artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

中平卓馬「Documentary」

ShugoArts[東京都]2011年1月8日~2月5日
BLD GALLERY[東京都]2011年1月8日~2月27日

中平卓馬が清澄白河のShugoArtsと銀座のBLD GALLERYで、ほぼ同時期に写真展を開催している。作品そのものは2004~2010年に撮影した縦位置、カラーのスナップからセレクトし直したもので、既発表のものもあり、新たな展開というわけではない。というより、2000年代になって中平の撮影と発表のスタイルはほぼ固定されている。僕はどちらかといえば、スタイルの固定化に対しては否定的なのだが、中平の場合はそれがあまり気にならない。1976年の急性アルコール中毒による逆行性記憶喪失からのリハビリの過程において、彼が選びとった写真のあり方は、文字通りの「原点復帰」であり、これ以上動かしようがないものに思えるからだ。「原点」というのは、あらゆる写真家にとってのそれということでもあり、誰もが彼の作品を見れば、カメラを最初に外界に向けた「はじまり」の日のことを思わないわけにはいかないだろう。そこにあるすべてがみずみずしく、自らの存在の光を発するように輝き、世界は生命の波動に満たされている。それをカメラで捉え、定着していくためのやり方を、中平は揺るぎないものとしてしっかりと確立したということだ。
ただそれを実行していくためには、被写体にまとわりつくあらゆる先入見や意味づけから自由であり続ける特殊な能力が必要だ。よく「子どもの目」とか「原始人の眼差し」といった言い方をするが、それは口でいうほど簡単なものではない。中平のようにやや普通ではない経験をくぐり抜けてこないと、なかなかそんな境地に達するのは難しいだろう。そういう意味では、彼のいまの状況そのものが奇跡ではないかと思えてくる。たとえば、彼がよく撮影する看板や標識──「四国讃岐手打うどん」「山吹(八重)」「日吉神社はこの先です」「と金[SUNTORY]」といった文字をどう解釈すべきなのか。これらの言葉は、何か特定の意味を担っているというよりは、現実世界における役割から解放されて、それ自体が奇妙な存在感を発して浮遊しているように見えてくる。言葉(文字)ですらも、中平のアニミスム的といえるアンテナによって、それが本来備えている「言霊」を回復しているように思えるのだ。
二つのギャラリーの展示の印象の違いも興味深かった。ShugoArtsでは90×60センチに大きく引き伸ばされた作品24点が、きちんと等間隔に並んでいた。BLD GALLERYの方は30×20センチのやや小ぶりなプリント150点あまりが、壁に2段に貼り付けてある。作品と資料としてのあり方を行き来する中平の写真行為が、それぞれの展示から見えてくる気がする。なお、Akio Nagasawa Publishingから,今回の展覧会のカタログを兼ねた堅牢な造本の写真集が刊行されている。

2011/01/13(木)(飯沢耕太郎)

圓井義典「光をあつめる」

会期:2011/01/11~2011/02/26

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

柴田敏雄、畠山直哉、松江泰治、鈴木理策など、それぞれスタイルは違っていても、中判~大判カメラを使って「風景」を緻密に描写する写真家たちの系譜が1980年代以来途絶えることなく続いている。それは明らかに日本の現代写真の重要な流れを形成しているのだが、圓井義典もそこに連なる作家といえるだろう。彼は2000年代以降「自分の暮らす世界、とりわけこの日本という国を自分の目で見て回りたい」という意欲的なプロジェクトを展開している。その成果は「地図」(2000~05年)、「海岸線を歩く──喜屋武から摩文仁まで」(2005~08年)といったシリーズにまとまり、個展やグループ展で発表されてきた。
今回展示された新作「光をあつめる」は、これまでの作品とは一線を画する意欲作である。ちょうど「海岸線を歩く──喜屋武から摩文仁まで」を制作するため沖縄の旅を続けていた途中で、カメラのピントグラスに光が突然飛び込んできたのだという。それを「何ものをも名指しえない、原初の光」であると感じとった彼は、光そのものを定着することに取り組んでいった。ピントをわざとはずした画面に捕獲された光は、点、塊、渦巻きとさまざまな形に変容し、手応えのある物質感を感じさせる。このチャーミングな作品群が、これから先どんな風に展開していくかが楽しみだ。なお、展覧会にあわせて写真集『圓井義典 2000-2010』(私家版)が刊行された。3つのシリーズを分冊で木箱におさめた、すっきりとした造本(アートディレクション=中新)の写真集である。

2011/01/11(火)(飯沢耕太郎)

今道子「今道子 展」

会期:2011/01/10~2011/01/22

巷房[東京都]

