2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

水越 武 写真集『日本アルプスのライチョウ』刊行記念展

会期:2020/04/02~2020/04/26

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

水越武は日本の山岳写真の第一人者で、デビュー写真集の『山の輪舞』(山と渓谷社、1983)以来、数々の名作を発表してきた。撮影の範囲もヒマラヤから熱帯雨林まで世界中にまたがっている。だが、今回新潮社から写真集『日本アルプスのライチョウ』として出版され、ふげん社で刊行記念展を開催したライチョウのシリーズは、人間の営みを超越した「神々の世界」というべき高山の環境に目を向けてきた彼の写真家としての軌跡から、やや外れているのではないかと思う。テーマとなっているライチョウは、むろん日本アルプスの厳しい自然環境で生息している鳥だが、彼らを見つめる水越の眼差しには、冷静な観察者というよりは、どこか哀しみや慈しみの感情が宿っているように見えるのだ。

ライチョウは約1万3000年前の氷河期の終わりとともに、「高山に追い上げられた」のだという。以来、山岳信仰とも結びついて「霊鳥」として崇められ、ほとんど狩猟の対象にはならなかった。そのために、ライチョウは「人間を恐れない」で平気で近づいてくる。水越はそのような、やや特異な人間と鳥との関係のあり方を踏まえて、日本アルプスの雄大な大自然を背景としたライチョウの四季の生の営みを細やかにカメラにおさめていく。その半世紀以上にわたる「対話」の積み重ねが、一枚一枚の写真に結晶している。

地球温暖化の影響で森林限界が上昇していることで、ライチョウたちの生息環境は急速に狭まりつつあり、「絶滅危惧IB種」に指定された。「地球の気候変動の影響を強く受けるライチョウの未来は決して明るくない。存続の鍵を握るのは我々人間である」という写真集の「あとがき」の言葉が、重く心に響く。

関連レビュー

水越武「MY SENSE OF WONDER」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月15日号)

2020/04/09(木)(飯沢耕太郎)

甲斐啓二郎『骨の髄』

発行所:新宿書房

発行日:2020年3月20日

写真家が写真を撮り始めるきっかけは大事なことだが、それが写真の出来栄えにそのまま反映するわけではない。むしろ実際に撮影してみてわかったこと、そんな「気づき」をどのように取り込んでいくのか、元あったプランをどれだけ大胆に変更していくことができるかが重要になる。

元々、ラグビーやサッカーなどスポーツ競技を中心に撮影していた甲斐啓二郎は、フットボールの歴史を記した本で、毎年2月の「Shrove Tuesday(告解の火曜日)」に、イングランド・ダービーシャー州のアッシュボーンでおこなわれる、「Shrovetide Football」と呼ばれる行事に興味を抱く。フットボールの原型とされるこの行事では、町の真ん中を流れるヘンモア川の両岸の住民たちが、1個のボールをゴールまで運ぶことを競い合う。「教会に入らない」、「人を殺さない」ということ以外には一切のルールがないこの競技を、甲斐はほとんど予備知識なしに撮影したのだが、できあがってきた写真は予想を超えたものだった。そこには、肝心のボールはほとんど見えず、男たちが揉み合い、ぶつかり合い、密集し、駆け回っているその姿だけが写っていたのだ。つまりスポーツ写真としては完全に失敗だったわけだが、甲斐は大きな手応えを感じた。その「気づき」から、スポーツ、あるいは宗教行事の原型というべき世界各地の「祭事」を追うプロジェクトが開始されることになる。

甲斐が「Shrove Tuesday」に続いて撮影したのは、「骨の髄」(秋田県美郷町の「竹打ち」の祭事)、「手負いの熊」(長野県野沢温泉村でおこなわれる、厄年の25歳の男衆が守る社殿に松明で火を付ける「火付け」の祭事)、「Opens and Stands Up」(ジョージア西部、シュフティのShrovetide Footballによく似たボールを奪い合う行事)、「Charanga」(南米・ボリビアのマチャでおこなわれる、男たちが素手で殴り合う「Tinku(出会い)」の行事)である。これらのイヴェントの写真は、すべて「Shrove Tuesday」と同じやり方で撮影され、本書『骨の髄』に収録された。それらを見ると、甲斐が撮影したかったのが、祭りそのものではなく、むしろそこに写り込んでいない「何ものか」だったことが見えてくる。彼が写真集の「あとがき」で「『祭事』を『自然』もしくは『神』と置き換えて、『向かってくるもの』と考えると、『格闘の祭事』は『自然の猛威』とみることも出来る」と書いているのは、そのことを言おうとしているのではないだろうか。「見えないボール」は「見えない神」のメタファーとして捉えることもできそうだ。

なお、本書の刊行に合わせて、同名の写真展が銀座ニコンサロンで開催される予定だったが、新型コロナウイルス感染症の広がりの影響で中止された。4月はじめの段階で、ほとんどの美術館、ギャラリーは休業を余儀なくされている。苦難の時期を乗り越えて、早く展覧会が自由に開催できるような状況になることを願いたい。

関連レビュー

甲斐啓二郎「Opens and Stands Up」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年06月15日号)

甲斐啓二郎「手負いの熊」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年11月15日号)

甲斐啓二郎「骨の髄」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年11月15日号)

甲斐啓二郎「Shrove Tuesday」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年10月15日号)

2020/04/03(金)(飯沢耕太郎)

王子直紀「吐噶喇・川崎」

会期:2020/03/29~2020/04/03

photographers’ gallery[東京都]

