artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
『タンタンの冒険──ユニコーン号の秘密』
会期:2011/12/01
TOHOシネマズ梅田ほか[大阪府]
「Tintinologist」という言葉があるという。「タンタン論者」くらいの意味で、この造語を掲載している辞典もあるそうだ。本映画の原作である、コミック『タンタンの冒険旅行』の話だ。そのタンタン論者たちは単なるタンタンオタクなどではなく、作品に込められた歴史や思想を徹底的に分析し研究するのだという。作品のスケールと、その深さが垣間見られるところだ。このコミックシリーズは、ベルギーの漫画家エルジェ(Hergé、1907-1983)が、少年記者タンタンと愛犬スノーウィが世界を飛び回り、繰り広げる冒険を描いたもの。1929年に子ども向けの新聞に初掲載された、子どもを読者に想定した作品だが、次第に人気が出て一般紙や雑誌の連載がはじまり、単行本が刊行された。現在は世界80カ国で翻訳、出版され、2億部以上売れている。このコミックの一番の魅力はなんといってもキャラクター。まだ海外旅行が容易ではなかった時代、世界中のさまざまな国を訪れて冒険をするという基本コンセプトも十分魅力的だったはずだが、手軽に海外旅行ができるようになった今日においても変わらず愛される理由を挙げるとしたら、やはりキャラクターの力、キャラクターがもつ魅力にほかならない。このコミックを、スティーブン・スピルバーグ監督が映画化したのが、現在公開中の『タンタンの冒険──ユニコーン号の秘密』だ。スピルバーグは、1983年にエルジェが他界すると、すぐにこのコミックの著作権を購入、映画化を試みるが、技術的な限界を感じていったん断念、著作権を手放した。スピルバーグが再び動き出したのは精緻なパフォーマンス・キャプチャーを目にしてからのことで、2002年に版権を買い戻し、映画制作に着手する。パフォーマンス・キャプチャーとは、俳優の演技をコンピューターに取り組む技術のこと。なぜスピルバーグは実写でもCGでもない、また精緻なパフォーマンス・キャプチャーにこだわったのか。それはキャラクターのイメージを壊さず再現したかったからだと監督自身が明かしている。ストーリーも原作から大きく外れておらず、ある意味スピルバーグの映画であって、スピルバーグの映画ではないかもしれない。ただ躍動感あふれる画面からは目が離せない。さすがスピルバーグだ。また時代感を感じさせる巧みな編集と、ソウル・バス★1風のタイトルロールはオシャレすぎて、思わず微笑んでしまった。
[金相美]
2011/12/01(木)(SYNK)
ウィーン工房1903-1932──モダニズムの装飾的精神
会期:2011/10/08~2011/12/20
パナソニック電工 汐留ミュージアム[東京都]
ウィーン工房は、「総合芸術」を掲げ、建築家のヨーゼフ・ホフマン、デザイナーのコロマン・モーザー、そして実業家のフリッツ・ヴェルンドルファーによって設立された企業である。デザイン運動の文脈では、アーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴して職人技術の復権を目指し、デザイン、生産から流通まで、すべての過程にデザイナーとクラフツマンの双方が関わる工芸家集団の誕生、ということになろうか。思想的な側面では、ものづくりに対する姿勢・思想や、アドルフ・ロースによってなされた批判との関連で論じられよう。しかし、今回の展覧会はそのような文脈とはまた異なる視点からウィーン工房を取り上げている。すなわち、工房の経営体制と彼らのものづくりとの関係、その変化が主題である。
展覧会は、経営体制の変化がデザインに及ぼした影響を明らかにする。大きな変化はふたつ。ひとつはモーザーの脱退(1907年)。これは工房経営の資金繰りに窮したヴェルンドルファーが、資産家の出身であったモーザーの妻に多額の貸付を依頼したことにモーザーが憤慨したためであるという。その結果、工房の特徴であった幾何学的な文様が失われ、花などの装飾的要素が増えていったとされる。もうひとつは1914年。ヴェルンドルファーが経営から離れ、新たな出資者を得て工房は有限会社へと移行。工場生産品を重視し利潤を追求する企業へと変化するなかで、女性向けの服飾製品、装飾品作りへと進出する。その後、経営を軌道に乗せるためにさまざまな努力がなされたものの、1929年の世界恐慌を経て1932年に閉鎖を余儀なくされるのである。工房のつくりだすものが時代によって変遷した理由は、直接的にはデザイナーや職人の異動によるものかもしれないが、デザイナーや職人が代わった原因は経営体制の問題であったことが示される。
