artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

田中一光ポスター 1980-2002

会期:2012/03/21~2012/05/11

dddギャラリー[大阪府]

「日本的な色彩や造形を現代的に昇華させた」と評される、グラフィックデザイナー・田中一光(1930-2002)のポスター作品を前後期に分けて紹介する展覧会。奈良に生まれ、京都で学び、大阪で仕事を始めた田中が27歳で東京に拠点を移す際には、関西のグラフィックデザイン界が騒然としたという。以後、広告会社勤務を経て、1963年にフリーランスとなり「田中一光デザイン室」を主宰。1964年の東京オリンピックでは施設のシンボルとメダルのデザインに参加し、1970年の大阪万国博覧会では展示設計に携わるなど、国をあげての仕事も多く、まさに日本をデザインした一人であったと言っても過言ではない。田中の死後、DNP文化振興財団に一括寄贈された作品をもとに2008年「田中一光アーカイブ」が設立されることになるが、本展ではそのアーカイブのなかから厳選された田中の代表作が紹介されている。[金相美]

2012/04/14(土)(SYNK)

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KATAGAMI Style──世界が恋した日本のデザイン

会期:2012/04/06~2012/05/27

三菱一号館美術館[東京都]

「KATAGAMI」=「型紙」とは、小紋等の文様を染色する際に布に防染糊を置くために用いられる型である。柿渋で貼り合わせて耐水性を施した和紙に、小刀で微細な文様を切り出してつくられる。本展は、日本の型紙が19世紀後半の欧米の美術・工芸に与えた影響を、具体的な作品によって検証する非常に優れた展覧会である。
 「型紙」が欧米のデザインに与えた影響は、1990年頃から指摘されてきた。研究の進展とともに明らかにされてきたのは、欧米の装飾工芸美術館や蒐集家のもとに型紙が大量に所蔵されているという事実であった。その物量からすると、これまでのジャポニスム研究の中心にあった浮世絵や輸出工芸よりも、型紙ははるかに広範な影響を与えてきたことが想像される。日本女子大学の馬渕明子教授らの研究グループが2006年から2007年にかけてパリで開催した「型紙とジャポニスム」展は、このような型紙の影響を明らかにする展覧会であったが、その後さらに3年間にわたって行なわれた最新の研究の成果が本展覧会である。
 展示は大きく3部に分かれている。第1は型紙の歴史である。型紙、型染の見本帖、型染が施された裃などの着物、浮世絵に現われた型染の文様により、日本における型紙と型染の展開を追う。江戸時代、染めに用いられる型紙は紀州藩の専売品であり、そのほとんどが伊勢の白子・寺家地域でつくられていた。各地の染屋は型紙を伊勢商人から購入していたのである。また、注文主は染めの見本帖や仕立ての雛形など、さまざまオプションからデザインを選択できた。手工芸の時代にあっても各工程は高度に分業化、システム化されていたのである。
 第2は欧米への影響である。英語圏においては、クリストファー・ドレッサーの著作『日本、その建築、美術と美術工芸』(1882)によりイギリスに型紙が紹介され、テキスタイル産業や、アーツ・アンド・クラフツ運動の作家たちにも影響を与えたことが指摘される。フランスのナンシーでは、装飾的なガラス、陶磁器、家具などの工芸品のデザイン・ソースとして型紙が利用された例などが示される。ドイツでは、工芸博物館、工芸学校において型紙が手本として利用されていた。ドイツ各地に多くの型紙コレクションがあるなかでも、ドレスデン工芸博物館には16,000枚もの型紙が収蔵されているという。工芸学校で学んだ人々が、これらの手本に影響を受けたであろうことは想像に難くない。本展が優れているのは、型紙の残存状況を地域ごとに調査し、状況証拠によって影響関係を示唆するばかりではなく、個々の作品とそのソースとなったであろう型紙とを対比して展示している点にある。ウィーン工房の作品には、型紙の写しといってもよいものが多数見られる。フランスのアール・ヌーボーのテキスタイルや家具には、型紙の手法が応用された文様や透かし彫りを見ることができる。手軽なデザイン・ソースとして用いられた例もあれば、他の様式とアレンジされ独自の解釈が加えられたデザインもあり、型紙の受容のされかたは多様であった(このような展示の背後には、作品に応用されたであろう型紙を一つひとつ同定してゆく地道な作業があることも指摘ししておきたい)。
 大量の型紙がどのように海を渡り、コレクションを形成したのかについては、まだ十分に明らかになっていない。海外のコレクションにある型紙の多くは使用済みのものであることから、廃棄される型紙が多数輸出されたことが想像される。また、博物館には同時代の工芸品と比べて圧倒的に安い価格で納入されていたという★1。型紙が欧米のデザインに与えた影響は大きかったとしても、殖産興業政策を推進した明治政府の意図とは裏腹に、日本にはほとんど利益をもたらさなかったのではないだろうか。文化を輸出するということと経済的な利益を得ることとは一致しないのである。
 最後のコーナーでは現代デザインに型紙のモチーフが生かされている事例が紹介される。型紙が欧米のデザインに与えた影響を探る展覧会の主旨とは別に、型紙そのものの美しさや、型紙づくりの超絶技巧(会場ではビデオが上映されている)に感嘆する来場者も多いようだ。柿渋に染められた和紙に浮かび上がる日本の伝統的な文様は、力強く、美しい。19世紀末に型紙を目にした欧米の工芸家たちも、現代のわれわれと同じようにその美しさに魅せられたのかもしれない。
 図録に掲載されている論文、調査資料も非常に充実している。今年見るべき展覧会のひとつだと思う。本展は、京都国立近代美術館(2012年7月7日~8月19日)、三重県立美術館(2012年8月28日~10月14日)に巡回する。[新川徳彦]

