artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
榎倉康二「記写」
会期:2012/09/04~2012/09/29
タカ・イシイギャラリー[東京都]
日本を代現する現代美術家のひとりだった榎倉康二は、写真に強い関心を抱き続けていた。彼は東京藝術大学写真センターの創設者であり、初代のセンター長をつとめた。1994年には齋藤記念川口現代美術館で「榎倉康二・写真のしごと 1972-1994」展も開催している。だが、今回タカ・イシイギャラリーで展示されたのは、「写真のしごと」、つまり作品として構想され制作されたのではなく、自作のインスタレーション作品のドキュメントとして撮影された写真群だ。1969年の椿近代画廊での個展「歩行儀式」から、1976年のときわ画廊での個展「不定領域」に至る展示の状況を、榎倉は自ら入念に撮影し、プリントしていた。そのなかには1971年の第7回パリ青年ビエンナーレ(同展には中平卓馬も参加していた)に出品した「湿質」「壁」のような、のちに彼の代表作と見なされるようになる作品の記録写真も多数含まれている。
彼はもちろんプロの写真家ではないから、技術的にはやや甘さがあるし、プリントも完成度の高いものではない。だが逆に、そこからは榎倉が写真に何を期待し、何を求めていたのかがいきいきと伝わってくる。作品を周囲の環境との相互関係のなかで捉えようとしていること、作品の質感やその周囲の光の状態への細やかな配慮、一枚の写真で完結させるのではなくシークエンス(連続場面)として提示していこうとする指向など、そこにはのちにくっきりと形をとってくる、「写真家」としての榎倉の特質がよくあらわれているのだ。残念なことに、榎倉は1995年に急逝してしまう。2000年代、つまりデジタル化以降に彼の写真がどんなふうに変わっていくのかを見届けたかったのだが、それは叶わなかった。
2012/09/21(金)(飯沢耕太郎)
川田喜久治「2011-phenomena」
会期:2012/09/04~2012/10/31
フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]
1959年に東松照明、奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章によって結成された写真家グループ、VIVOは、日本の写真表現の歴史に偉大な足跡を刻みつけた。個々の映像表現のクオリティの高さはもちろんだが、日本の写真家たちの質の高い仕事を、国際的に認知させたという功績も大きい。だが、メンバーの年齢も今や80歳を超え、コンスタントに活動を展開しているのは東松、川田、細江の3人だけになった。そのなかでも最も意欲的な「現役の」写真家といえば、川田喜久治ということになるだろう。
昨年の「3.11」は、川田にも大きな衝撃をもたらしたようだ。展示されているのは、必ずしも2011年に撮影された写真だけではない。だが、「あの大震災に続く原発放射能の拡散」が、今回の「2011-phenomena」シリーズの引き金となり、彼の創作意欲にさらなる昂進をもたらしたことは間違いない。時代の底に潜む不安をスナップ的な写真を通してあぶり出していくことは、1970年代の連作「ロス・カプリチョス」以来の川田のメインテーマのひとつだが、それが「2011-phenomena」では、さらに強烈な毒々しい色彩をともなってエスカレートしている。特に目立っていたのは、テレビの画面や写真を複写し、モンタージュを繰り返してつくり上げていった作品群である。オバマ大統領、ビン・ラディン、ヒラリー・クリントンらの顔が引き裂かれ、変型しつつ増殖していく。日常のなかに潜む悪夢をキャッチする彼のアンテナの精度が、まったく衰えていないことがよくわかる。
宮城県山元町の沿岸部を襲った津波によって流出した写真を展示する「Lost & Found Project」に触発された一連の作品も興味深い。そのなかの母親と子どもが写っている記念写真に、川田は激しく揺り動かされ、「具象と抽象の間で新しいイメージを見せている」と感じた。その褪色し、なかば消失しかけた親子のイメージを引用した作品には、彼なりの「再生」のメッセージが託されているのではないかと思う。
2012/09/21(金)(飯沢耕太郎)
進藤環「Late comer」
会期:2012/09/20~2012/10/08
hpgrp GALLERY TOKYO[東京都]
進藤環も着実に自分の作品世界を深めつつあるひとり。自作の写真プリントを切り貼りしながら、カラーコピーを繰り返して、不思議な磁力を発する「風景」をつくり上げていく──そのスタイルはほぼ完成の域に達していると思う。昨年に引き続き原宿・表参道のhpgrp GALLERY TOKYOで開催された今回の個展では、モノクロームのプリントの比率が増え、よりピクトリアル(絵画的)な要素が強まってきている。さらに、植物や森などに加えて、岩、水、さらに建物のような人工物なども画面に配されるようになり、「風景」の骨格とでもいうべき要素がくっきりとあらわれてきた。彼女が旺盛な表現意欲で、新たなチャレンジを繰り返していることが伝わってくる展示だった。
