2022年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

フィリア―今道子

会期:2021/11/23~2022/01/30

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館[神奈川県]

今道子の作品は、写真という表現領域においてはかなり異色のものといえる。何しろ今が撮影しているのは、魚介類、果物、野菜などの「食べ物」や、剥製の動物、衣服、装飾品、あるいは人体などを組み合わせて作ったあり得ないオブジェであり、現実世界の再現・記録という、普通は写真の最も基本的な役目と考えられている要素はほとんど顧慮されていないからだ。そこに出現してくるマニエリスティックな画像の世界は、ほとんど今の夢想が形をとったものであるようにも見える。とはいえ、写真以外の制作手段(絵画、版画、彫刻など)で彼女の作品世界が成立するかといえば、それは不可能だろう。その緻密で、蠱惑的で、ときにはユーモラスでもある作品世界は、平面上にリアルな幻影を出現させる写真の魔術的な力の産物以外の何者でもない。その意味では、今の仕事は19世紀の写真術の発明以来積み上げられてきた、イメージの錬金術師としての写真家たちの系譜を正統に受け継ぐものともいえるだろう。

代表作100点余りによる、今回の神奈川県立近代美術館 鎌倉別館での個展は、今の初期作品から新作までを概観することができる貴重な機会となった。それらを辿り直すと、写真という表現手段を手にして、身辺の事物をテーマに作品を制作し始めた初期から、精力的に活動を続けている現在に至るまで、彼女の姿勢がほとんど変わっていないことに気がつく。とはいえ、たとえば2010年代以降のメキシコ体験をベースにした作品群のように、新たな刺激を取り込みつつ、より多元的、多層的な広がりを加えていこうとしていることが見て取れる。2001-2002年頃に集中して制作されたカラー写真のシリーズ、障子をモチーフにした「時代劇」風の連作(2010)、生きている蚕を使った作品(「目の見えない蚕」、2017)、ブレを意図的に取り入れた作品(「めまいのドレス」、2013)など、近作になればなるほど、融通無碍にさまざまな手法、スタイルを模索するようになってきている。初期から近作まで25点を「祭壇」のように配置した「フィリア」のパートなど、インスタレーションにも工夫が凝らされていた。タイトルの「フィリア」(philia)とは「──愛」を意味するギリシア語の語尾だという。今道子の「現実と非現実との間のようなもの」に対する偏愛を、うまく掬いとったいいタイトルだ。

2021/11/23(火)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00059333.json s 10172878

橋本貴雄『風をこぐ』

発行所:モ*クシュラ

発行日:2021/09/28

福岡に住んでいた橋本貴雄は、2005年に白っぽい毛並みの犬が路上で倒れているのを見つけ、家に引き取ることにした。フウと名づけられたその犬は、事故の後遺症で後ろ脚が不自由になっていたが、既に二匹いた橋本家の飼い犬として暮らすようになった。橋本はその後、2006年に大阪に、2008年には東京に、2011年からはベルリンに移り住む。ベルリン在住の途中で、フウの後ろ脚の機能が低下し、車椅子が必要になるが、2017年に亡くなるまで12年間を共に過ごした。

『風をこぐ』には、そのフウの姿を福岡時代から折に触れて撮影した写真がおさめられている。特に「作品」として発表しようと考えていたわけではないようだが、結果的に犬と人との関係のあり方が細やかに、しかも奥深くとらえられた、あまり例を見ない「私写真」となった。後書きにあたる文章に「ただ、フウの歩いているほうに歩いていき、流されるように、そこに現れてくるものを撮った。12年間、私はフウのそばにいて、ただ見つめていたように写真が残った」と記しているが、その自然体の撮り方によって、橋本とフウとの一心同体の関係のあり方がじわじわと浮かび上がってくる。見終えた後に、心に沁みる余韻が残る写真集である。小さめの、ポストカード大の図版を配した岡本健+の装丁・レイアウト、大谷薫子の丁寧な編集も、写真のよさを最大限に活かしたものになっている。

2021/11/21(日)(飯沢耕太郎)

村上賀子「Known Unknown」

会期:2021/11/09~2021/11/22

ニコンサロン[東京都]

村上賀子(むらかみ・いわうこ)は、1986年、宮城県仙台市出身。2012年に武蔵野美術大学大学院造形研究科修了後、コンスタントに写真作品を発表するようになった。これまで、折り紙とそれにまつわる折り手の記憶を写真とテキストで浮かび上がらせた「Untitled Origami」(2015-)、「記憶の生成の場」としての家をいくつかの角度から撮影した「Home works 2015」(2015)などのシリーズを制作・発表してきたが、今回の「Known Unknown」も、発想から実際の展示まで、丁寧に手順を追って組み上げられたいい作品だった。