★1──生田ゆき「型紙は語る──海を越えた型紙をたずねて」(『KATAGAMI Style』展図録、日本経済新聞社、2011、259頁)。

2012/04/12(木)(SYNK)

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大正の記憶──絵葉書の時代

会期:2012/04/05~2012/06/09

学習院大学史料館[東京都]

明治末期から大正期にかけて、絵葉書ブームがあった。流行は世界的なもので、その背景には、国際郵便制度や交通網などのインフラストラクチャーが整備されたこと、戦争や交易、植民地経営、ツーリズムの興隆によって人の移動が増えたこと、写真・印刷技術の発展が指摘されている。日本では1900(明治33)年に郵便法の制定により私製葉書が認められ、絵葉書のやりとりが拡がる。そして、1904(明治37)年から1906(明治39)年にかけて、ブームは最高潮を迎えたという★1
 実際、新聞記事データベースを検索してみると、1905年、1906年に「絵葉書」に関する記事、広告が非常に増えていることがわかる。現代の感覚では、絵葉書といえば風光明媚な観光地の写真や美人画などが想像されるが、当時はあらゆる題材が絵葉書として刊行されたようだ。たとえば、新聞には春画の絵葉書が摘発された記事がしばしば掲載されている。それも個人の蒐集品として売買されていたばかりではなく、郵便局の窓口でも押収されているのである。ブームを牽引したのは、逓信省の発行した戦役紀年絵葉書であった。1906年6月に発売された折には多数の人々が未明より郵便局前に列をなし、開門とともに局内へとなだれ込み、一部暴徒と化した大衆が投石をしてガラスを割るなどし、混乱のなかで失神した人物が病院に運び込まれた。また、絵葉書を高価で買い取り転売する業者があったことも報じられている。絵葉書は手軽なコミュニケーションの手段として利用されたばかりではなく、蒐集自体が目的化していたのである。
 この時代の絵葉書は美術的芸術的な題材、あるいは見て楽しいものとは限らず、私製葉書の規格を満たしてさえいればどんなものでもありえた。そのなかでも、本展は絵葉書がニュースを伝える一種のメディアとしての役割をはたしていた点に着目する。それを明らかにするのは、同時代のイベント、事件を扱ったさまざまな絵葉書である。明治天皇の崩御に際して宮城前に座り込む大衆の写真絵葉書。大正天皇即位を記念する絵葉書。皇太子時代の昭和天皇が1921(大正10)年3月から半年にわたってヨーロッパを外遊した際、新聞各社の同行が許可され、新聞、映画でその様子は伝えられたが、同時にさまざまな絵葉書が発行された。大正時代の東京では、慶事、祝祭の折りに花電車が運行されたが、そのときにしか見ることができない花電車の姿もまた、絵葉書の題材として人気を集めた(展覧会場にはNゲージの花電車が走っている!)。関東大震災では、新聞発行が停止するなかで、被災地を撮影した多くの写真絵葉書が発行された。
 こうした絵葉書は、現代の私たちに過去の出来事を写真や図像で伝えてくれるばかりではない。戦勝記念、講和記念に官製絵葉書を発行した政府の意図はどこにあったのか。皇室の行事や外遊を伝える絵葉書は、国民の皇室に対するイメージをどのように変えたのか。震災で崩れた建物や被災者を撮した写真絵葉書を購入した人々は、そこになにを求めていたのか。絵葉書は明治末期から大正期にかけての人々の心性を証言する貴重な史料でもあるということが、この展覧会が示すもうひとつの視点である。[新川徳彦]