今道子が完全に復活したのは嬉しいことだ。このところプライベートな理由から作家活動があまりできなかったので、10年近く新作の発表がなかった。時々、写真ではなく現代美術の関係者から「今さんはどうしていますか?」という質問を受けることがあった。彼女の作品がむしろアート寄りに評価されてきたことのあらわれだろう。
今回の展示だが、銀座・奥野ビル3Fのメイン・ギャラリーの作品は、《蓮のワンピース》《鰯のパラソル》《こはだのシマウマ》など、食物を独特の発想でオブジェ化して撮影する以前の彼女の作風の延長線上にある。ただそのなかにも、《朽ち果てたバルコニーとphoto》《銀の消毒ケースとphoto》など、自らの記憶を辿り直すような作品が含まれているのが興味深い。ここで使われている「photo」は、父親と母親の昔の写真だ。メイン・ギャラリーの横にある、かつては美容院として営業していたという「306号室」の展示では、面白い試みがなされている。剥離しかけた壁や、美容院の鏡を画面に取り入れて《太刀魚のオーバーコート》や《海老の電話機》といった作品が撮影され、その場所でそのまま見ることができるようになっているのだ。制作の現場と鑑賞の場所を直接結びつけるという意欲的な実験である。
さらに、地下の巷房2のスペースには、これまでの彼女の世界を打ち破るような作品が並んでいた。《鰯の障子と私》《蟹の障子》では、まさに実際の障子ほどの大きさがある縦長の大きな画面に鰯や蟹が平面的、装飾的に配置されている。また「菊のドレスと青年」「お盆提灯と人形」では、これもこれまではあまり使用されなかった純和風のモチーフが取り入れられている。新たな方向に向けて舵を切り始めた今道子の作品世界の行方が、とても楽しみになる展示だった。

2011/01/10(月)(飯沢耕太郎)

喜多村みか/渡邊有紀「TWO SIGHT PAST」

会期:2011/01/07~2011/02/21

GALLERY at lammfromm[東京都]

喜多村みかと渡邊有紀は、東京工芸大学在学中の9年前から、互いにポートレートを撮り合うという「TWO SIGHT PAST」のプロジェクトを進めている。2006年には「写真新世紀」で優秀賞(飯沢耕太郎選)を受賞したが、それから各自の仕事が忙しくなったこともあって、しばらくこのシリーズは休止状態にあった。ところが、2009年にハンガリー・ブダペストのギャラリーで二人の展示があったのをきっかけにして、旅先でふたたびポートレートが撮影された。それをまとめたのが今回の二人展である。
二人の写真家が長期にわたってポートレートを撮影し合うという作品は、僕が知る限りナン・ゴールディンとデイヴィッド・アームストロングの『A Double Life』(1994)を唯一の例外として、ほとんどないのではないかと思う。ただ『A Double Life』は、ゴールディンが35ミリカメラのカラー、アームストロングは6×6判のモノクロームで撮影していてかなり作風に違いがある。だが喜多村と渡邊の場合は、ほとんど同じ撮り方なのであまり見た目の区別はつかない。また、ドラマチックな場面よりは、日々の出来事をあまり肩に力を入れないで撮影しているので、むしろ彼女たちの方が繊細な感情の交流や反応をしっかりと定着しているようにも見える。このシリーズがどれくらい長く続くのかはわからないが、仮に10年、20年と続いていけば、年齢や経験の積み重ねによってさらに味わいが深まってくるのではないだろうか。

2011/01/08(土)(飯沢耕太郎)

中藤毅彦「Night Crawler 1995 2010」

会期:2011/01/07~2011/01/30

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

中藤毅彦の実質的なデビュー写真展といえる「Night Crawler──虚構の都市への彷徨」は、1995年に新宿・コニカプラザで開催された。僕はその展示を見ている。中藤が東京ビジュアルアーツで森山大道に師事していたのは知っていたから、やはりその影響が強すぎるのではないかと思った記憶がある。だが、彼が他のエピゴーネンたちと違っていたのは、森山の都市のスナップショットの仕事を単純に模倣するのではなく、さらにそれを過激に、より大げさとさえいえるような身振りで展開していこうという明確な意欲を持っていたことだろう。その後「虚構の都市」東京を這い回る作業は一時中断され、彼は東欧諸国、ロシア、キューバ、上海などに撮影の範囲を拡大していった。そして2010年になってひさしぶりに東京を撮影し直した写真群に、旧作を併せて展示したのが今回の「Night Crawler 1995 2010」展である。
コントラストの強いモノクロームの写真は、ほとんど変わりがないように見える。だがよく見ると、1995年と2010年の作品では、明らかに画面の成り立ちが違ってきているのがわかる。旧作は中心となる被写体を鷲掴みにしてくるような力業でシンプルな画面を構築していた。だが新作になると、都市を階層(レイヤー)として捉えるような視点があらわれてくる。画面はより多層化し、都市の波動に同調して網目状に伸び広がっていく視線の動きを感じとることができる。その変化は、端的に、使用機材がアナログカメラからデジタルカメラへと移行したことによるものといえそうだ。一眼レフカメラでハンターのように狙いを定める身構え方が、デジカメのモニターをやや目から離して覗き込む姿勢へと変化した。そのことによって、明らかに画面に弛みや震えが生じてきている。しかし、それをあまりネガティブに考えることはないのではないか。2010年版の「Night Crawler」の方が、東京という都市が発するノイズの総体をより包括的に捉えることができるようになっていると思えるからだ。これから先、もしこのシリーズがさらに撮り続けられるとしたら、どんなふうに変わっていくのかが楽しみでもある。

2011/01/07(金)(飯沢耕太郎)