artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

第12回三木淳賞 金川晋吾 写真展「father」

会期:2010/12/07~2011/12/13

ニコンサロンbis新宿[東京都]

三木淳賞は、ニコンが主催する35歳までの若い写真家たちの公募展「Juna21」の出品作から選出される賞。今年の第12回三木淳賞には、2010年2月23日~3月1日に新宿ニコンサロンで開催された金川晋吾の「father」が選ばれた。
金川は1981年生まれ京都生まれで、東京藝術大学先端芸術学科大学院在学中。「蒸発」をくり返す父親にカメラを向けたこのシリーズは、以前からずっと気になっていたものだが、2月~3月の展示を見過ごしていたので、受賞記念展が開催されたのはありがたかった。家族や社会との関係を自ら断ち切り、「何もない人間」になってしまった父親を撮影し続けることによって、かろうじてその存在の痕跡を浮かび上がらせようとする切迫した行為の集積であり、微温的なもたれあいを感じさせる凡百の「家族写真」とは完全に一線を画する。「何もない人間」が発する荒廃の気配が、写真にぬぐい切れずに漂っていて、痛々しく、不気味でさえあるのだ。とはいえ、ぎりぎりの撮影行為を続けることで、なぜかほのかな「希望」のようなものがあらわれてくるように感じるのはなぜだろうか。ここからさらに何かが見えてくる可能性を秘めた、新たなドキュメンタリーの方法論が模索されている。
一緒に展示してあった「2009・4・10~2010・4・09」と表紙に記されたフォトブックも興味深かった。父親本人にカメラを持たせ、毎日セルフポートレートを撮影してもらう。その一年間の写真の集成である。時々抜けている日もあるが、それでもかなりこまめに撮影を続けている。その無表情の集積を見ているうちに、哀しみとも怒りとも虚しさともつかない感情がじわじわとせり上がってくる気がした。

2010/12/08(水)(飯沢耕太郎)

下園詠子『きずな』

発行所:東京ビジュアルアーツ/名古屋ビジュアルアーツ/ビジュアルアーツ専門学校・大阪/九州ビジュアルアーツ(発売=青幻舎)

発行日:2010年11月30日

下園詠子は1979年鹿児島県生まれ。九州ビジュアルアーツ卒業後、2001年に個展「現の燈」(コニカプラザ)でデビューし、早くから将来を嘱望されていた。だが2010年度の第8回ビジュアルアーツフォトアワードで大賞を受賞し、この写真集『きずな』の刊行にこぎつけるまではかなり時間がかかった。その10年余りの紆余曲折が決して無駄ではなかったことが、写真集を見るとよくわかる。試行錯誤の積み重ねによって、説得力のある表現に達しつつあるのだ。ビジュアルアーツフォトアワードの審査後に、僕が書いた選評を引用しておこう。
「下園詠子のポートレートを見ていると、被写体からまっすぐに放射される『気』のようなものを強く感じる。ヒトはそれぞれそのヒトに特有の『気』の形を持っているのだが、彼女はそれをまっすぐに受けとめて投げ返す。2001年の最初の個展「現の燈」に展示されたものと近作を比較すると、そのエネルギーのやり取りの精度が高まり、激しさだけでなく柔らかみが生じてきている。彼女の成長の証しだろう」
さらに、彼女が常用している6×6判のカメラの真四角の画面から発する魔力が、より増してきていることも付け加えておきたい。「気」を呼び込むための装置もまた、以前にくらべると自在に使いこなすことができるようになったということだ。

2010/12/08(水)(飯沢耕太郎)

広瀬勉「鳥渡(チョット)・3」

会期:2010/12/03~2011/12/09

M2ギャラリー[東京都]