図録に寄せられたエルンスト・プロイルの論考「ウィーン工房の経営史──波乱の末のアンハッピーエンド」は工房の財政状況を詳しく描いている。ウィーン工房は30年ほどにわたって経営を続けた。これは短い期間ではない。しかし、質の高い職人によるものづくりに対して、長期にわたり経営を成り立たせるほどの需要があったかというと、けっしてそうではない。それどころか、最初からビジネスになるような十分な需要は存在しなかったし、彼らが市場や顧客を十分に理解していたとは言えないことを指摘しているのである。ものづくりの理想は何故に破綻してしまったのか。ウィーン工房の失敗に学ぶことは多い。[新川徳彦]
2011/11/23(水)(SYNK)
尹熙倉:龍野アートプロジェクト2011「刻の記憶 Arts and Memories」
会期:2011/011/18~2011/11/26
聚遠亭(藩主の上屋敷)[兵庫県]
古い醤油蔵と龍野城、聚遠亭(藩主の上屋敷)の三カ所で現代美術のインスタレーションが行なわれた「龍野アートプロジェクト2011『刻の記憶』」。場所が持っていた古い記憶を呼び覚ますように、生ける現代としてのアートが静かな煌めきを放つ展示は、連日数百人を超えた観客の心を魅了した。本レビューではデザインの視点から、聚遠亭の茶室における尹熙倉(ユン・ヒチャン)のインスタレーションを採り上げたい。
尹は、陶や土を焼いて出来る「陶粉」を顔料のように用いて、絵画や立体を手がける。彼はまた、「四角」のかたちにこだわり、今回も数寄屋風の茶室のそこかしこに大小の白い、四角いオブジェが置かれた。陶で出来た原初的な幾何学形のオブジェは無機的なものに違いないのだが、これらの四角いオブジェはまるで生き物としてそこに「居る」かにみえる。遥か昔からこの茶室に住み着き、そこに静かに座し続けているかのようだ。
この感覚は、ひとつには、陶という素材がもたらすものではあろう。陶芸家が茶碗を一個の生ける者のように愛でることはそれを明示する。だが、尹のオブジェが茶室にあって発する有機性の所以はおそらくそれだけではないだろう。茶室の「数寄」の造作もまた、このオブジェたちを息づかせる要因である気がする。
尹が「四角」にこだわるのは、それが自然界に存在しないかたち、つまり、人工物だからだという。数寄屋書院造りもまた、「四角」をモジュールとする建築デザインであり、内部の意匠も土壁や朽ちた床板等を意図的に組み合わせたものである。実のところ、聚遠亭の茶室の意匠は、尹のオブジェの存在によって、オブジェがないときよりもいっそう輝きを増したかにみえた。つまり、オブジェの「四角」の人工美は、数寄屋の幾何学の人工美を引き出す触媒として作用しているのである。
他方、白い、四角いオブジェたちは、数寄屋の空間においては明らかに異質な存在である。この異質さは、茶室に突然入ってきた人があたりに生じさせる異質さを想わせる。すなわち、もし尹のオブジェが息づいてみえるのだとしたら、それは、われわれがこのオブジェに、人間という異質なものの存在を重ね合わせるゆえのことではないか。このように考えると、インテリアというのは、それだけでは完結せず、人間や物のような異質なものの介入や存在があって初めて本領を発揮するのだという原点に気づかされる。尹のインスタレーションは、それを造形的にも象徴的にも示唆する洗練に満ちていた。[橋本啓子]
2011/11/20(日)(SYNK)
冬のぬくもり、エコ暖房──湯たんぽ
会期:2011/010/30~2011/12/18
大田区立郷土博物館2階展示室[東京都]
夏に引き続いて、この冬も節電が求められている。夏場であれば、冷房を使わない、温度を高めに設定するなど、節電の手段もわかりやすかったが、冬場はどうであろうか。巷間では秋に入ってから、旧式の灯油ストーブが良く売れているという。天面にはヤカンや鍋を置くこともできて、暖房と同時に調理に必要なエネルギーも節約できる。そして大幅に売れ行きが伸びているもうひとつの商品が湯たんぽなのだそうだ。国内における2010年の湯たんぽ生産量は94万個。ところが今年は東日本大震災以後、4月から6月までのあいだにすでに70万個が生産されており、昨年の倍以上の湯たんぽを生産しているメーカーもあるという(『朝日新聞』2011年8月19日朝刊)。
