artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ポンペイ
会期:2022/01/14~2022/04/03
東京国立博物館[東京都]
「古代の夢」とか「人類の至宝」とか、あるいは「世界遺産登録25周年」とか「創立150年記念」とか、そんな余計な情報をいっさい省いた特別展「ポンペイ」。このシンプルきわまりないタイトルに、「これぞ決定版」という並々ならぬ自信がみなぎっている(内容に自信のない展覧会ほどタイトルを長くしたり、キャッチーなサブタイトルをつけたがるものだ)。そしてうれしいことに、その自信が空振りすることなく、内容もきわめて充実していた。だいたいこれだけ見応えのある作品を持ってこられるのは、所蔵する美術館が改修工事などで休館中の場合が多いのだが、今回はそんなことどこにも書いていない。考えられるのは、先方のナポリ国立考古学博物館が慢性的な財政難に加え、コロナ禍で観光客が激減したため、いっそしばらく休館して所蔵品に出稼ぎに行ってもらおうってな魂胆ではないか。邪推はさておき。
最初の部屋に入ると、正面にヴェスヴィオ山の噴火と火山灰に埋没する街の様子がCG映像で流れている。実在した古代都市ポンペイのエピローグは、1700年の時を経て歴史に蘇る「ポンペイ」のプロローグであり、展覧会のプロローグでもある。こういう演出というかサービスは、昔はなかったなあ。子どものころ、火山灰に埋もれたポンペイから絵や人型が発掘されたと聞いて、どんな状況だったのか乏しい知識で想像するしかなかったが、いまは映像で街が火砕流に飲まれるシーンまで目の当たりにできるんだから、便利になったもんだ。
展示の前半は、ヴェスヴィオ山を描いた壁画や犠牲者のもぬけの殻から型取りした石膏像に始まり、ポンペイの街や社会、生活などを絵画や彫刻、生活道具などで紹介。後半は、「ファウヌスの家」や「悲劇詩人の家」などの一部を再現した住宅に、壁画や彫像をインストールした展示になっている。ポンペイが埋没したのは西暦79年だから、日本ではまだ弥生時代。この時代にすでに水道が整備され、そのブロンズ製のバルブが現代のものと大して変わらないことに驚くが、それ以上に目を奪われるのはやはりフレスコ画の数々だ。美術史の教科書でもしばしばお目にかかる《三美神》《書字板と尖筆を持つ女性》《パン屋の店先》など、火山灰に埋もれてひび割れや剥落はあるものの、よくこれだけ残ったものだと感心する。
しかしこれらのフレスコ画は、技法的によく描かれているとはいえ、古代のまま発掘された偶然性や史料性の高さゆえに価値を認められたのであって、必ずしも芸術性が高いわけではないだろう。おそらくこれらは家屋の装飾や店の看板として気軽に描かれたもので、数年か数十年おきに塗り替えられていたに違いない。いまでいえば銭湯のペンキ絵みたいなもんじゃないだろうか(ペンキ絵も現在では希少だが)。では芸術性を追求した絵画はなかったのかといえば、あったとしても、板や布や紙に描かれたものはすべて灰になってしまったはず。つまり、ここに展示されている絵は、タブローのように額縁みたいな枠にはめられて壁に掛けられているけれど、もともと建物に直接描かれた壁画であり、それを四角く切り取ったものであるということだ。だから古代ポンペイ人がこの展覧会を見たらきっと驚くだろう。あ、うちの落書きやガラクタが極東の島でうやうやしく崇められていると。
さて、そのフレスコ画にもましてきれいに残っているのがモザイク画だ。もちろんこれもフレスコ画と同じく「不動産美術」の一種。色のついた小石を並べてつくるので手間がかかるが、その分フレスコ画より色が落ちにくく堅牢で長持ちし、芸術的価値も高かったに違いない。ポンペイのモザイク画で有名なのは《アレクサンドロス大王のモザイク》だが、さすがにこの大作は来ておらず(映像で紹介)、同じ「ファウヌスの家」から発掘された《葉綱と悲劇の仮面》《ナイル川風景》など繊細なモザイクを公開している。
ところで、この「ファウヌスの家」や「悲劇詩人の家」は建物が部分的に再現され、そのなかにもともとあったようにモザイク画やフレスコ画などを配置している。そのため家のどこに、どんな状態で壁画が描かれていたかがわかる仕組みだ。こうした再現展示も最近では珍しくなくなった。また前半の展示でも、俳優の彫像の背景には古代劇場の画像を、兜や脛当ての背後には円形闘技場の写真を掲げている。こうしたディスプレイは展示品の背景を理解するための一助にはなるが、しかし冒頭の噴火のCG映像ともども、見る者のイメージを規定したり画一化しかねない危うさもはらんでいないだろうか。展示が親切になればなるほどわれわれの想像力が衰退していくのでは、元も子もないからね。
2022/01/13(木)(村田真)
須藤絢乃「VITA MACHINICALIS」
会期:2022/01/07~2022/01/30
MEM[東京都]
須藤絢乃は行方不明になった少女たちに扮した「幻影 Gespenster」(2013)の頃から、実在する人物というよりは、まさに幻影じみた存在に化身したセルフポートレートを発表するようになった。今回、MEMで展示された「VITA MACHINICALIS」は、2018年にキヤノンギャラリーSで開催された澤田知子との二人展「SELF/OTHERS」の延長上にある作品で、「生身の人間をアンドロイドのように」撮影している。発想の元になったのは、2018年頃に人の気配が消えた深夜の都心で感じた「不気味さ」だったようだが、現代と近未来、現実と仮想現実のあわいに立ちつくす「アンドロイド」の姿には、彼女なりの人間観が込められており、動かしがたいリアリティがあった。そっくりだが、微妙に異なる二人の人物のイメージが頻出するのだが、そこには幼い頃に見たダイアン・アーバスの写真集の表紙の双子の記憶が投影されているようだ。以前よりも、画面構成の強度が増してきており、写真作家としてのキャリアを順調に伸ばしてきていることがうかがえた。
