artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

やなぎみわ「Lullaby」

会期:2010/01/29~2010/03/21

RAT HOLE GALLERY[東京都]

やなぎみわの新作は、お馴染みの少女と老婆をテーマとする仮面劇の映像作品。縮尺が微妙に狂った暖炉のある部屋の中で、黒い小さな老婆が、白い大きな少女に膝枕をしてあやしながら、子守唄を唄っている。そのうち不意に少女が目覚め、激しい格闘が始まり、老婆はねじ伏せられる。そうすると、今度は少女が老婆を優しくあやしながら子守唄を唄いだす。そういう短いストーリーが何度かくり返され、そのたびに老婆と少女の立場は逆転することになる。
話そのものは単純だが、フォークロアによくある繰り返しの効果がうまく使われていて、なかなか面白かった。何よりもよかったのは「笑える」ことで、これはやなぎの新境地といえるのではないだろうか。二人の格闘シーンがかなりリアルで、静かな子守唄の場面との落差が笑いを呼ぶのだ。最後に今まで老婆と少女がいた居心地のよさそうな部屋の壁が崩れ落ちて、彼女たちが吹きっさらしの都会のビルの屋上にいたのがわかる。このあたりの展開も、鮮やかに決まっていた。神話の中に日常が紛れ込む方向性が見えてきたのが収穫といえそうだ。入口のパートに旧作が数点かかっているだけで、あとは映像を淡々と上映するだけの会場構成はすっきりして悪くないのだが、もう一工夫あってよかったかもしれない。

2010/02/06(土)(飯沢耕太郎)

須田一政「常景」

会期:2010/02/03~2010/02/16

銀座ニコンサロン[東京都]

須田一政の軟体動物がうごめいているような写真世界は、1970年代からずっと気になっていた。6×6判のフォーマットの写真集『風姿花伝』(1978年)で、そのスタイルはほぼ完成するが、その後も、大判カメラ、ミノックスのような超小型カメラ、ポラロイドなどを含むさまざまなカメラを義眼のように取っ替え引っ替えしながら、記憶の奥底を覗き込むようなイメージを定着し続けてきた。1940年生まれ(荒木経惟、篠山紀信と同じ)だから、今年70歳になるわけだが、今回の個展を見てもその「ざわざわ」「ぬめぬめ」「ゆらゆら」としたスナップショットの奇妙な味わいは健在である。
タイトルの「常景」というのは須田の造語のようだが、「変哲のない存在の深さ」を探るというこのシリーズの意図にぴったりしている。彼の写真を見ていると、見慣れた街の眺めが異形の何ものかに変質し、あたかも生きもののようにうごめきはじめるように思えてくる。そのあたりのことを『アサヒカメラ』(2009年12月号)の記事で、「モノを見るとき、そのモノの本来の姿に、僕の妄想をキノコの菌糸を植えつけるように、なにかを仕掛けていっている感じ」と表現しているのだが、これは言い得て妙だろう。「妄想のキノコ」は思わぬ場所に次々に生えてきて、世界をアニミズム的な生気で満たしている。たしかにやや不気味ではあるが、どこか懐かしく、目に気持よく馴染む眺めだ。

2010/02/05(金)(飯沢耕太郎)

安楽寺えみ「CHASM─裂け目」

会期:2010/01/12~2010/02/20

ギャラリーパストレイズ[神奈川県]

安楽寺えみは1990年代から写真作品を制作しはじめ、2000年代以降に精力的に個展などで発表するようになった女性作家。アメリカのNazraeli Pressから写真集を刊行し、内外のグループ展にも参加するなど、存在感を強めている。本展の作品も、昨年、まずニューヨークのMIYAKO YOSHINAGA art prospectsで発表され、横浜のパストレイズ・ギャラリーに巡回してきた。
彼女の作品の中心的なテーマは、いつでも性的なイマジネーションである。これまでは男性性器に対する固執が目立っていた。といっても、草間彌生のように恐怖や強迫観念に支配されたものではなく、安楽寺のペニスは肯定的で幸福感に満たされ、どこかユーモラスだ。ところが、今回の展示では、タイトルが示すように裂け目=女性性器がもうひとつのテーマとして浮上してきた。暗闇にちょうどヴァギナの形の裂け目が刳り貫かれ、そこから着替えをしている女性の姿を覗き見ることができるのだ。とはいえ、作品から受ける印象は、決して窃視症を思わせる病的なものではなく、のびやかでエレガントであり、やはりほのかなユーモアが漂っている。このような品のいいエロティシズムは、日本の写真家ではなかなか身につけるのがむずかしいものだ。貴重な存在と言えるのではないだろうか。

