2020年01月15日号
次回2月3日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

高橋万里子「スーベニア」

会期:2019/09/15~2019/10/06

photographers’ gallery[東京都]

高橋万里子のphotographers’ galleryでの展示は6年ぶりだという。高橋は同ギャラリーの創設メンバーのひとりだが、展示のペースはこのところだいぶ落ちている。だがその分、じっくりと時間をかけて表現を熟成させることができるようになったようで、今回の「スーベニア」も味わい深いいい作品だった。

作品自体は単純な造りで、「それぞれに違った苦労や喜びを抱えながら生きてきた友人たち」のポートレートと、「色々な土地で過ごした時間、そのささやかな思い出の品、スーベニア」の写真とを交互に並べている。取り立ててポージングをしたり、構図を考えたりしたようには見えない自然体の撮り方を貫くことで、6人の同世代、同性の「友人たち」と、こけし、人形、水差し、動物の置物といった「スーベニア」とが互いに溶け合って、ゆったりとした居心地のいい空気感を醸し出していた。高橋はこのシリーズで、はじめてデジタルカメラを使用して撮影したのだという。ややブレ気味の写真が目につくが、それも特に狙ったわけではなく、ライティングや露光時間の関係で巧まずしてブレたということのようだ。それでもよく見ると、被写体の選択、プリントの色味の調整、写真相互の配置などに、細やかな神経を使っていることがわかる。見かけよりも奥行きのある写真シリーズといえるだろう。

高橋は1990年代からの発表歴を持つ写真家だが、まだ個人の写真集を出版していない。そろそろ、これまでの仕事をまとめてほしいものだ。

2019/09/19(木)(飯沢耕太郎)

武田陽介「Ash without fire here」

会期:2019/09/07~2019/10/26

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

武田陽介は2014年にタカ・イシイギャラリーで個展「Stay Gold」を開催し、同名の写真集を刊行した。そのときの展示は、デジタルカメラを強い光に向けて撮影した「Digital Flare」シリーズと、より描写的、明示的に現実世界の断片を撮影した写真群とで構成されていた。その二つの要素の配分がうまくいっていたとは思えないが、写真による新たな世界認識のあり方を模索するという強い意欲を感じる展示だった。ところが、2016年の同ギャラリーでの個展「Arise」では「Digital Flare」シリーズのみの展示となり、写真の方向性がより狭く限定されていった。

今回の「Ash without fire here」でも、その傾向は踏襲されている。120x160cmという大判プリント2点を含む「Digital Flare」は、メタリックなフレームにおさめられ、ゴージャスさと完成度を増している。それに水面の黄金色に輝く反映を写した新作の映像作品と連続写真が加わっているが、こちらは「Digital Flare」よりもさらに装飾的な要素が強まっていた。武田の関心が、世界認識のシステムの探求から離れてしまったように見えることはとても残念だ。「Digital Flare」シリーズの作品としての魅力を認めるのはやぶさかではないが、このままだと、デジタル時代における洗練されたピクトリアリズムの達成に終わってしまう危険もある。もう一度、「Stay Gold」がはらんでいた可能性を検討してみる必要があるのではないだろうか。

Yosuke Takeda, “072254”, 2019, LightJet print ©Yosuke Takeda / Courtesy of Taka Ishii Gallery

関連レビュー

武田陽介「Stay Gold」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)

武田陽介「Arise」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年06月15日号)

2019/09/18(水)(飯沢耕太郎)

新納翔 写真展「ヘリサイド」

会期:2019/09/10~2019/09/28

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

「ヘリサイド」というのは、東京の縁(へり)、つまり湾岸地域を指し示す新納翔の造語だという。インパクトのあるいいタイトルなので、期待して展示を見に行った。ところが、DMにも使われた、赤い鳥居と日の丸のある湾岸の風景を撮影した写真以外は、あまり見るべき作品はなかったというのが正直な印象である。パノラマカメラで、横に大きく広がった風景を捉え、さまざまな要素が互いに干渉し合う状況を画面に取り込んでいくというアイディアはとてもいいのだが、それを最後まで貫くことができず、自分の顔を入れたり、上空の飛行機をブレた画像で写したりする、やや主観的な解釈に走ったのが失敗だったのではないだろうか。浴槽の「ヘリ」を撮影した写真を展示に紛れ込ませるような遊び心も、メインの部分がしっかりしていないと逆に白けてしまう。