というわけで、本展はたいへんタイムリーな企画である。展示品には日本の湯たんぽばかりではなく、中国、欧米のものもある。金属製のものもあれば、陶製、プラスチック製、ゴム製まである。私は陶製の湯たんぽに戦時中の金属代用品とのイメージを抱いていたが、歴史的には陶製の普及が先行し、従来より砲弾型、かまぼこ型の製品がつくられていたという。陶製湯たんぽは現在でも岐阜県・多治見でつくられており、2007年頃から原油高の影響もあって需要が伸び、また遠赤外線効果があることもあって、近年再評価されているのだそうだ。湯たんぽといえば、金属製、楕円形で波型のものが代表的な形であろう。今回の企画に湯たんぽの歴史に関する考察とコレクションとを提供している濱中進氏によれば、そもそもこの型の起源は大阪の浅井寛一氏が考案した「浅井式湯婆」(大正3年実用新案出願、大正4年登録)なのだという。トタンという薄い鋼板を用いつつ強度を保つために波型が付けられたのである。それ以前の金属製湯たんぽは、陶製と同様のかまぼこ型が主流であったものが、金属製波型の製品が普及してからは、今度は陶製湯たんぽが、構造上の問題がないにもかかわらず金属製湯たんぽの形状を模倣することになる。デザインの変遷におけるこのプロセスはとても興味深い。
ゴム製の湯たんぽについて、濱中氏はアメリカの通販会社モンゴメリー・ウォード社やシアーズ・ローバック社のカタログまで調査しており、1895(明治28)年のカタログにはすでに掲載されていることを突き止めている。ゴム製湯たんぽは水枕と似ているが、氷を入れる必要がないので水枕よりも口が狭く、口栓がネジ式という違いがある。ちなみに湯たんぽを英語では「hot water bottle」という。調べてみると、日本の新聞でも1927年にはダンロップ製湯たんぽの広告を見ることができる(『読売新聞』1927年10月7日)。ただし、翌1928年の同紙記事「湯たんぽ──値段特質調べ」(同、1928年11月15日)には、金属製と陶器製のみが取り上げられていることからすると、ゴム製は一般的ではなかったのかも知れない。
展示にも図録にも、ほとんどの場合年代が示されていないのが残念であるが、おそらく特定が困難なものが多いのであろう。それでも、フルカラー120ページの図録は湯たんぽ研究本として本邦唯一無二のもの。湯たんぽ愛好家ならばぜひとも入手されたい。[新川徳彦]
2011/11/20(日)(SYNK)
チャールズ・ホーム『チャールズ・ホームの日本旅行記──日本美術愛好家の見た明治』
チャールズ・ホームは、一般的な知名度は高いとはいえないけれども、19世紀後期の英国および西欧におけるジャポニスムに寄与し、日本の美術・工芸を広く知らしめた立役者である。彼は、19世紀末に大きな影響力をもった美術雑誌『ステューディオ』の創刊者であっただけでなく、日本美術・工芸品の輸入業を営んだ経歴をもち、ロンドンの日本協会の創設メンバーでもあった。さらに、一時は、ウィリアム・モリスの旧居《レッド・ハウス》に住んでいた人物でもある。本書は、ホームが1889年に、アーサー・L・リバティ(リバティ百貨店の創設者)と妻エマ、画家アルフレッド・イーストと共に、日本を訪れた際の日記である。リバティ夫人の撮影した記録写真に加え、リバティによる解説文も収録されている。本書では、ホームの観察眼が如何なく発揮された闊達な文章のみならず、彼の人的交流の多彩さが魅力となっている。登場するのは、建築家ジョサイア・コンドル、東京美術学校の創設者アーネスト・フェノロサ、商人トーマス・グラヴァー、著述家としても活躍したフランク・ブリンクリー大佐、日本側では佐野常民、大隈重信ら政府高官、美術商の林忠正、等々。明治日本の近代化に影響力をもち、尽力した主要人物たちと交遊している。ホームの諸活動は、同時代に来日した日本研究家たち──例えばクリストファー・ドレッサー、エドワード・モース、ウィリアム・アンダーソン、フェノロサなど──の著述・旅・日本品コレクションの様相と並行して考え合わせれば興味深い。ホーム資料の今後ますますの調査解明が期待される。[竹内有子]
2011/11/19(日)(SYNK)