artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

VITSŒ ディーター・ラムスがデザインした美しい棚

会期:2012/05/16~2012/06/11

デザインギャラリー1953[東京都]

ブラウン社のデザイナーとして活躍し、さまざまな家電製品のデザインを手掛けたディーター・ラムスのもうひとつの仕事が、VITSŒ(ヴィツゥ)社の家具デザインである。ヴィツゥはラムスがデザインした家具をつくるために、1959年にニールズ・ヴァイス・ヴィツゥとオットー・ツァップが設立した会社である(当時はVitsœ + Zapf)。1960年にラムスがデザインした606 Universal Shelving Systemは、アルミ製の支持具を壁に取り付け、そこに棚やキャビネットなどを自在に設置できる製品である。シンプルな構造で、組み上がった姿はとても美しい。基本的な構造は変わらないので、過去の製品にあたらしい棚を追加することもできる。同様のコンセプトによるユニット家具はこれまでにも多数つくられてきたが、現在まで50年以上にわたって共通の仕様でつくられ続けている点で606は特筆すべき存在であろう。また、ブラウンにおけるラムスのデザインはチームワークで行なわれていたが、ヴィツゥでの仕事はブラウンでの仕事以上にラムスの思想──Less, but better──が徹底しているとも言える。
 家電製品で利用される技術は変化が激しく、長期にわたって同じものを作り続けることは難しい。業界の変動も激しく、ブラウンは1980年代にはオーディオ製造を止め、1984年にジレットの子会社に、2005年にはP&G傘下になり、シェーバーを中心とした製品を製造する企業へと変わった。ヴィツゥが変わらない製品を作り続けることができるのはそれが家具だからとはいえ、その姿勢は使い捨てされないものづくりに対するひとつの答えである。[新川徳彦]

2012/06/02(土)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00004859.json s 10034615

WITHOUT THOUGHT Vol.12「手を洗う|WASHING HANDS」

会期:2012/05/24~2012/06/03

アクシスギャラリー シンポジア[東京都]

「WITHOUT THOUGHT」とは「思わず……」の意味。人々の無意識の行動をテーマとして、プロダクト・デザイナー深澤直人がディレクションするワークショップの作品展である。2000年から始まったワークショップの12回目のテーマは「手を洗う」。参加者はさまざまな企業で働く現役のデザイナーたちである。蛇口のハンドルの形をしたスチールソープ、せっけんのかたちをしたブラシやミラー、それらを文様化した手ぬぐいなど、手洗いに用いる道具をメタファーとしている作品もある。腕時計や指輪を外して脇に置く、ネクタイが濡れないように胸ポケットに押し込む等々、手や顔を洗うときに無意識のうちに行なっているしぐさを形や文様に落とし込んだデザインもある。かたち、色、柄、触感が人々に「手を洗う」ことを想起させ、その仕掛けに気づいたときに「思わず」微笑んでしまう。ものと人との自然な共生関係を示す優れた提案の数々であった。[新川徳彦]

2012/06/02(土)(SYNK)

野口久光 シネマグラフィックス展──黄金期のヨーロッパ映画ポスター展

会期:2012/04/28~2012/06/24

うらわ美術館[埼玉県]

1930年代から1950年代ごろまで、フランス映画を中心に数々の洋画のポスターを手掛けた野口久光(1909-1994)の作品展。1,000点におよぶ作品のなかから、約60点のポスター、その他の資料を展示する。展覧会を企画した根本隆一郎によれば、野口以前の洋画ポスターは「江戸時代からの広告媒体である『引札』や『役者絵』の流れを踏襲したようなものが多く、絵も描かれている人物の表情もタイトル文字も色調がどぎつく、ポスターの構図も作品の内容が異なっていても一定のお約束事のなかで処理され、パターン化されていた」という。ここにヨーロッパ調の色彩と表現、魅力的なレタリングで新風を吹き込んだのが、野口のポスターであった。
 会場にはフランスで制作されたオリジナルの映画ポスターも数点展示されていた。デザインとして表面的にはどちらが優れているとは言いがたいが、野口のポスターをこれらとを比較して感じるのは、作品に対する野口の深い理解と愛情である。野口は美校時代は映画研究部に所属し毎日のように映画館に通い、自主制作映画にも関わり、戦後しばらくは新東宝で映画のプロデュースも手掛けていた。また戦前から映画、ジャズ、ミュージカルの評論家でもあった。そんな野口にとって、作品の本質を見出す作業は日常だったのだろう。ストーリーのなかから名場面を抽出し、一枚のポスターに再構成する。モノクロの映像を色彩豊かな画面に置き換える。ポスターの制作には、だいたい2週間ほどの制作期間が与えられたというが、実際にはタイトルが決まらない、変更になるなど、1週間ほどで描かなくてはならかったとのこと。時間を節約するために活字を使わず、タイトルばかりか、監督や出演者名など細かい部分までをも描き文字で処理した。その勢いがまた野口のポスターに独特の雰囲気を生み出している。出品作は印刷されたポスターが中心で、『旅情』(1964)の一点のみが原画と合わせて展示されている。それを見ればわかるが、印刷されたポスターには一行のみ活字が追加されていることを除けば、人物も背景も描き文字も、すべてが一枚の紙の上で完結されている。優れた構成力である。ほかにも原画が残っているならば、ぜひとも見せて欲しかった。[新川徳彦]

