2019年06月15日号
次回7月1日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

奥山由之「白い光」

会期:2019/03/07~2019/04/15

キヤノンギャラリーS[東京都]

会場の入り口で小型のフラッシュライトを渡される。中に入ると真っ暗で、そのライトで照らし出しながら写真を見るというのが、今回の奥山由之の展示のコンセプトだ。入場制限があり、一度に3人しか会場に入れない。あまり人が多すぎると、ライトが交錯して写真を見る行為に集中できないからだという。

このような趣向を凝らした展示のやり方は、けっして嫌いではない。奥山が会場に掲げたコメントで述べているように、現代社会では「空間のみならず自己を取りまく全ての情報や環境を照らし出す」ような状況が蔓延しており、「視えることで見えなくなったもの」がたくさんあるからだ。今回のインスタレーションは、むしろ見えにくくすることで、作品をより注視することができるようになるのではないかという奥山の真摯な問いかけでもある。

ただ、本展に出品された「白い光」という作品についていえば、そういうトリッキーな見せ方がよかったかどうかはやや疑問がある。じつは、僕はこの作品を昨年12月の全国カレンダー展の審査の時に見ている。審査員たちから高い評価を受けたその「気仙沼漁師カレンダー2019」は、奥山が何度も漁船に乗り組んで撮影したもので、漁業に従事する男たちのエネルギッシュな作業の様子と、潮風の匂いを感じさせるような海上の雰囲気をストレートに捉えた写真で構成されていた。

今回のインスタレーションの意図として、「漆黒の闇を進む。聞こえるのは、波の呼吸とエンジン音」という撮影時の状況を、観客に追体験させるということがあったのではないかと思う。それには確かに成功しているのだが、「気仙沼漁師カレンダー」の時のようなオーソドックスな見せ方のほうが、伝わるものが多かったのではないだろうか。ライトで照らし出す展示は、やはりそのことに気をとられ過ぎてしまって、写真をしっかりと受けとめることができにくくなるからだ。この展示の仕方は、むしろ別の機会にとっておいてもよかったかもしれない。

2019/03/12(火)(飯沢耕太郎)

Uma Kinoshita / 矢作隆一「Pairing FUKUSHIMA 写真家と造形作家による二人展

会期:2019/03/01~2019/03/30

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

今年も「3・11」が巡ってきた。東日本大震災から8年目ということで、生々しい記憶が薄れつつあることは間違いないが、アーティストたちにとっての「3・11」はむろんまだ継続している。東京・広尾のエモン・フォトギャラリーでは、震災と原発事故に触発された「写真家と造形作家による二人展」が開催された。

Uma Kinoshitaは震災の3年後に福島を訪れて撮影した写真を、福島県でつくられた手漉き和紙に焼き付けている。被災地の光景は注意ぶかく選ばれており、特に「Homeland」と題された、樹木と墓の写真を何種類かの和紙にプリントしたシリーズには、その繊細な明暗とテクスチュアへのこだわりがしっかりと表現されていた。それぞれの写真には作家自身が執筆したというテキストが添えられている。「誰もいないの?」/「いないね」/「どうして?」/「住めなくなったんだな 故郷なのに」/「故郷?」/「帰りたいと思える 帰る場所のことだよ」という具合に、会話体を活かしたテキストも、よく練り上げられたものだ。ただ、作者の立ち位置がやや曖昧なので、なぜ、いま福島の写真なのかという問いかけに完全に答えきっているようには見えなかった。

メキシコ在住の矢作隆一は、石のフォルムを、石彫の技術を駆使して別な石でそっくりそのまま再現する「模石」という手法で作品を発表してきた、いわば、石の立体写真という趣の作品だが、今回は福島県の浪江町と富岡町で拾ってきた石を、メキシコ唯一の原子力発電所がある場所で採取した石を使って「模石」している。その表現意図は明確だが、むしろそれよりも、一方は何万年という時間を経て形成され、一方はせいぜい数週間という単位でつくられた2つのそっくりな石が並んでいる、そのたたずまいに惹きつけられる。なんの変哲もない小石に秘められた、時間のドラマを感じないわけにはいかないからだ。

二人のアーティストの作風はかなり違っているが、「二人展」の面白さは、そこに思いがけない共時性が生まれてくることだろう。その点では、今回の展示はうまくいっていたのではないかと思う。なお、本展は4月30日~5月12日に、KYOTOGRAPHIEのサテライト展示、KG+の一環として、京都・四条のギャラリー・マロニエ スペース5に巡回する。

2019/03/11(月)(飯沢耕太郎)

戦後の浪華写真倶楽部──津田洋甫 関岡昭介 酒井平八郎をめぐって

会期:2019/03/02~2019/03/24

MEM[東京都]

浪華写真倶楽部は1904(明治37)年、日本で最初に設立されたアマチュア写真家団体のひとつで、戦前は安井仲治、小石清、福森白洋らを擁して関西「新興写真」の拠点として輝かしい足跡を残した。戦中には一時低迷するが、戦後すぐに活動を再開する。今回のMEMでの展覧会には1948年に同倶楽部に入会した津田洋甫(1923~2014)、関岡昭介(1928~2016)、58年入会の酒井平八郎(1930~)の1950~60年代の作品から、全22点が出品されていた。