とはいえ、「ヘリサイド」から東京を見つめ直すという視点は捨てがたいものがある。新納が展覧会のリーフレットに書いているように、東京の「破壊と再生のエネルギーは中心部からヘリである湾岸部に向かって徐々に減衰して」いくので、そこにはあたかも「残像」のように、異様な雰囲気の光景が取り残されているからだ。今回は撮影期間も短かったようなので、もう一度じっくり時間をかけて被写体に向き合い、納得のいくまで撮り続けてこのシリーズを完成してほしい。パノラマカメラのワイドなアングルを活かすことができる場面を丁寧に拾い集めていけば、新たな東京地図を描き出すことが可能になるはずだ。

2019/09/13(金)(飯沢耕太郎)

新井卓「Imago/イマーゴー」

会期:2019/08/30~2019/10/18

PGI[東京都]

世界最古の写真技法、ダゲレオタイプ(銀板写真)で作品を制作する新井卓は、2016年から「明日の歴史」と題するシリーズに取り組みはじめた。「わたしたちは未来を予測することができるか、という単純な疑問」から発想したというこのシリーズでは、14〜17歳の少年・少女たちをモデルとする。彼らは、真っ直ぐにダゲレオタイプのカメラに視線を向けて立ち尽くしている。ダゲレオタイプで肖像を撮影するには、通常数秒〜十数分の露光時間がかかるのだが、新井はそれを短縮するために数万ワットのストロボ光を彼らに浴びせた。そのことで、彼らの一瞬の表情が金属板の上に定着され、モニュメンタルな「Imago/ イマーゴー」=像として提示されることになる。

新井が撮影したのは、広島在住、あるいは2011年の東日本大震災を福島県で経験している少年・少女たちである。いうまでもなく、彼らに共通しているのは自分、家族、あるいは同じ地域の人々の「被曝」の記憶を受け継いでいるということだ。そのような過去の共通体験が、彼らの現在と未来にどのような影響を及ぼしているのか。新井はそれを検証するために、もうひとつの仕掛けを用意した。彼らの肉声を録音し、その一部を会場で流したのだ。写真の上の裸電球が灯ると、その声が流れるようにセットされている。ダゲレオタイプは、ネガとポジとが一体になっているので、光で照らし出さないとくっきりとしたポジ像としては見えてこない。画像と声が同時に、順を追って目と耳に飛び込んでくるインスタレーションが、とても効果的に働いていた。

ダゲレオタイプは1839年に発明が公表されたので、今年はちょうど180年目の年にあたる。当時のダゲレオタイプが現存しているので、少なくとも180年の寿命は保障されているということだ。そう考えると、新井が展覧会に寄せたコメントに、ダゲレオタイプは「数百年後の未来へむけて彼女/彼たちの姿を運ぶ、最も信頼できる記憶装置となる」と書いていることが説得力を持つ。「数百年後」を待つまでもなく、あと数十年後に自分の姿を見て、声を聞いたときに、彼らがどんな思いにとらわれるのか、それが知りたくなった。

2019/09/06(金)(飯沢耕太郎)

高橋恭司『WOrld’s End』

発行所:Blue Sheep

発行日:2019年8月19日

高橋恭司は1992年に映画監督・アーティストのデレク・ジャーマンのポートレート撮影を依頼され、イギリス南部のダンジェネスを訪れた。ジャーマンは、HIV感染宣告後に移り住んだこの街の近郊にプロスペクト・コテージと称する家を建て、奇妙なオブジェが点在する庭を作り続けていた。この「世界の果て(エッジ)が目の前にある」ように感じられる場所を撮影した写真は、高橋の最初の写真集『The Mad Bloom of Life』(用美社、1994)にもおさめられている。それから27年余りを経て、もう一度それらの写真と「2010年代後半のベルリン、ロンドン、東京郊外」で撮影した写真とあわせて刊行したのが、本作『WOrld’s End』である。写真集刊行にあわせて、東京・赤坂のBooks and Modernと千代田区のnap gallery でも同名の個展が開催された。

いわば、デレク・ジャーマンが死の直前に発した「世界の終わりは来るのか?」という問いかけに対する、高橋の長い時間をかけた回答というべき写真集と写真展である。彼がその問いかけに誠実に対応していることが、掲載された写真から伝わってきた。だが、1992年に撮影された写真と2010年代の写真とが、うまく接続しているのかということについては疑問が残る。家や庭を「見る」ことに集中して、中判カメラで細部にまで目を凝らして撮影している旧作に対して、ぼんやりとした薄膜に包み込まれているような近作は、かなり違った印象を与えるからだ。そこに色濃く漂う死と荒廃の匂いは、強い吸引力を備えているが、以前の解釈とは異なる位相にある。むしろ、2つのシリーズを完全に切り離して見せるほうがよかったのではないだろうか。

2019/08/29(木)(飯沢耕太郎)

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