artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

有田焼創業400年記念 明治有田超絶の美 万国博覧会の時代

会期:2015/09/05~2015/10/04

そごう美術館[神奈川県]

17世紀初頭に有田で磁器が焼かれはじめて400年。2016年にかけて佐賀県・有田町を中心にさまざまな事業が予定されている。本展もそのひとつで、明治期の有田焼と万国博覧会、そして輸出向工芸品の図案集としてつくられた『温知図録』との関係にスポットをあてた企画である。展覧会図録の帯には「明治のクール・ジャパン」の文字が躍っていることから、これも明治の美術工芸品再評価の流れにある展覧会といえよう。日本政府が初めて参加した1873(明治6)年のウィーン万博に、有田焼は多数が出品されている。その後も政府の殖産興業政策のもとにフィラデルフィア万博(1876[明治9]年)、第3回パリ万博(1878[明治11]年)にも出品し海外で高い評価を受けた。こうした流れのなかで有田に設立されたのが香蘭社(1875[明治8]年設立)で、その後、精磁会社(1879[明治12]年、香蘭社から分離)、深川製磁(1894[明治27]年設立)といった企業が設立されて、明治期の輸出陶磁をリードしていった。本展ではこうした企業と製品、図案によって、明治期有田焼の盛衰を辿っている。同時期の有田焼デザインの特徴は展覧会タイトルにもあるように「超絶の美」。他の明治工芸にも共通することだが、非常に細かい──超絶的な──絵付けが施された製品が生み出され、海外に輸出されていった。展覧会会場に並んだ製品の数々からは、同時代の高い技術水準がうかがわれる。
 さて、近年明治期の美術工芸品の再評価が進んでいる背景には、これら海外輸出向けにつくられた製品を海外で蒐集し、里帰りさせてきたコレクターたちの努力の結果でもある。国内に残されたものが少なく、これまで評価の俎上に載りにくかった製品が里帰りによって人々の目に触れる機会が増え、その特異な意匠と「超絶的な技巧」に注目が集まっている。ただし、国内向け陶磁器の意匠の変化はずっと緩やかであったことは留意しておきたい。「明治維新に伴う西洋化が国民の生活様式を庶民レベルまで一気に変えることはなく、国内向けの食器類は幕末からの様式をそのまま引き継いでいる」。そして「明治の精磁会社によって製作された一連の優れた洋食器は、皇族や新政府要人たちのために作られた特異な需要であり、一般社会に洋食器が定着した訳ではない」のである★1。歴史の分野では江戸から明治にかけては断絶よりも連続性が強調されている昨今、それでも明治の美術工芸がこの時代に特異な存在であるのは国内向けから海外向けへという市場の急激な変化への生産者の対応の結果であること、そしてその隆盛が海外需要の変化へ対応の失敗により明治後期には衰退に至ったことは、このような展覧会ではもっと強調されてもよいように思う。[新川徳彦]

★1──鈴田由紀夫「明治有田の変遷──銘款を中心として」(『明治有田 超絶の美──万国博覧会の時代(論考集)』西日本新聞社、2015、8頁)。

2015/10/03(土)(SYNK)

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アート オブ ブルガリ──130年にわたるイタリアの美の至宝

会期:2015/09/08~2015/11/29

東京国立博物館[東京都]