東京・新宿のphotographers’ galleryは、2001年に創設された。その立ち上げのメンバーのひとりである王子直紀は、同ギャラリーで「川崎」シリーズを発表し続けてきた。だが、このところ個展の開催が途絶えていて、本展は約6年ぶりの開催になるという。彼はその中断のあいだに、もうひとつのシリーズ「吐噶喇」を撮りためていた。今回は、この二つのシリーズを同時に見せることによって、写真家として次のステップに踏み込んだのではないかと思う。

「川崎」はモノクローム、「吐噶喇」はカラーで撮影されていることもあり、すべて縦位置という共通性はあるものの、両シリーズの印象はかなり違う。「川崎」のほうが風景を断片として切り取る意識が強く、被写体を突き放し、弾き出していくような視線の運動を感じる。それに対して「吐噶喇」はより求心的で、被写体との親和性が感じられ、南島の熱、匂い、湿り気などが伝わってくる。このような二つの対照的な場所を選び、微妙に撮り方を変えることで、明らかに王子の視点に厚みと奥行きが加わった。次は、両シリーズを単純に並置するのではなく、そのあいだをつなぐ構造を設定していくことが必要になるのではないだろうか。それがきちんとかたちをとっていけば、独自の「日本列島」の像が見えてくるのではないかという予感がある。

なお、展示に合わせて、それぞれ32ページのA5判変形の小冊子『吐噶喇1』(KULA)、『川崎1』(同)が刊行された。

関連レビュー

王子直紀「KAWASAKI」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年03月15日号)

王子直紀「牛島」/「外房」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年08月15日号)

2020/04/02(木)(飯沢耕太郎)

東海道 西野壮平 展

会期:2020/04/01~2020/04/07

日本橋三越本店 本館6階 コンテンポラリーギャラリー[東京都]

西野壮平は、さまざまな場所に足を運んで撮影した大量の写真を、切り貼りしてモザイク状にコラージュし、風景を再構築する作品を制作し続けている。その彼の新作は、2017年の冬に、東京から京都までの「東海道」約492キロを、1カ月かけて徒歩で旅して撮影した写真で構成されていた。西野は写真家として本格的にデビューする前の2004年に、故郷の兵庫県から東京まで歩いたことがある。今回の「東海道」はそのルートを逆に辿るもので、彼にとっては写真家としての原点を確認するという意味を持つものだったのではないだろうか。

彼が最終的に発表の形態として選んだのは、約4万カットからセレクトしてコラージュしたというオリジナル写真作品を、カラー・コロタイプ(制作:便利堂)で印刷・複製し、全長34メートルという巻物状にして見せることだった。そのほかに、壁面には部分的に切り取った19点のフレーム入り作品も展示されていた。

これは、西野の作品を見るときにいつも感じることだが、細部に目を凝らせば凝らすほど、さまざまな場面がひしめくように錯綜し、迷宮を彷徨っているような気分になってくる。そこに写っているのは、たしかにリアルで日常的な光景の集積なのだが、全体として見ると、魔術的としか言いようのない非現実感が生じてくるのだ。特に今回は、歌川広重の「東海道五十三次」以来、日本人のイメージ回路に刷り込まれている「東海道」がテーマなので、よりその現実感と非現実感の落差が大きいように思えた。カラー・コロタイプの、水彩画のような色味、画質も、うまくはまっていた。これまでの彼の作品は、囲い込まれた都市空間を被写体とすることが多かったのだが、今後はある地点からある地点までの移動のプロセスが、より重要な意味を持ってくるのではないだろうか。

関連レビュー

西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|村田真:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

2020/04/02(木)(飯沢耕太郎)

アバロス村野敦子「Fossa Magna—彼らの露頭と堆積」

会期:2020/03/06~2020/04/19(延長)

POST[東京都]

アバロス村野敦子の「Fossa Magna—彼らの露頭と堆積」は、「見えるもの」と「見えないもの」、「大きなもの」と「小さなもの」のあいだを想像力でつなぐ、とても興味深いプロジェクトである。フォッサマグナとは、ドイツの地質学者エドムント・ナウマンが1880〜90年代に発表した本州中央部の大地溝帯のことである。西端は新潟県糸魚川と静岡県大井川を結ぶ線上に、東端は新潟から千葉にかけての線上にあるフォッサマグナには東京も含まれている。村野は、ナウマンのフォッサマグナ発見のエピソードに強く惹かれ、同地溝帯の地表に露出した岩盤を中心に撮影し始めた。やがて、彼女は自分が暮らす東京の日常にも目を向けるようになる。そこにも、さまざまな「地殻変動」が生じており、日々の出来事が「堆積」し、それが「露頭」として目に見えるかたちで出現してくるからだ。

今回のPOSTの展示では、フォッサマグナの「露頭」を撮影した写真群(実物の岩の破片も含む)、日常生活を撮影したスナップ写真、夫のアバロス・カルロが書いた漢字練習帳やナウマンの論文などを複写した写真などで構成されていた。会場のスペースに限界があるので、インスタレーションがうまくいっていたとはいえない。特に日常生活のパートは、もう少し拡充してもいいだろう。だが、さらにこのプロジェクトを展開していけば、より広がりと深みのある展開が期待できそうだ。

なお、このシリーズは、2017年度の写真家オーディション「SHINES」(キヤノンマーケティングジャパン主催)で町口覚が選出し、彼の造本で30部限定の写真集を刊行している。その「Drifting across the sea, Searching for a place to belong, Finding a new home, And calling in their own. Just like the Fossa Magna, Years gone by, Layer by layer, Unseen, but to be known」という長いタイトルの写真集の増刷版も刊行され、会場で販売されていた。写真集には、アバロス・カルロの詩的なテキストが、写真と写真のあいだを縫うようにレイアウトされている。写真とテキストとの絡み合いが、重層的、多次元的な内容とうまくマッチしていた。

2020/03/11(水)(飯沢耕太郎)

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