このところ、1950年代の写真に着目した展示が続いているが、それはこの時代の写真家たちの営みが、一枚岩ではない多様性を備えていることが少しずつ見えてきたためだろう。「リアリズム写真」と「主観主義写真」の並立というのが、この時代に対する基本的な見方だったのだが、本展などをみると、両者に単純に帰することのできない写真表現が、さまざまな場所で芽生えつつあったことがわかる。津田、関岡、酒井の写真がまさにそうで、社会的な事象、事物にストレートに目を向けた写真と、造形的、技法的な実験を試みた写真とが混じり合っている。関岡の《黒い山》、酒井の《ハトバの印象》、津田の《雨煙の中》などに写り込んでいるのは、まぎれもなく、まだあちこちに戦争の傷口が顔を覗かせているようなこの時代のざらついた空気感だ。

そう考えると、いま必要なのは「リアリズム写真」と「主観主義写真」、あるいはプロフェッショナルとアマチュア写真といった枠組をいったん解体して、そこから浮かび上がってくる「50年代写真」の総体を見極めることではないだろうか。それはまた、新たな角度から写真の「戦後」を問い直す試みの端緒になるのではないかと思う。

2019/03/10(日)(飯沢耕太郎)

田沼武能「東京わが残像 1948-1964」

会期:2019/02/09~2019/04/14

世田谷美術館[東京都]

展覧会の会期中に90歳になるという田沼武能は、現役最長老の写真家のひとり。今回の世田谷美術館での回顧展には、彼が写真家として出発した1940年代から60年代にかけて東京を撮影した写真180点を出品している。ほかに、柳田國男から福田繁雄まで、世田谷在住の文化人24人を撮影したポートレートも特別展示されていた。

1949年から木村伊兵衛の助手を務めた田沼の基本的なスタイルは、師匠譲りの、被写体を取り巻く空気感を丸ごと写し込むスナップショットである。それらを見ながら、あらためて写真の細部を「読む」ことの面白さを感じた。例えば、展覧会のポスターやチラシにも使われた《路地裏の縁台将棋》(1958)には、将棋に夢中になっている男の子たちとそれを見守る女の子をはじめとして、じつに多くの人、モノが写り込んでいる。花火を楽しむ浴衣姿の子供たちもいるし、その奥には戸口に入ろうとする女性の姿も見える。洗濯物、流しと洗面器、桶、三輪車などのモノたちもそれぞれ自己主張している。さらに濡れた地面の湿り気の感触が、いかにも下町の路地裏らしい雰囲気を醸し出す。それらすべてが一体化して、1950年代の東京の「残像」がまざまざとよみがえってくるのだ。

このような「読む」ことのできるスナップショットは、当時のフォト・ジャーナリズムの要請によって成立したものであり、その後、より個人的、主観的な解釈が強まるにつれて、あまり撮影されなくなっていく。だが、60年の時の隔たりを通過すると、それらがじつに味わい深い「微妙な含みをもつ暮らしの匂い」(酒井忠康)を発しはじめていることがわかる。ひるがえって、2010年代の現在の東京もまた、田沼や木村伊兵衛のように撮っておくべきではないだろうか。写真は画像に写し込まれた匂いや手触りや空気感を介して、過去と現在と未来とをつなぐ役目を果たすことができるからだ。

2019/03/08(金)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00047662.json s 10153439

薄井一議「Showa96」

会期:2019/03/08~2019/03/30

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

ZEN FOTO GALLERYで開催されてきた薄井一議の「Showa」シリーズは、「Showa88/昭和88年」(2011)、「Showa92」(2015)に続いて今回が3回目になる。ちょうど平成の最後の時期の開催というのも感慨深いものがあるし、シリーズとしても今回で完結ということのようだ。

展覧会に寄せたコメントで、薄井はこう書いている。

「“昭和”が付くからと言って、別だんノスタルジーを追い求めている訳では全くない。僕は、この言葉を“生き抜く力”の象徴と考える。昭和がまだ別の時空で続いていたらどんな世界か、そんなファンタジーを追い求め、平成の終わりに第三弾が完成した」

「Showa」を「“生き抜く力”の象徴」と見る捉え方は、とても面白い。たしかに30年余り続いた平成時代は、日本人の生のエネルギーが、根こそぎ奪われていった時期に思えるからだ。薄井はそんな「Showa」を呼び起こすために、さまざまな場所に足を運び、奇妙な人物たちとの出会いを写真におさめていく。時にはその場所から何か特異な気配を感じ取り、演劇的な要素を取り入れてストーリー仕立てで展開したりもする。今回展示された写真でいえば、東京・大森の旧金子國義邸が取り壊される前に、ヌードや芸妓の格好をした女性を配して撮影した写真がそうである。2016年に日本青年館が閉鎖される前日に、わざわざ宿泊して撮影したという写真も興味深い。開いた窓からは、工事が始まったばかりの国立競技場の建築現場が見える。

薄井が「Showa」シリーズで積み上げてきた写真群は、ZEN FOTO GALLERY刊行の3冊の写真集にまとまり、かなりの厚みを持ち始めている。ぜひ、それらを、大きな会場で一度に見ることができる機会をつくってほしい。それとともに、薄井がこのシリーズの次にどんな展開を考えているのかも楽しみだ。

2019/03/08(金)(飯沢耕太郎)

文字の大きさ