artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
森村泰昌「レンブラントの部屋、再び」
会期:2013/10/12~2013/12/23
原美術館[東京都]
森村泰昌が1994年に原美術館で開催した「レンブラントの部屋」展は、いま振り返ると彼の作品世界の展開において大きな転機となった展覧会だった。80年代~90年代初頭の「美術史シリーズ」において、批評性と遊戯性を融合させた軽やかなステップを踏んでいた彼は、この「レンブラントの部屋」で自らの身体と精神の裂け目を強引に押し開いていくような作風に転じていく。それは90年代後半以降の「女優シリーズ」や「なにものかへのレクイエム」の生々しく、痛々しいほどに直接的な表現へとつながるものだったと言えるだろう。
今回はその1994年の個展の再演でだが、レンブラントの油彩画やエッチングを元にした23点のほかに、「烈火の季節/なにものかへのレクイエム(MISHIMA)」(2006)、ゴヤの「ロス・カプリチョス」を演じた「今、こんなのが流行ってるんだって」(2005)など、近作も数点加わっている。だがなんといっても、レンブラントの魂が憑依したような、森村の鬼気迫るパフォーマンスが見物と言えるだろう。
とりわけ凄みを感じるのは、最後の部屋に展示された作品「白い闇」である。レンブラントの「屠殺された牛」(1655)をモチーフにしてはいるが、吊り下げられた肉塊の横に、顔に醜いいぼいぼのメーキャップを施し、ハイヒールを履いた素っ裸の森村泰昌が立ちつくすという構図は、衝撃的としかいいようがない。森村はこの作品で、美術史からの引用という手法を踏み越え、逸脱していったのではないだろうか。「白い闇」というタイトルには、蝋燭から白熱電灯、蛍光灯へ、そして絵画から写真、映画、TVモニターへという近代文明の発展の帰結として、原子爆弾の炸裂があったのではないかという問いかけが込められているという。「3.11」そして「FUKUSHIMA」を経験した現在、その寓意性はより鋭い刃となって観客を切り裂く。
2013/10/29(火)(飯沢耕太郎)
牛腸茂雄『見慣れた街の中で』
発行所:山羊舍
発行日:2013年9月1日
山羊舍から限定500部で刊行された『見慣れた街の中で』は、牛腸茂雄の作品世界を新たな角度から読み解いていくきっかけになる写真集ではないだろうか。『見慣れた街の中で』は、『日々』(関口正夫との共著、1971)、『SELF AND OTHERS』(1977)に次ぐ、牛腸の3冊目の写真集で、1981年に刊行された。83年の逝去の2年前、生前の最後の写真集になる。写真集には、東京や横浜で撮影されたカラー写真によるスナップショット47点がおさめられている。ところが、写真集刊行後の82年に東京・新宿のミノルタ・フォトスペースで開催された同名の個展には、74点の作品が展示されていた。今回の新装版の『見慣れた街の中で』には、その写真集に未収録だった27点が加えられた。さらにスキャニングと印刷の精度が上がったことにより、牛腸が撮影したカラーポジフィルム(コダクローム)の色味が、より鮮やかによみがえってきている。
最大の驚きは、新たに付け加えられた27点の写真が発する異様な力である。むろん、内容的には、これまでの写真群とそれほど大きな違いがあるわけではない。だが、より曖昧で浮遊感の強い写真が多いように感じる。牛腸は旧版の『見慣れた街の中に』の序文に「そのような拡散された日常の表層の背後に、時として、人間存在の不可解な影のよぎりをひきずる」と記している。彼の言う「不可解な影のよぎり」は、確かにこのシリーズの基調低音と言えるものだが、それが写真集の巻末に収められた27点では、よりくっきりとあらわれてきているのだ。特に街の雑踏から子どもたちの姿を切り出してくる眼差しに、ただならぬこだわりを感じてしまう。本書の刊行によって、牛腸が『見慣れた街の中で』で何を目指していたのか、そしてそれが彼の最晩年の仕事となった『幼年の「時間(とき)」』のシリーズにどうつながっていくのかを確かめていくことが、今後の大きな課題として浮上してきたと言える。
2013/10/26(土)(飯沢耕太郎)
生誕100年! 植田正治のつくりかた
会期:2013/10/12~2014/01/05
東京ステーションギャラリー[東京都]
「生誕100年!」を迎えた植田正治の作品を、もう一度丁寧に見直し、再構築しようとする好企画だ。東京ステーションギャラリーでは1993年に「植田正治の写真」展が開催されている。この時は、彼の作品世界を初期から辿り、代表作を紹介するオーソドックスな回顧展だった。ところが、今回は時代を行きつ戻りつしながら、「植田正治という写真家は、どのようにひとつひとつの作品をつくりあげていったのか」を、145点の作品を通して読み解こうとしている。この20年の研究・調査の積み重ねの成果が、しっかりと活かされているということだろう。展示の構成は以下の通りである。
「I『童暦』──ディスカバー・植田正治 1950年代-1970年」「II演出の発明──出発枯らすタイルの確立まで 1931-1950」「III“小さい伝記”──回帰と反復 1970年代-1980年代」「�「植田正治劇場──ボクのスタジオ 1990年代-2000」。