6×7判の中判カメラで撮影されているのは、女性のいる室内の光景である。それらの写真群は、彼女たちが「自宅などで(カメラがないかのように)いつも通りに過ごす」という設定で撮影されたものなのだという。村上はコロナ禍のステイホームの時期に、セルフポートレイトの延長のように、部屋にいる同世代の女性たちにカメラを向けるようになった。そこでは、通常のポートレイトのような、写真家と被写体との間の緊張感を孕んだ自己と他者との関係は解体し、自分であるとともに他人でもある(あるいはその逆の)、両義的だが、奇妙なリアリティを備えた存在が出現してくる。カメラをセットして、被写体となる女性たちに自由に動いてもらい、ストップ・モーションをかけることで、シャッターを切るタイミングを生み出しているということだが、その選択が的確なので、村上の意図がきちんと伝わる写真群になっていた。「見覚えのある自分と、見覚えのない自分」「想像通りの自分らしさ」「なぜ私だと言えるのだろう」といったテキストと、展示されている写真との間の関係・配置の仕方も、とてもうまくいっていたと思う。

村上は武蔵野美術大学で山崎博の教えを受けたのだという。コンセプチュアルな指向性を貫きながら、偶然性を取り込み、作品にふくらみを持たせるあり方は、たしかに山崎と共通している。派手な仕事ではないが、いい鉱脈を見出しつつあるのではないだろうか。

2021/11/19(金)(飯沢耕太郎)

尾黒久美「HESTER」

会期:2021/10/20~2021/11/20

POETIC SCAPE[東京都]

尾黒久美は1995年に渡英して写真を学び、99年からはベルギーに在住して写真家としての活動を続けている。どちらかといえば寡作で、日本での個展も9年半ぶりということだが、着実に自分の世界観を投影した作品を制作し続けている作家といえる。

尾黒の作品の多くには、少女たちが登場してくる。だが、顔をはっきり見せることを注意深く避けているためもあって、彼女たちは人間というよりは人形めいた趣で写っている。尾黒自身も「生身の人間を使って人形遊びをしているようなもの」と表現しているようだ。だが、この「人形遊び」には、単なる絵空事ではないリアリティがある。投げ出された手足、長く伸びた、それだけが別の生きもののような髪の毛、時には不適切な着方をした衣装、断片的で儀式的ともいえるような身振り──それらが微妙な操作によって組み合わされるとき、謎めいた、どこかエロティックでもある雰囲気が生じてくる。演劇的な世界の表出には違いないが、それが最後まで全うされることなく宙吊りになっていることで、逆に観客の想像力を強く刺激するのだろう。

日本ではあまり見ないユニークな作風が、どのように展開していくのかが興味深い。尾黒の作品には、ベルギー(ヨーロッパ)の風土性が、色濃く反映しているようにも感じる。彼女が日本で制作したらどうなるのだろうか。そんなことも考えてしまった。

2021/11/17(水)(飯沢耕太郎)

松江泰治「マキエタCC」

会期:2021/11/09~2022/01/23

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

松江泰治の展覧会を見て、ひさしぶりに視覚的興奮を満喫した。今回は映像作品も数点あるが、「CC」と「マキエタ」の2シリーズに絞って展示している。2001年から制作されている「CC」は、空港などに表示されている「シティー・コード」(たとえば東京ならTYO)をタイトルにしたシリーズで、さまざまな都市風景を俯瞰的に撮影している。一方、2007年に制作が開始された「マキエタ」(ポーランド語で模型の意味)にも「シティー・コード」が付されているが、こちらは都市や自然の景観を模したジオラマのような展示物を撮影した写真群である。

興味深いのは、撮影の時点でも、展示においても、松江がそれらを区別しようとしていないことで、その結果、観客はどちらが本物でどちらが模型なのか判断がつかない境目に立つことになる。むろん、仔細にその細部に目を凝らせば、天然なのか模造品なのかは明らかなのだが、やや離れて作品を見れば、その差異は曖昧になってしまう。それを可能としているのは、それらがどちらも写真という装置を介して平面化されているためだろう。つまり、今回松江がめざしたのは、フラットネスとパンフォーカスという写真特有のものの見え方を、極限まで突き詰めることだったのではないだろうか。そのもくろみは見事に成功していて、写真の画面における画像の等価性という、これまでも多くの写真家たちの目標になっていた視覚的な指標が、これ以上ないほど純粋な形で表われてきていた。

むろん、松江はこれから先もたゆみない写真的視覚の探究を続けていくはずだが、まさに「ミッドキャリア」の展示として、彼にとっても一つの区切りとなる展覧会になったのではないかと思う。観察していると、観客の会場滞留時間が相当に長い。個々の作品に、画面の細部まで見尽くさずにはおれなくなるような力が備わっているためだろう。

2021/11/17(水)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00059100.json s 10172798

文字の大きさ