2014年に創業130周年を迎えたイタリアのハイジュエリーブランド、ブルガリ。そのアーカイヴと個人コレクションから、約250点のジュエリー、時計を紹介する展覧会だ。ブルガリというブランドは、ギリシャで代々銀細工師の家に生まれたソティリオ・ジョルジス・ブルガリが1884年にイタリア・ローマに移り、システィーナ通りに開いた店を起源とする。展示は創業者ファミリーが手がけた銀製の装飾品から始まり、1920年代のアールデコ、そして現代に至るまで、メルクマールとなったデザインが編年的に取り上げられている。展示を見るとブランドを確立するのは1950年代からだろうか。それまでのパリと同様のスタイルのジュエリーから離れ、さまざまなカラーの石を使った独自のスタイルを確立してゆく。また同時期はイタリア映画全盛期で、チネチッタ撮影所に集まった女優たちにブルガリのジュエリーは愛されたという。女優たちのなかでも本展で大きく取り上げられているのはエリザベス・テイラー。チネチッタで撮影された映画「クレオパトラ」の衣装、彼女が身につけたジュエリーなどが展示されている。
 会場はこれまでにもたびたびハイブランドの展覧会会場に用いられてきた東京国立博物館表慶館。明治末期を代表する洋風建築と歴史あるブランドの展示はよく似合う。中央ドーム天井には色とりどりのジュエリーをモチーフにした万華鏡のような映像のプロジェクションマッピング。両翼階段室の壁面にはローマの街と代表的なジュエリーの映像が映し出されている。2階中央の回廊にはブルガリの腕時計「ブルガリ・ブルガリ」とその原型となった「ブルガリ・ローマ」の展示があり、吹き抜けから円形のエントランスホールを見下ろすと、そこが古代ローマのコインをモチーフにした「ブルガリ・ブルガリ」のフレームを模して装飾されていることがわかる。ということは、両翼に拡がる展示室は腕時計のベルトに見立てられているということになろうか。[新川徳彦]

2015/09/30(水)(SYNK)

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プレビュー:マリク書店の光芒──ハートフィールド、ヘルツフェルデ兄弟とグロッス

会期:2015/10/01~2015/11/30

武蔵野美術大学 図書館展示室、大階段[東京都]

マリク書店は、1916年にドイツのベルリンで創設された左翼系の出版社で、第一次世界大戦前後からナチス第三帝国の時代を生きのび、戦後1947年に幕を下ろすまでの約30年間に320点余の書物と作品集を刊行している。それらの仕事には、20世紀前半におけるダダ運動やロシア構成主義などの影響、タイポグラフィやグラフィックデザインにおける表現の変革を見ることができるという。この展覧会ではマリク書店の活動を出版物と関連資料110点余で紹介する。戦間期ドイツの先鋭的なブックデザインを見る、またとない機会だ。[新川徳彦]

2015/09/29(火)(SYNK)

蘭字と印刷──60年ぶりに現れた最後の輸出茶ラベル

会期:2015/09/12~2015/11/01

フェルケール博物館[静岡県]

「蘭字」とは日本から海外に茶を輸出するときにパッケージや箱に貼られた多色木版画によるラベル。「蘭字」という名称は即ちオランダ語を意味するが、実際の茶の輸出先は北米が大部分で、書かれている文字はほとんどが英語である。茶箱のサイズに応じて蘭字の大きさにはバラエティがあるが、だいたい縦40センチ、横30~35センチ程度のサイズが中心だったようだ。当初日本から海外向けの茶の輸出は横浜港から行なわれ、「蘭字」と蘭字に先行する「茶箱絵」とよばれた錦絵は横浜で刷られていたが、明治39(1906)年に清水港からの茶輸出が行なわれるようになると、蘭字の制作も静岡で行なわれるようになった。輸出品の商標としては生糸のラベルがよく知られているが、井手暢子・元常葉大学教授の研究により近年この美しい茶ラベルにも注目が集まっている。
 江戸時代末期から横浜の外国商館が輸出した初期の茶箱には商館名や商標が記されていない「茶箱絵」とよばれる錦絵が貼られているものがあり、これには浮世絵の絵師や彫師、摺師が関わっていたことがわかっている。二代目広重(1826-1869)がこれを手がけていたことは、彼が茶箱広重とも呼ばれていたように、よく知られている。摺りはかなり粗雑。輪郭の描線がはっきりととられているのは、見当がずれても目立たないようにということだろうか。こうした茶箱絵は、製品名や茶の種類、商館名と図案を組み合わせた色鮮やかな「蘭字」に取って代わられる。蘭字に用いられた図案は必ずしも日本的ではなく、王冠や外国人の肖像、中国風、西洋風に描かれた花なども用いられており、果たして輸出先の国々が日本茶にどのようなイメージを抱いていたのか考えるとそのモチーフの選択はとても興味深い。また本展に先立ち、これまで戦前期で途絶えていたと思われていた蘭字が戦後もオフセット印刷によってつくられていたことがわかり、それら新資料がフェルケール博物館に寄贈され、本展で紹介されている。戦後の蘭字にはフランス語やアラビア語がデザインされているものが多く、中東や北アフリカの旧フランス植民地向けのラベルだと考えられる。展示室の最後は缶詰ラベル。なぜ缶詰ラベルなのか。「蘭字と印刷」という本展のテーマでいうならば、江戸期から明治期へと蘭字の制作を通じて印刷技術が連続していたこと。静岡の印刷業が錦絵の伝統を継いだ蘭字の制作から始まり、石版印刷、オフセット印刷へと展開していったこと。そしてラベル印刷への需要が輸出茶商標から削り節の箱、水産物缶詰のラベルへと転換していったことと関連している。また、こうした印刷物の登場と展開が、輸出港としての清水、漁業基地、水産物加工基地としての清水港の歴史と密接に結びついてきたことを見れば、本展がフェルケール博物館(清水港湾博物館)で開催されることの理由がよくわかろう。[新川徳彦]