ただ、このカット・アンド・ペーストの手法も、繰り返しているうちに、そろそろヴァリエーションが出尽くしてきているようにも見える。展示作品のなかに1点だけ技法に「鉛筆」と記されたものがあり、異彩を放っていた。次はもっと違う画像構築のシステムにも取り組んでもらいたいものだ。また、画面のスケール感についても、そろそろ考えなければならない時期にきているのではないだろうか。小さくまとめるのではなく、観客を圧倒するような巨大な作品も見てみたい気がする。そのときはじめて、作者にとっても見る者にとっても、予想をはるかに超えた「記憶や知識と、名もない場所が混在し立ち現れる風景」が姿をあらわすのではないだろうか。
2012/09/20(木)(飯沢耕太郎)
岡田敦「世界」
会期:2012/09/08~2012/10/04
B GALLERY[東京都]
木村伊兵衛写真賞はよく「写真界の芥川賞」と称される。この言い方が適切かどうかは微妙な所だが、両賞とも新人作家が自分の作品世界を広く世に問うていくきっかけとなっていることは間違いない。同時に、その受賞が本人のその後の活動を大きく左右していくことも多々ある。つまり、受賞をきっかけとして飛躍していく作家も、逆に賞の重みに押し潰されてしまう作家もいるというわけだ。
2008年に写真集『I am』(赤々舎)で第33回木村伊兵衛写真賞を受賞した岡田敦はどうかといえば、受賞後もコンスタントにいい仕事をしているひとりだろう。受賞後第一作の『ataraxia』(青幻舎、2010)もしっかりと組み上げられたシリーズだったが、今回赤々舎から写真集として刊行され、B GALLERYで展示された「世界」からも、彼が自分の作品世界の幅を広げようとしている意欲が充分に伝わってきた。このシリーズは、岡田が「不確かな世界を認識する」ことをめざして蒐集した、複数のシークエンスの集合体として構成されている。眼を中心にした顔のクローズアップ、リストカッターの少女(ヌード)、沼と森、赤ん坊の誕生、火葬場の骨、花火、樹間の眺め、妊娠中の女性(ヌード)、そして震災後の海辺の光景などが、次々に観客の前に呼び出されていく。技術的にもきちんとコントロールされ、前後の関係性を注意深く考えながら並べられたそれらの画像群は、現時点での彼の世界観を着実にさし示しているといえる。
だが、おそらく生と死、美と現実、エロスとカタストロフィなどを表象するはずのそれらの画像を見ていると、既視感というか、どうもすべて「想定内」に思えてきてしまうのも事実だ。この優等生的な予定調和を踏み破っていく、何か荒々しい力を召喚しないことには、岡田が今後さらに大きく飛躍していくことはできないのではないだろうか。
2012/09/18(火)(飯沢耕太郎)
鋤田正義「SOUND & VISION」
会期:2012/08/11~2012/09/30
東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]
鋤田正義もまた、1970年代以降の日本文化、特に音楽、映画などのジャンルと深く関わりあいながら仕事を続けてきた写真家である。フリーランスの写真家として独立したのが、まさに1970年。それから寺山修司率いる天井桟敷の「毛皮のマリー」ニューヨーク公演撮影を皮切りに、70年代を疾走していく。T REX、デヴィット・ボウイ、サディスティック・ミカ・バンド、沢田研二、そしてYMOに至る写真群は、そのまま日本の文化シーンの最尖端部分の断面図といってよいだろう。
今回の東京都写真美術館の展示は、レコードジャケットやポスター、映画のスチル写真などに使用されたイメージを柱にして、鋤田自身のプライヴェートな写真の仕事をちりばめる形で構成されていた。それぞれ「Early Days/母、九州、大阪」「70’s/ New York and Rock’n Roll」「Vision1 残像 Spectral」「Vision2 東京画+」などと名づけられた小部屋に分けて展示されたそれらの作品は、鋤田の写真家としての原点と撮影のあり方をよくさし示しており、回顧展にふさわしい内容になっていたと思う。
だが圧巻は、大きなスペースを天井から床までフルに使って展示した「Box作品」と「バナー作品」の部屋だった。写真をフレームに入れて壁にかけるような、当たり前のやり方をとらなかったのが、鋤田の写真のスタイルにぴったり合っていたと思う。ロールペーパーを天井から吊るしたり、大きな箱を床に転がしたりするインスタレーションが、時代の勢いを受けとめて投げ返した力業にうまく呼応しており、展示全体をプロデュースした立川直樹と、会場をデザインした岸健太の力量が充分に発揮されていた。
2012/09/16(日)(飯沢耕太郎)