広瀬勉もキャリアの長い写真家である。彼は1980年代から「型録」という個人写真雑誌を刊行し、同名の写真展を開催し続けてきた。今回M2ギャラリーで開催された「鳥渡(チョット)・3」は、39回目の「型録写真展」になる。
以前は手当り次第に被写体を みとっては、そこら中に撒き散らしたような、コントラストの強い荒っぽいスナップが並んでいたような記憶がある。その雑然とした印象は変わらないのだが、濃いグレートーンがじわじわと目に食い込んでくる写真を眺めているうちに、奇妙な感動を覚えた。広瀬もまた原芳市と同様に、自らの生の起伏と写真を撮影する行為とをできうる限り同調させようとしている。つながっている二匹の犬、不可思議な動作をしている路傍の人物、広瀬の代名詞というべき穴あきブロック塀(彼には『塀帳』というブロック塀の写真集もある)などの写真の合間に、女性のヌードや下着姿のポートレートが挟み込まれる。そのたたずまいが、何ともエロティックで心揺さぶるものがあるのだ。40回近い写真展をくり返しているうちに、彼の写真の表現力の水位が相当に高まってきているということだろう。
原芳市も広瀬勉も、主に写真家たちが自分たちでスペースを借りてギャラリーを運営する「自主運営ギャラリー」での展示を積み重ねて、表現を成熟させてきた。写真家たちの自由な発表の場としての「自主運営ギャラリー」が果たしてきた役割の大きさを、もう一度きちんと評価するべきだと思う。

2010/12/05(日)(飯沢耕太郎)

原芳市「光あるうちに」

会期:2010/11/23~2011/12/05

サードディストリクトギャラリー[東京都]

原芳市に『淑女録』(晩聲社、1983年)という写真集がある。サードディストリクトギャラリ─の展示を見て帰ったあとで、ひさびさに本棚から引っぱり出してみた。4×5判の大判カメラで、ストリッパーやSMモデルからOLまで、女性のモデルたちと正面から対峙し続けた渾身の力作である。まだ30代後半の原は、「淑女たちを一人ひとりこちら側に引き寄せて写真にしていくしかない」と思い詰め、「一種病的と思われても仕方のないそうした不思議なエネルギー」を全開にして被写体に向き合っている。
それから30年近くが過ぎ、還暦を過ぎた彼の新作展を見ることができた。肩の力が抜けた、柔らかに6×6判のカメラの前の情景に浸透していくような眼差しのあり方は、かつての原の写真を知る者には物足りなく感じるかもしれない。だが彼の生と写真とが、水に濡れた薄紙一枚でぴったりと貼り合わされているような展示を見ているうちに、「これでいいのではないか」という思いが強く湧き上がってきた。「光あるうちに」というタイトルは、トルストイの小説『光あるうちに光の中を歩め』を思わせるが、原は15年ほど前に知らずにこのタイトルを思いついていた。後になって、古本屋の書棚で文庫本の背文字を見て、「ぼくの問いに対する解答がトルストイに与えられているような衝撃」を感じたのだという。
自問自答をくり返しながら、「光あるうちに」という切迫した思いを抱きつつ写真を撮り続けていく彼の生き方が、ウサギやトンボやカラスや路傍の花のような、まさに光の中で震え揺らめく小さな生きものたちの姿に投影されている。しっとりと味が沁みた煮物のような、いい写真展だった。

2010/12/05(日)(飯沢耕太郎)

蜷川実花「noir」

会期:2010/11/27~2011/12/25

小山登美夫ギャラリー[東京都]

Taka Ishii Galleryの上の階の小山登美男ギャリーでは、同じ日に蜷川実花展もオープンした。芸能人関係の花輪の多さが、今の彼女の勢いを物語っている。ただ、肝腎の展示には少し違和感を覚えた。
今回の「noir」のシリーズは、あの2008~10年に東京オペラシティアートギャラリーを皮切りに全国巡回した「地上の花、天上の色」展の最後のパートで予告されていたものだ。華やかな極彩色の「蜷川カラー」を極端に「noir(黒)」の方へ傾けることで、魑魅魍魎がうごめくようなバロック的な世界をこの世に出現させる。その意図はよく理解できるし、もともと蜷川の中に潜んでいた闇、死、狂気への志向を解放しようとする興味深い実験といえる。ただ、壁にプリントをべたべた貼付ける見せ物小屋的な展示は、以前のポップな作品には合っていても「noir」にはあまりふさわしくないように思える。ここは、虚仮威しでもハイブラウな、洗練された展示空間を作り上げてほしかった。フレームに入れて展示されていた作品もあったが、それもやや中途半端に感じた。
同じことは、同時に発売された写真集『noir』(河出書房新社)にもいえる。この本も作品の内容と造本、レイアウト、印刷などがあまりうまく合っていないのではないだろうか。可能性を感じるシリーズだけに、ぜひぴったりとした器を見つけてほしいと思う。

「noir」2010
© mika ninagawa
Courtesy of Tomio Koyama Gallery

2010/12/01(水)(飯沢耕太郎)