展示風景

関連レビュー

明治の海外輸出と港:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2015/09/26(土)(SYNK)

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戦後70年──昭和の戦争と八王子

会期:2015/07/22~2015/09/30

八王子市郷土資料館[東京都]

第二次世界大戦終結から70年になる今年、各所で戦争と暮らしをテーマにした展覧会が開催されているが、そのなかでも本展は充実した企画のひとつではないだろうか。郷土資料館の展示らしく、主題は地域の暮らしと戦争との関わり。それだけなら各地の郷土博物館でよく見られる企画であるが、本展で扱われている時代は戦時中だけではなく、昭和初めの満州事変から戦後復興期まで約30年の長期にわたり、また出品資料は役所や公的な組織が制作・配布したチラシ、ポスター、町内会の通達、さまざまな代用品や戦時の衣服・軍服、学校生活や疎開、浅川地下壕につくられた中島飛行機の工場、八王子空襲等々と多岐にわたると同時に数も膨大で、地域の歴史と戦争との関係を資料を通じて丹念に追う構成になっている。
 多彩な資料のなかでとくに眼を惹くのはチラシやポスターなどの文書類。昭和12年に始まった国民精神総動員運動では国民に対して戦時体制への協力が呼びかけられるようになった。ただ、事態はすぐに逼迫したわけではない。昭和13年頃に八王子生肉商組合が制作した国民精神総動員運動ポスターには「肉食普及/健康報国」の文言が掲げられており、同時期に東京鉄道局が制作したパンフレットは「春光を浴びて野外へ」というコピーで人々をハイキングへと誘い、まだ人々の生活には余裕が感じられるものが多い。しかし昭和16年に太平洋戦争が始まると状況は大きく変わり、戦争遂行のための貯蓄の推奨や国債の購入、資源節約、金属などの資源回収を求める文書が多数現われる。綿の供出(火薬の原料)、かぼちゃの種の回収(食料)、茶ガラの回収(軍馬の飼料)、犬の献納(犬の特別攻撃隊をつくると書かれている)、子どもたちにはドングリの採集(タンニンやアルコールの原料、飼料や食料として)を呼びかけるチラシなどは、資源を持たない国が無謀な総力戦に突入していく様が伝わる資料だ。空襲への備えや毒ガス攻撃を想定した防毒マスクや対処法を記した冊子類も興味深い。焼夷弾攻撃への対処も想定されていたが、昭和20年8月2日の八王子空襲では市民1人あたり10個の焼夷弾が落とされたといわれ、現実には何の役にも立たなかったという。
 もうひとつ興味深い資料は、昭和12年8月に日中戦争の派遣部隊に招集されたひとりの青年教員の記録である。家族で写した写真、青年が親に宛てたはがき、学校の教え子たちからの手紙、青年の戦死を報じる新聞の切り抜きや死亡通告書、軍隊手帖やトランクなどの遺品類。所属していた部隊を主題に制作された歌舞伎舞台のパンフレットや学芸会の台本まで、青年の父親が集め大切に保管してきた資料は戦争の現実を淡々と、しかしリアルなものとして私たちに伝えてくれる。歴史を知ること、歴史に学ぶことの大切さを印象づけられる展示だ。[新川徳彦]

2015/09/21(月)(SYNK)