artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

大和田良「Wine Collection」

会期:2010/12/01~2011/12/25

エモン・フォトギャラリー[東京都]

4月から9月にかけてキヤノンギャラリー銀座をはじめ各地で開催された個展「Log」、写真論集『ノーツ・オン・フォトグラフィ』(リブロアルテ)の刊行など、2010年は大和田良にとって大きな飛躍の年だった。その最後の時期にエモン・フォトギャラリーで開催された「Wine Collection」展も、これまでの彼の仕事とはひと味違った領域に踏み出そうという意欲を感じさせる作品である。
スナップショットやポートレートを中心に制作してきた大和田が、今回は徹底した「抽象」の世界にチャレンジしている。赤~黒の微妙なグラデーションを浮かび上がらせる写真の展示は、一見カラーチャートを羅列したようだ。だがそれが、何種類ものヴィンテージワインを撮影したものだということがわかると、また別の思いが湧き上がってくる。ワインは特にヨーロッパの歴史において、重要な文化的な意味を担ってきた飲み物である。「キリストの血」がワインによって表象されるということだけでも、その深みと広がりがただ事ではないことがわかるだろう。そのワインを、純粋な色彩の表現としてとらえるために、大和田は実に巧みな操作を行なっている。ボトルに入った状態のワインを撮影し、後でそのデータからガラスの緑色を抜き取るというアイディアである。このような「手法」の開拓は、写真家が何か新たな領域に踏み込む時には必ず必要になってくることで、それを大和田はあまり気負うことなく軽やかにやってのけた。そのために、作品そのものも重苦しくなく、すっきりとした仕上がりになっている。

2010/12/18(土)(飯沢耕太郎)

羽幹昌弘「とうもろこしの人間たち GUATEMALA 1981~2008」

会期:2010/12/15~2011/12/29

銀座ニコンサロン[東京都]

1985年に東京・恵比寿の東京デザイナーズスペースフォトギャラリーで「ある古都の一世紀 アンティグア・グアテマラ 1895─1984」という展覧会が開催された。グアテマラで写真館を経営していた日本人写真家、屋須弘平が19世紀末~20世紀初頭に撮影した古都、アンティグアの風景や建物と、それをまったく同じアングルから撮影した羽幹(うもと)昌弘の写真とを、並べて展示した写真展だ。一世紀近い時を隔てているにもかかわらず、まるで時が止まったようにほとんど変わりがない写真群を目にして、強い衝撃を受けた。それをきっかけとして、屋須弘平について調べ始め、アンティグアにも2度足を運ぶことになった(「グアテマラに生きた写真家 屋須弘平」『日本写真史を歩く』ちくま学芸文庫、1999年所収)。その時のコーディネートと通訳で、羽幹にはいろいろお世話になった。だからその彼の、30年近くグアテマラに通い詰めて撮影した写真を集成した今回の展覧会には、とても感慨深いものがあった。
おそらく、グアテマラを実際に訪れたことがあるかないかで、写真の見方がかなり違ってくるような気がする。写真の多くには民間信仰の儀式の様子が写っている。そのエキゾチックな衣裳や、トランス状態の人々の異様な雰囲気は、充分に一目を引きつける強度を備えている。だが、儀式以外の日常の場面においても、宗教的な空間と同様のテンションの高さがずっと持続し、至るところで奇跡のような出来事が起こってくるのだ。たしかに、僕がグアテマラに滞在したごく短い期間でも、日常と非日常、現実と幻影がせめぎあい、浸透し合っているような場面に何度も遭遇した。そこではまさに、「とうもろこしの人間たち」が歩きまわり、動物や鳥たちが人間のようにふるまう神話的な世界が、ごく当たり前のようにあらわれてくるのだ。羽幹はそんな光景を淡々と写しとっているのだが、見方によっては怖い写真ばかりだ。見ているうちにふっと足元の地面が消え失せて、体ごと宙にさらわれそうに感じてしまう。

2010/12/18(土)(飯沢耕太郎)

塩田正幸 “SFACE” “DNA(Dirty Npeaker All)”

会期:2010/12/11~2011/01/30

G/P GALLERY[東京都]