2010/02/02(火)(飯沢耕太郎)

笹岡啓子『PARK CITY』

発行所:インスクリプト

発行日:2009年12月24日

笹岡啓子は新宿・photographers’galleryの立ち上げ時からのメンバーのひとり。同ギャラリーを中心に個展の開催、グループ展への参加などの活動を積極的に続けて力をつけてきた。本書は彼女の最初の本格的な写真集であり、生まれ育った広島市にカメラを向けている。
『PARK CITY』というタイトルは、広島を、原爆記念公園を中心とする「公園都市」と見立てるという発想に由来する。いうまでもなく、記念公園一帯は1945年8月6日の原爆投下時の爆心地を含んでおり、かつては「グラウンド・ゼロ」の廃墟が広がっていた。笹岡の試みは現在の広島の眺めに過去の「空白」の光景を重ね合わせようとするものであり、それが画面全体をじわじわと浸食する黒い闇の領域によって表わされていると言えるだろう。
写真集の後半で、読者は原爆被災者の遺品などを収蔵した資料館の建物の中に導かれる。そのあたりから、この写真集の意図がはっきりと浮かび上がってくる。つまりこの写真集は、土門拳、東松照明、土田ヒロミ、石内都ら、先行する写真家たちによって行なわれてきた写真による原爆の記憶の継承を、現在形で受け継ごうとする試みなのだ。1978年生まれという、より若い世代によるその試行錯誤が成功しているかどうかは別として、作品自体は緊張感を孕んだ、密度の濃い映像群としてきちんと成立している。

2010/02/01(月)(飯沢耕太郎)

つくば写真美術館再考──美術品(アート)としての写真を問い直す

会期:2010/01/31

早稲田大学早稲田キャンバス8号館B101[東京都]

「シリーズ現代社会と写真」と題して早稲田大学メディア・シチズンシップ研究所が主催するシンポジウムの第1回目。今回は1985年に筑波科学博会場の近くに半年間だけ開設された「つくば写真美術館 '85」の活動を「美術品としての写真はどのように成立していったかを、当時の写真を巡る状況を整理しながら検討する」という趣旨で取りあげた。
パネリストは、この日本最初の写真美術館の計画を発案・実行した石原悦郎(ツァイト・フォト・サロン代表)、キュレーターとして企画やカタログ制作にあたった飯沢耕太郎(写真評論家)、金子隆一(東京都写真美術館専門調査員)、谷口雅(東京綜合写真専門学校校長)、横江文憲(東京都現代美術館学芸員)、そして2005年に「85/05 幻のつくば写真美術館からの20年」展を開催したせんだいメディアテーク学芸員の清水有である。200人以上の観客が集まり、長時間にもかかわらず会場のテンションが保たれて、なかなか充実したシンポジウムだった。
石原の同美術館の経済的な破綻についての率直な回顧談は面白かったし、参加者一人ひとりにとって、あの時期の経験がその後の仕事に活かされていることもよくわかった。だが決してうまくいったとはいえない「つくば写真美術館 '85」プロジェクトの意味を、現在の写真の状況にまでつなげて考えていくには、まだまださまざまな試行錯誤が必要になっていくだろう。「シリーズ現代の写真」が2回目、3回目と続いていく中で、「美術品としての写真」といういまや耳慣れてしまったいい方の有効性も、あらためて問い直されていくのではないだろうか。

2010/01/31(日)(飯沢耕太郎)