植田本人の文章をふんだんに引用しつつ、写真と映像を絡めた展示は見応えがある。部屋から部屋へとさまよい歩くような、ステーションギャラリーのやや変則的な空間構成が、逆に彼の写真の多様な側面を浮かび上がらせるのにうまく働いていたと思う。展示の目玉は、なんといってもこれまで未発表だった奥さんをカラーで撮影した写真群(「ママと日傘」1949のヴァリエーション)と、植田の没後に未現像のままカメラの中に残されていたフィルムをプリントした11点の作品だろう。どこか寂しげな風景や窓辺を写した「最後の作品」にも、彼が「写真に対する精神的燃焼度」を最後まで保ち続けていたことがよくあらわれていた。
2013/10/22(火)(飯沢耕太郎)
ホンマタカシ「Pinhole Revolution / Architecture」
会期:2013/09/19~2013/10/26
TARO NASU[東京都]
以前、ホンマタカシのなかには「写真家」と「編集者」という二つの人格がせめぎ合っており、時にそのバランスが崩れることがあると指摘したことがある。その議論を踏まえれば、今回TARO NASUで展示された新作の「Pinhole」シリーズでは、うまくそのバランスがとれているのではないかと感じた。
ピンホール・カメラは言うまでもなく写真機の原型というべき装置である。写真の歴史は、壁に開けられた小さな穴から外界の姿を反対側の壁に逆向きに投影し、その形状を画家たちが筆でなぞることから開始された。さらに1970年代には、現代美術アーティストの山中信夫が、自室の壁に印画紙を貼り巡らせて撮影した「ピンホール・ルーム」のシリーズを発表しており、近年も宮本隆司や佐藤時啓がピンホール・カメラの原理を作品に適用している。ホンマの新作シリーズでは、そのような写真史的な事項を巧みに引用しつつも、実際にさまざまな部屋にピンホールを仕掛けて、撮影、プリントする作業を心から楽しんでいるように見える。「写真家」としてスリリングな画像の形成過程に立ち会うことの歓びが充分に伝わってきた。TARO NASUに併設するスペースtaimatzで、実際にピンホール写真を撮影し、その場にインタレーションするという試みも非常に興味深いものだった。
展覧会のプレスリリースに以下のようなことが書いてある。ピンホール・カメラの撮影では、被写体にピントを合わせたり、フレーミングしたりすることはない。だから「これらは、どちらも被写体の(あるいは撮影者の)主体性を極力取り除き、あるがままの姿を映し出そうとする試みです。そしてこの作品における『主体性の欠如』こそ、ホンマタカシ“独特”の写真世界を形成する主要素であるという二律背反が、ホンマの作品の世界をより奥深いものにしていくのです」。
これはまったく違っていると思う。「Pinhole」シリーズをやろうと決め、該博な写真史的な知識を駆使し、単純に壁に穴をあけて光を取り込むだけでなく、わざわざ「REVOLUTION」という文字を鏡文字にして配置し、ロバート・フランクの1978年の作品「Sick of Goodby’s」を引用する──これらの操作に、ホンマタカシの「主体性」はあざといほど強烈にあらわれている。それこそ、「編集者・ホンマタカシ」の面目躍如たる部分であり、彼自身、被写体の「あるがままの姿」を捉えようなどとはまるで思っていないはずだ。
なお「Pinhole」シリーズのほかに、2002年頃から建築物の窓からの眺めを撮影し続けている「Architectural Landscapes」のシリーズも展示してあった。確かに「Pinhole」シリーズとネガ/ポジの関係にあるシリーズと言えそうだが、むしろ狙いが拡散してしまうように感じられた。
写真:Pinhole Revolution/Architecture series
© Takashi Homma Courtesy of TARO NASU
2013/10/22(火)(飯沢耕太郎)
Shinonome Photo Festival 2013
会期:2013/09/27~2013/11/09
TOLOT/heuristic SHINONOME[東京都]
オン・デマンド印刷の写真集やカレンダーなどを製作している東京・東雲のTOLOTが運営するスペースで、今年から秋に写真フェスティバルが開催されることになった。元は倉庫だったというかなり広い会場に、ゆったりと写真作品が並ぶ。参加ギャラリーと出品作家は、以下の通りである。
ARATANIURANO(西野達)/Gallery Koyanagi(野口里佳)/G/P + g3/ gallery(篠山紀信)/Mujin-to Production(朝海陽子)/SCAI THE BATHHOUSE(ダレン・アーモンド)/Shugo Arts(カーステン・ヘラー、金氏徹平、中原浩大、ボリス・ミハイロフ)/Taka Ishii Gallery(細江英公、森山大道)/TARO NASU(松江泰治)/The Third Gallery Aya(石内都、山沢栄子)/Tomio Koyama Gallery(ローリー・シモンズ、福居伸宏、古西紀子)/YAMAMOTO GENDAI(エドガー・マーティンズ)/YUKA TSURUNO GALLERY(ティム・バーバー)。
このリストを見てもわかるように、同スペースに常設会場を持つG/P + g3/ galleryとYUKA TSURUNO GALLERYを除いては、各ギャラリーの顔見世興行的な意味合いが大きい。出品作家の幅が広いので、かなりばらついた印象は否めないが、写真をコンテンポラリー・アートの重要な領域と位置づけて展示活動を展開しているギャラリーの数が、いつのまにか、これだけ多くなっていることに驚かされた。将来的にカタログなども刊行できるようになれば、秋の恒例行事として定着していくのではないだろうか。
2013/10/16(水)(飯沢耕太郎)