塩田正幸の名前は以前からよく目にしていたのだが、最近になってその仕事の面白さがようやく見えてきた。最初に注目したのは2008年の写真集『ANIMAL SPORTS PUZZLE』(TOKYO CULTUART)で、子どものいたずらのように組み合わされたカラフルなオブジェの集合体を撮影したものだ。そのでたらめとも思える発想の方向性や瞬発力が日本の同世代の写真家たちとは違っているように感じた。聞くところでは、ノイズ系のミュージシャンとしても活動しているということで、そのあたりの刺激に全身でさっと反応していく感覚が、写真にも独特のリズムを生んでいるのだろう。
3年ぶりという今回の個展でも、あまり一つの方向に収束していくことなく、ノイズを撒き散らしていくような彼のスタイルがよくあらわれていた。巨大なモノクローム・コピーのポートレート、ライトペンで一筆書きしたようなグラフィティ的な作品、カラープリントを屋外に放置して埃を積もらせたシリーズなど、やりたいことをやり放題で形にしていっている。その全方位的なアンテナの感度を、どこまで保ち続けることができるかはわからないが、今のところはこの調子で突っ走っていっても大丈夫ではないだろうか。自主レーベルの写真集作りにもセンスのよさがうかがえる。こちらも、どんどん出していくといいのではないかと思う。

2010/12/11(土)(飯沢耕太郎)

林田摂子・福山えみ「森をさがす/月がついてくる」トークショー

会期:2010/12/10

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

2010年8月に『森をさがす』(ROCKET BOOK/CAP)を刊行した林田摂子と12月に『月がついてくる』(冬青社)を出版したばかりの福山えみ。どちらもファースト写真集が出て、これからの活動が期待される。そんな二人の写真家が、東京・四谷のトーテムポールギャラリーで連続展(林田展12月7日~12日、福山展12月14日~19日)を開催した。それにあわせてギャラリーと出版社を経営している冬青社代表の高橋国博氏と僕が加わって、トークショーがおこなわれた。
フィンランドを舞台にして、静かな、だがどこか切迫した緊張感がある「物語」が展開する『森をさがす』と、遮蔽物の隙間から向こう側を覗いているような、奇妙な味わいのモノクロームの光景が並ぶ『月がついてくる』。両方ともクオリティの高い写真集だが、内容的にはそれほど共通性はない。だが林田も福山も、ある意味頑固に、自分の見方、作品の構築のスタイルにこだわっている。それと、イマジネーションのふくらみを感じさせるタイトルを見てもわかるように、二人とも言語能力がかなり高い。高橋氏から、北井一夫が提案した作品の順番を、福山がまったく無視して変えてしまった話などが暴露されて、会場は大いに盛り上がった。また、林田が東京綜合写真専門学校時代に、鈴木清の「最後の教え子」だったという話も興味深かった。林田も鈴木清と同様に、本番前にダミー写真集を何冊も作っている。最終的な写真構成、レイアウトを決定するまで、粘り強く、ダミーを作りながら持って行くプロセスは、師匠譲りといえるのではないだろうか。
二人とも、次作がどんなふうに変わっていくのかが、楽しみでもあり、心配でもある。守りに入ることなく、意欲的に新たな領域にチャレンジしていってほしい。

2010/12/10(金)(飯沢耕太郎)

生誕百年記念展──写真家・名取洋之助

会期:2010/11/30~2011/12/26

JCIIフォトサロン・クラブ25[東京都]

名取洋之助は1910年に生まれ、62年に亡くなっている。ということは、享年52歳ということで、あらためてそのことに気づいて愕然とさせられた。彼が生涯に成し遂げたさまざまな仕事、日本工房(1933~39年)、国際報道工芸(1939年~45年)、『週刊サンニュース』(1947~49年)、『岩波写真文庫』(1950~59年)などと比較して、その没年齢が余りにも若すぎるように思えるからだ。20歳代前半から、写真と編集の世界を息せき切って走り続けたということのあらわれだろう。
今回のJCIIフォトサロン・クラブ25での「生誕百年記念展」には、戦前のドイツ、アメリカ、朝鮮、満州などの写真から、戦後の中国・麦積山、最晩年のヨーロッパ・ロマネスク彫刻の写真まで、代表作150点余りが展示されていた。その中には年上の妻、エルナ・メクレンブルクを撮影した初々しいポートレートも含まれている。名取はいわゆる「うまい」写真家ではない。中国の仏教遺跡、麦積山石窟の写真を、3日間で3000カット撮影したというエピソードが示すように、とにかく大量に集中して撮影し、そこから雑誌記事や写真集にふさわしいカットを選び出していく。その基準は、明解でわかりやすい「模様的な」構図、感情移入をしやすい人物の表情、動きのあるいきいきとした雰囲気などである。写真を視覚的なコミュニケーションの手段として、いかに効果的に使いこなしていくのかという姿勢が、徹頭徹尾貫かれているのだ。
このような効率一点張りの姿勢には、むろん彼の生前から批判があった。だがいま見直してみると、当時のフォト・ジャーナリズムを支えていたポジティブな楽観主義が、むしろ好ましいものに思えてくる。名取も若かったが、日本の写真表現それ自体が「青春時代」のまっただ中だったということだろう。

2010/12/09(木)(飯沢耕太郎)