合もある。「笑わないこと」だけが唯一のルールと言えるだろう。解釈を押しつけるのではなく、写真から何を読み取るのかは読者に委ねるという姿勢が清々しい。小説家の朝井リョウが「全ページが物語の表紙」という言葉を帯に寄せているが、まさに言い得て妙ではないだろうか。

2014/01/05(日)(飯沢耕太郎)

荒木経惟『死小説』

発行日:2013年10月31日

文芸雑誌『新潮』2012年2月号から13年8月号隔月20ページずつ連載されていた荒木経惟の「死小説」が、A5判変型の写真集としてまとめられた。209枚の写真が何のテキストもなくただ並んでいるだけ。それを「小説」と言い張るところがいかにも荒木らしい。
内容的には、これまで荒木が編み続けてきた「日録」的な構成の写真集と同工異曲のものだ。日々の出来事を撮影した写真の合間に、「Kaori」や「人妻エロス」や「バルコニー」などのお馴染みのシリーズが挿入され、新聞やポスターなどの複写が添えられる。前立腺癌の手術など、荒木自身の体調があまりよくなかったことが影響しているのだろうか。カダフィ、三笠宮寛仁、大鵬、サッチャーの訃報記事のような、“死”のイメージが大きく迫り出してきているように思える。それに加えて、連載中は東日本大震災とその後の福島第一原発の大事故の余波が重苦しくのしかかる時期だったことも見逃すわけにはいかないだろう。
このような荒木の写真集を、何冊となく見続けてきたわけだが、それでもなおページを繰るたびに、あらためてその中に引き込まれ、驚きと感嘆を押えられなくなる。おそらく彼自身、あらかじめ物語をこのように進めていこうというような予測や思惑を持って、写真を撮影したり選んだりしているわけではないはずだ。にもかかわらず、ラストの亡き父親の遺影や『往生要集』の地獄絵図などのパートまで、あたかも神の手に導かれるように、よどみなくイメージの流れが続いていく。そこから見えてくるのは、まぎれもなく荒木が「死を生きる」ことを写真家の日常として選びとっているということだ。そのことの凄みを、何度でも味わい尽くすべきだろう。

2013/12/31(火)(飯沢耕太郎)

キリコ「re collection」

会期:2013/12/10~2014/12/25

Port Gallery T[大阪府]

「旦那 is ニート」(2010)、「オーディション」(2011)と、キリコは自らのなまなましい実体験を写真化することで辿り直し、新たな認識を育てていくことを目指す作品を発表してきた。4年前からは、京都で売れっ子の芸妓だったという祖母を撮影し、彼女から聞き書きしたエピソードとともに再構成するという試みを開始した。今回の「re collection」は、2012年に同じギャラリーで発表した「見世出し」の続編と言うべき作品だが、新たな方向性をはっきりと感じることができた。
今回は祖母が語る生涯の代表的なエピソードを、「choice」「 love」「game」「value」「survival」という5つの章に分類し、それぞれに対応する作品を展示している。しかも、祖母が好きな色だというピンクがかった紫色に染めた水を箱に詰めて、その上部に仕込んだ写真とテキストを鏡で映し出すという、凝った仕掛けを導入した。水とその表面を覆うオイルの層を通して、ゆらゆらと写真とテキストが浮かび上がってくる様は、まさに記憶の揺らぎの中に分け入っていくような感触を備えている。単なるトリックに終わることなく、彼女の制作意図がしっかりと伝わってくる、とてもいいインスタレーションになっていたと思う。
祖母をテーマにした作品は、これから先もしばらくは続くようだ。今回のような「現代美術寄り」の作品も悪くないが、オーソドックスなドキュメンタリー写真として成立していく可能性も感じる。あまり方法論を固定せずに、いろいろなやり方を模索していってほしいものだ。

2013/12/23(月)(飯沢耕太郎)

齋藤陽道「宝箱」

会期:2013/11/30~2014/03/16

ワタリウム美術館[東京都]

齋藤陽道の視覚的世界は、聾唖の写真家であるがゆえの特異な歪みを備えているのではないかと思う。決してネガティブな意味ではなく、彼の眼が捉え、カメラが記録する画像を見ていると、写っているはずのないものが写っていたり、見慣れた被写体が何とも奇妙な変容を遂げたりしていることがよくあるのだ。音のない世界に生きる彼は、視覚を研ぎ澄ますだけではなく、全身感覚的に(触覚や嗅覚も総動員して)「見る」ことを目指している。その結果として、彼の写真は「たましいのかたち」としか言いようのない、異様に昂揚した生命感に満たされることになる。
それに加えて、今回の展示で強く感じたのは、齋藤の言葉で何かをつかみ取る能力の高さだ。彼は普段から筆談でコミュニケーションを試みているのだが、そのことが彼の言語感覚に磨きをかけているのかもしれない。「感動」「絶対」「無音楽団」「MY NAME IS MINE」「せかいさがし」「あわい」といった、新作、旧作のタイトルを見ただけでも、彼の言葉を操る才能が驚くほど柔らかく、しかも鋭敏であることがよくわかるだろう。今回の展示で最も感動的だったのは、3Fの「無音楽団」のパートだった。ここでは五線譜を思わせるブラインドのイメージを下敷きにして、さまざまなかたちで音楽を楽しむ人々の姿が写し出されている。言うまでもなく、それらは齋藤にとっては理解不能な体験だ。だが、その「無音」の世界を、彼は肯定的に受け入れ、楽しげに写真に翻訳して見せてくれる。むろん、それらの写真からは音は聞こえてこない。つまり、われわれ観客もまた、齋藤の感じとった「無音楽団」の演奏を追体験できるということだ。
これらの新作を含めて、齋藤は急速にその写真家としての能力を開花させつつある。その勢いは、今後さらに強まっていくのではないだろうか。なお、ワタリウム美術館の編集で、カタログを兼ねた同名の写真集(ぴあ刊)が出版されている。デザインは寄藤文平。小ぶりだが、やはり勢いのある写真集だ。

2013/12/20(金)(飯沢耕太郎)

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