2012/05/31(木)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00017137.json s 10034616

増田セバスチャンが見つけた「もうひとつの内藤ルネ」展──Roots of “カワイイ”

会期:2012/05/17~2012/06/04

PARCO MUSEUM[東京都]

現代日本の「カワイイ」カルチャーの第一人者とされる増田セバスチャンがセレクトする内藤ルネ(1932-2007)の世界。ここには『ジュニアそれいゆ』などの少女雑誌で活躍していたころの作品や、「ルネパンダ」などのファンシー・グッズはほとんどない。焦点を当てられているのは、「カワイイ」という表現の背後にある精神性である。作品に年代が記されていないが、おそらく1960年代半ばから2000年代はじめにかけてのものだろうか。4つのコンセプト──「アヴァンギャルド」「フェアリーテール」「ファッショナブル」「セクシャリティ」──で分けられた部屋に飾られた作品は、ただ目が大きく、お洒落で明るいキャラクターではない。ただ小さく、守りたくなるような愛らしさでもない。少女や少年の瞳はときに愁いをたたえ、ときに強い意志の存在を表わす。少女雑誌の付録やファンシー・グッズで人気を博したルネを陽とすれば、ここに選ばれたルネの作品は陰といえるかもしれない。増田セバスチャンのセレクションは、ルネが生み出した「カワイイ」には、このようなふたつの側面が存在していたことを指摘する。だから「もうひとつの内藤ルネ」なのだ。[新川徳彦]

2012/05/17(木)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_000175536.json s 10031876

越境する日本人──工芸家が夢みたアジア 1910s-1945

会期:2012/04/24~2012/07/16

東京国立近代美術館工芸館[東京都]

20世紀初頭、大正から昭和にかけて、多くの日本人工芸家たちがアジアの他の地域へと渡った。彼らがアジアに求めたものはさまざまであった。日本工芸の源流をかの地に求めた者もあれば、新しい可能性を求めて旅した者もあった。展覧会ではその関わりかたやまなざしを5つの章に分けて紹介している。第1は「『アジア』へのまなざし」。明治維新以降、アジアのなかでさきがけて近代化を成し遂げた「東洋の盟主」としての日本のアジアに対するアプローチを探る。第2は「1910-20年代の『新古典派』」。日本や中国の古典的な工芸品の研究を通じて生み出された意匠を紹介する。第3は「唐三彩、磁州窯、李朝──新しい美の規範」。ここでは1920年代から、従来珍重されてきた「唐物」とは異なる種類の器──李朝の白磁、染付など──が高く評価されるようになったことが指摘される。第4は「越境する陶芸家──朝鮮、満州にて」。朝鮮や満州に渡って現地で制作を行なったり、陶土などの原材料を持ち帰って制作を行なった陶芸家の事例が紹介される。第5は「もうひとつのモダニズム」。ここでは、満州などの植民地では西欧文化に抗う新しいデザインの試みが行なわれていたことを示す。
 アジアとの関わりがおもに工芸家やデザイナー、あるいは「工芸済々会」のような団体によって行なわれていたのに対して、朝鮮に拠点をおき高麗磁器の復活を試みた実業家・富田儀作(1858-1930)の事例が興味深い★1。富田は1899(明治32)年に朝鮮に渡ったあと、鉱山経営、農業や養蚕、牧畜業に携わった。それらの事業の傍ら富田が力を注いだのが、高麗青磁(三和高麗焼)、籠細工(三和編)、伝統玩具、螺鈿細工など朝鮮の伝統工芸の復興であった。さらには1921(大正10)年には朝鮮美術工芸館を設立し、蒐集した美術工芸品を無料で公開している。これらにより富田は莫大な損失を被ったようであるが、もとより彼の意図は利益をあげることよりも「朝鮮特有の産物を発達せしめ、その品物を欧米諸国に輸出して、以て東洋における朝鮮なるものの存在を知らしめたい、といふ深遠なる希望と計画」にあった★2。高麗青磁の復興にあたっては、熊本から濱田義徳(1882-1920)・美勝(1895-1975)兄弟を招いて製作にあたらせ、高い品質の磁器を生み出したという[図1、図2]
 日本とアジアのあいだには歴史認識をめぐる複雑な問題があり議論には繊細な注意が必要となろうが、同時代の日本人工芸家たちのアジアへの多様なまなざしと、作品への影響を冷静な視点で明らかにしようという今回の試みには大きな意義があると思う。[新川徳彦]
★1──岡本隆志「三和高麗焼について」(『三の丸尚蔵館年報・紀要』第15号、2008年度)。
★2──中島司『富田儀作伝』(富田精一、1936、285頁)。


左=三和高麗焼《青磁象嵌菓子鉢》c.1911-1945
右=三和高麗焼《青磁象嵌花瓶》c.1911-1945

2012/05/15(火)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00017207.json s 10034619