artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし

会期:2009/11/28~2010/02/07

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

手堅い企画だと思う。写真に少しでも興味があれば、この二人の“ライカの巨匠”の名前くらいは知っているだろうし、展示も東京都写真美術館をはじめとして日本の美術館の収蔵作品を総ざらいしているので、なかなか見応えがある。内容的にも、それぞれの作風の共通性と違い(木村の柔らかな融通無碍の構図と、カルティエ─ブレッソンの幾何学的な画面構成など)がよく伝わってきた。実際に祝日ということもあって、作品の前をぎっしりと埋め尽くすような観客の入りだった。
ただ、こういう有名写真家の展示なのだから、逆にもう少し冒険も必要なのではないか。二人の作品を分けて展示するのではなく、対照させつつ相互に並べるといった試みも考えられると思う。キャプションにも、もう一工夫必要だろう。木村のパリ滞在時におけるカルティエ=ブレッソンとの交友のエピソードなどをうまく散りばめれば、もっと観客を引き込むことができるのではないだろうか。面白かったのは最後のパートに置かれた二人のコンタクト・プリント(密着ネガ)の展示。撮影時の生々しい息づかいが伝わってくる。二人とも「決定的瞬間」を見つけだし、定着するために、粘りに粘ってシャッターを切っているのがわかる。たとえば木村伊兵衛の名作《本郷森川町》(1953年)は9カット連続して同じ場所を撮影したうちの7枚目、《板塀、秋田市追分》(同)は6カットのうちの5枚目だ。このしつこさが、スナップショットの名人芸を支えていたことを見過ごしてはならないだろう。

2010/01/11(月)(飯沢耕太郎)

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DODO EXHIBITION

会期:2010/01/08~2010/01/10

ギャラリー街道[東京都]

写真家、尾仲浩二が主宰するギャラリー街道で「百々一家」の作品展が開催された。「百々一家」というのはビジュアルアーツ専門学校大阪の校長でもある百々俊二とその二人の息子たち、百々新、百々武の三人である。親子で写真家という例は、それほど多くはない。視覚的な才能が遺伝することはめったにないし、父親の仕事の大変さを身近に見ていると、別な道を選びたくなるのではないだろうか。「百々一家」の場合は、息子たちが同じ写真の世界でも、それぞれ父親とは違った方向に自分の才能を発揮するということがうまくいった希有な例だと思う。
今回の展示では百々新がカスピ海沿岸のロシア、アストラハンを撮影した《Caspian Sea- Russia》を、百々武が奈良県南部の集落や修験道の行事にカメラを向けた《八咫烏》のシリーズを出品している。しっかりと腰を据えたカラー・スナップで悪くはないが、「百々一家」の親分である百々俊二のモノクローム作品《1968─1969 飯塚─東京》でやや存在感が霞んでしまった。福岡県飯塚市の炭坑地帯の荒涼たる風景と、1969年の騒然とした学生デモの状況を体当たりで撮影した19~20歳頃の写真群だが、一人の若者が写真という表現手段を手にして、手探りで現実世界に肉迫していく切迫した感情のうねりが伝わってくる。この三人の写真があわさった時にあらわれてくる眺めはなかなか気持がいい。またいつか同じ顔ぶれの展示を見てみたい気がする。

2010/01/10(日)(飯沢耕太郎)

うつゆみこ「はこぶねのそと2」

会期:2010/01/08~2010/01/31

G/P GALLERY[東京都]

昨年同じギャラリーで開催された「はこぶねのそと」の続編というべき個展。アートビートパブリッシャーズからうつゆみこの最初の写真集『はこぶねのそと』が刊行されたのにあわせて、旧作に未発表の新作を加えた勢いのある展示になっていた。
うつゆみこのキッチュ+ポップ+グロテスクの三位一体の作品群は、発想、手法、仕上げとも完全に安定期に入っているように見える。レベルの高い作品を次々に生み出すことができるようになり、手を替え品を替えてマンネリズムをうまく回避している。今回は古典的な肖像画のスタイルをうまく取り込んでおり、以前ほど派手さはないが、古代遺跡から発掘された人類学的な遺品の集積といった趣も感じさせる。メキシコ辺りの土産物屋の店先に実際に並んでいてもおかしくないような、やや渋めの作品も多い。ただ、ここから先どんなふうに彼女の作品世界が展開していくかが、楽しみであるとともにむずかしい所にさしかかっているとはいえるだろう。とはいえ、生産力と引き出しの多さは同世代の作家の中でも群を抜いている。さらに見る者を驚かせるような奇想を全面展開していってくれるのではないだろうか。