★1──向後恵理子「日本葉書会──日露戦争期における絵葉書ブームと水彩画ブームをめぐって」(『早稲田大学教育学部学術研究(複合文化学編)』第58号、2010年2月)

2012/04/12(木)(SYNK)

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日本繁昌大展覧会──チャリティ広告展

会期:2012/04/04~2012/04/09

新宿伊勢丹[東京都]

1年前の3月11日からながらく、テレビではいつものCMを見ることができなかった。街に貼られていたポスターもいつの間にか姿を消していた。ふだん目にしていたものがなくなると、あらためてその存在が意識される。広告はたんにものを売るだけのものではない。その時代の文化をつくっているのだ。「日本繁昌大展覧会」は、広告をキーワードにした震災復興のためのチャリティ企画。伊勢丹新宿店の展示会場は3つのゾーンで構成されている。ゾーン1は、ポスターや看板、宣伝用ノベルティなど、北原照久の広告コレクションを展示する。ゾーン2は、1960年代半ばから80年代までの資生堂の化粧品ポスターとテレビCM。そして、ゾーン3は「未来広告」である。20人のデザイナーたちに与えられたテーマは、時代のヒーロー。おそらくそれぞれのデザイナーたちが子どものころにとりこになったであろうヒーローを題材に、オリジナルのポスターを制作し、売上を支援金とする企画である。同時に伊勢丹新宿店、日本橋三越、銀座三越のショーウィンドウでは、「過去広告」と「未来広告」をテーマにしたウィンドウ展覧会も開催された。しかし、なぜ「広告」なのか。なぜ「ヒーロー」なのか。テーマを投げられたデザイナーたちがポスターに付したコメントもさまざまである。浅葉克己の「月光仮面」は「持っているピストルを水鉄砲に持ち替えて、悪い物質を分解する液体を発射。ガレキの山に水鉄砲でピューッピューッとかけまくる」。中島英樹の「狼少年ケン」は、自然エネルギーを使ったジャングルの再生を謳う。服部一成の「悪魔くん」は、未来の新商品を広告する。「中身は何なのかは作者の僕も知りませんが、この怪しい商品を売って売って、大繁昌するつもりです」。きっと難しく考えてはいけないのだろう。懐かしい広告、あこがれのヒーローにあの頃の夢と希望を託して、元気な明日の日本を創っていけばよいのだ。[新川徳彦]

2012/04/09(月)(SYNK)

嗅ぎたばこ入れ──人々を魅了した掌上の宝石

会期:2012/03/28~2012/05/06

たばこと塩の博物館[東京都]

微粉末状にしたたばこを鼻から摂取する嗅ぎたばこ。はじめは固めたたばこの葉をその都度すり下ろして用いていたが、18世紀になってあらかじめ粉末にして香料などを調合した製品が販売されるようになったことで、持ち運びのための小さな器が求められるようになった。これが嗅ぎたばこ入れ(snuff box)である。
 嗅ぎたばこをめぐる文化の形成と伝播はとても興味深い。輸入品であるたばこは高価で、そのような商品をたしなむことはまず上流層のファッションとして拡がる。人々の目の前で取り出される嗅ぎたばこ入れには贅を尽くした装飾が施された。どのような嗅ぎたばこ入れを持っているか、どのようにたばこ入れを扱うか、どのようにたばこを嗅ぐか。その作法は人物の評価へとつながるようにもなる。同時代には作法書まで現われたという。たばこの価格が下がり、入手しやすくなると、嗅ぎたばこは地方の名士・豪農のあいだにも拡がった。上流層と同じようなものを持ち、同じように振る舞うことが、彼らが身分を誇示する手段のひとつであったが、高価な器を買うことはできなかったために、廉価な素材、簡素な装飾による嗅ぎたばこ入れが現われ、普及していったのだ。
 ヨーロッパでは嗅ぎたばこは19世紀初めに廃れ、豪華な嗅ぎたばこ入れもつくられなくなったという。その理由は明示されていなかったが、おそらく嗅ぎたばこの中心地フランスにおいて、革命によって宮廷文化を支えた階層が没落したことと、嗅ぎたばこが下層に拡大したことで、上流層はそれとは異なる新たな慣習を発展させていったのではないかと考えられる。
 展示は嗅ぎたばこの起源からはじまり、ロココ時代のヨーロッパのファッションにまで及ぶ。嗅ぎたばこ入れといえば中国の鼻煙壺(びえんこ)が有名であり、本展でも全体の3分の2ほどを占めているが、それ以前の時代につくられたヨーロッパの美しい嗅ぎたばこ入れを見ることができる貴重な機会である。嗅ぎたばこの習慣がなかった日本でつくられた輸出向けの嗅ぎたばこ入れも珍しい。[新川徳彦]

2012/04/08(日)(SYNK)

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