artscapeレビュー
フィリップ・フォレスト、澤田直・小黒昌文訳『荒木経惟 つひのはてに』
2010年02月15日号
発行所:白水社
発行日:2009年12月10日
フィリップ・フォレストは1962年生まれのフランスの批評家、作家。シュルレアリスムや「テル・ケル派」についての研究で知られていたが、娘の病死をきっかけに書いた『永遠の子ども』(1997年)で小説にも手を染め、高い評価を受けるようになる。とはいえ、静謐で端正な文体の彼の小説は、散文詩と哲学的エッセイのアマルガムとでもいうべきもので、一般的な「ロマン」とはほど遠い。フォレストは日本の近代文学にも造詣が深く、特に「私小説」の伝統に関心を寄せてきた。荒木経惟の31枚の写真を31章の断章で読み解く本書も、その文脈から構想されたものである。なお、2008年に白水社から刊行された彼の前著『さりながら』にも、小林一茶、夏目漱石とともに原爆投下直後の長崎を撮影した写真家、山端庸介が取りあげられており、彼が写真という表現媒体にも強く惹かれていることがわかる。
本書を通読して感じたのは、荒木のような日本の社会・文化の状況と深くかかわりながら仕事をしている写真家の作品を読み解く時に、むしろ日本人には盲点になる所があるのではないかということである。最も大きな衝撃を受けたのは、あの『センチメンタルな旅』(1971年)におさめられた、小舟の中に横たわる陽子の写真についての彼の解釈だ。陽子は資生堂化粧品の包み紙に頭を載せて眠っている。ロゴの一部が隠れていて、「SHI」という文字だけが目に入ってくる。つまり彼女は「SHI=死」の上に横たわっているのだ。僕たちはつい特徴的なロゴを見て、それが資生堂化粧品の包み紙だということだけで納得してしまう。「SHI」が死であることに気がついたのは、フォレストがフランス人だからともいえる。逆にこのユニークな荒木論には、誤解や曲解もかなり多くある。そのあたりをうまくクロスさせていけば、このような異文化の眼差しの交流は、実りの多い成果をもたらすのではないだろうか。
2010/01/03(日)(飯沢耕太郎)