2010/01/08(金)(飯沢耕太郎)

まばゆい、がらんどう

会期:2010/01/06~2010/01/20

東京藝術大学大学美術館 展示室1[東京都]

「絵画、彫刻、写真、映像、音響、インスタレーションなど、さまざまな手法を横断する作家による尖鋭な作品を紹介し、“アート”とテクノロジーの可能性を探る」という趣旨で、東京藝術大学写真センターの椎木静寧が企画・構成した現代美術のグループ展。出品作家は、志水児王、鷹野隆大、高嶺格、谷山恭子、玉井健司、平野治朗、森弘治の7人である。
志水のレーザー光線を使った繊細な光のインスタレーション、谷山の柔らかに伸び広がっていく有機的なオブジェの構成など、面白い作品もあるのだが、あまりにも手法、テーマがバラバラ過ぎて展覧会全体の輪郭がうまく像を結ばなかった。「まばゆい、がらんどう」というなかなかいいタイトルも、あまりぴったりフィットしているとは思えない。出品作家の中で唯一の写真家である鷹野隆大は《男の乗り方》シリーズと《ヨコたわるラフ》シリーズから、ロールサイズに大きく引き伸ばしたモノクローム・プリントを出品していた。これも技術的な問題のためなのか、いつもののびのびとした展示の効果が充分に発揮されているようには見えなかったのが残念だ。鷹野はこの所、息を継ぐ間もなく展覧会や写真集の出版が続いている。小休止が必要な時期に来ているのかもしれない。

2010/01/06(水)(飯沢耕太郎)

フィリップ・フォレスト、澤田直・小黒昌文訳『荒木経惟 つひのはてに』

発行所:白水社

発行日:2009年12月10日

フィリップ・フォレストは1962年生まれのフランスの批評家、作家。シュルレアリスムや「テル・ケル派」についての研究で知られていたが、娘の病死をきっかけに書いた『永遠の子ども』(1997年)で小説にも手を染め、高い評価を受けるようになる。とはいえ、静謐で端正な文体の彼の小説は、散文詩と哲学的エッセイのアマルガムとでもいうべきもので、一般的な「ロマン」とはほど遠い。フォレストは日本の近代文学にも造詣が深く、特に「私小説」の伝統に関心を寄せてきた。荒木経惟の31枚の写真を31章の断章で読み解く本書も、その文脈から構想されたものである。なお、2008年に白水社から刊行された彼の前著『さりながら』にも、小林一茶、夏目漱石とともに原爆投下直後の長崎を撮影した写真家、山端庸介が取りあげられており、彼が写真という表現媒体にも強く惹かれていることがわかる。
本書を通読して感じたのは、荒木のような日本の社会・文化の状況と深くかかわりながら仕事をしている写真家の作品を読み解く時に、むしろ日本人には盲点になる所があるのではないかということである。最も大きな衝撃を受けたのは、あの『センチメンタルな旅』(1971年)におさめられた、小舟の中に横たわる陽子の写真についての彼の解釈だ。陽子は資生堂化粧品の包み紙に頭を載せて眠っている。ロゴの一部が隠れていて、「SHI」という文字だけが目に入ってくる。つまり彼女は「SHI=死」の上に横たわっているのだ。僕たちはつい特徴的なロゴを見て、それが資生堂化粧品の包み紙だということだけで納得してしまう。「SHI」が死であることに気がついたのは、フォレストがフランス人だからともいえる。逆にこのユニークな荒木論には、誤解や曲解もかなり多くある。そのあたりをうまくクロスさせていけば、このような異文化の眼差しの交流は、実りの多い成果をもたらすのではないだろうか。

2010/01/03(日)(飯沢耕太郎)