なお、MEMの階下のNADiff Galleryでは、「Anima/Animus」展が同時期に開催されていた(同名の私家版写真集も刊行)。こちらは、2015年に亡くなった画家、金子國義の私邸が、2019年に取り壊されるまで、何度か通い詰め、金子の絵の中に登場するモデルたちに扮して撮影したシリーズである。このシリーズからも、作風の幅の広がりと、表現者としての自信の深まりが感じられた。
2022/01/13(木)(飯沢耕太郎)
片山真理「leave-taking」
会期:2021/12/04~2022/02/19
Akio Nagasawa Gallery Ginza[東京都]
片山真理は2015年から2017年にかけて、「shadow puppet」「bystander」「on the way home」の「三部作」を制作した。この時期は、東京から群馬県太田へと制作の拠点を移し、アトリエを持ち、第一子を出産するという大きな転換期と重なり、内外での展覧会や出版も含めて、心身ともにフルに回転していた。それから5年余りが過ぎた今回のAkio Nagasawa Gallery での展示では、新たな第一歩を踏み出す意欲にあふれる新作「leave-taking」を見ることができた。
新作の舞台になっているのは、まさに彼女の創作活動の源泉となっているアトリエの空間である。そこには自作の手縫いのオブジェ、ペインティング、コラージュ作品などが雑然と置かれており、片山はその部屋に「マネキンのように自分を配置」してシャッターを切る。本シリーズでは、あえて長時間露光を用いることで、片山の身体はブレて消えかかり、むしろその周囲のオブジェ群が、ほのかな微光を発して存在感を増してきているように見える。何物かを生み育てる子宮のようなその空間に包み込まれていることの安らぎが、作品を見るわれわれにもしっかりと伝わってきた。
だが、この居心地のいい場所から、外に出ていかなければならない時期も来るだろう。片山の作品世界は、いまや日本だけでなく、欧米やアジア諸国でも注目を集めつつある。今回の展示は、いわば次作への助走に当たるもののように見える。次の作品は、ひとまわりスケール感を増したものになるのではないかという期待が膨らんだ。なお、展覧会に合わせて、「三部作」をまとめなおした写真集『Mother River Homing』が、Akio Nagasawa Publishingから刊行されている。
2022/01/12(水)(飯沢耕太郎)
フィリア―今道子
会期:2021/11/23~2022/01/30
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館[東京都]
ベッドの上にたくさんのキャベツを敷きつめたり、コハダの切り身を重ねてブラジャーをつくったり、タコと点滴装置と人形の首を組み合わせたり……。今道子の写真を一言で表わせば「グロテスク」に尽きる。グロテスクの語源がグロッタ(洞窟)で、それが地中から発掘された動物や植物の入り混じった古代ローマの奇怪な装飾に由来するならば、つまり異質なもの同士の風変わりな組み合わせを意味するならば、今の写真はまさにグロテスクというしかない。それはまた、「解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の不意の出会いのように美しい」と歌ったロートレアモンの詩に代表されるような、シュルレアリスムの美学でもあるだろう。その趣味嗜好は、モデルとして登場する数少ない人物が澁澤龍彦(遺影として)、種村季弘、四谷シモンらであることからも明らかだ。
ぼくが今の写真を初めて見たのは、1979年に横浜のギャラリー芝で開かれたグループ展「写真としての芸術、芸術としての写真」においてだった(展覧会歴を見ると、これが最初の発表らしい)。その直前に『ぴあ』の取材で出品作家たちに会い、話を聞いて記事にしたのでよく覚えている。でも4人の出品作家のなかで、顔も名前も作品も覚えているのは最年少の今だけで、ほかにだれがいたのか、どんな作品があったのかまったく記憶にない。それほど今の写真が際立っていた。ちなみに、今回の出品作品のなかでそのとき出ていたのは、冒頭のベッドの上にキャベツを並べた《キャベツ+寝台(1)》(1979)や、ストッキングに野菜を詰めてベッドに横たえた《野菜+ストッキング》(1979)だったと思う。
ついでにいうと、グループ展のタイトルにも使われた「芸術としての写真」というフレーズがにわかに注目を集めるのは、それから10年後の1989年、写真発明から150年目のことだった。この年、プロの写真家ではなく、アーティストによる写真を使った作品、つまり「芸術としての写真」を集めた企画展が何本も開かれ、今もいくつかに出品している。それまでも「芸術としての写真」がないわけではなかったが、大半は概念的なコンセプチュアル・フォトで、今のような物語性のある写真が続々と現われるのはこのころからだ。そういう意味で今は早かった。
しかしそれより今のすごいところは、作風こそ少しずつ変化しているものの、野菜や生魚や日用品を組み合わせて写真に撮るという基本コンセプトが、40年以上ほとんど変っていないことだ。だから展覧会場を見渡すと、モチーフが一貫しているのはもちろん、一部を除いて大半が黒い背景のモノクロームプリントだし、額縁もほとんど黒に統一されている。そのため写真が遺影のように見えるが、魚や野菜の「死体」を被写体にしているので、あながちそれも間違いではないだろう。展覧会全体としては単調ともいえるが、それ以上に一貫したテイストを持続させていることに舌を巻くのだ。
2022/01/09(日)(村田真)
池内晶子 あるいは、地のちからをあつめて
会期:2021/12/18~2022/02/27
府中市美術館[東京都]
最近、コロナ禍で企画展を組みにくくなっていることもあって、空っぽの展示室をそのまま見せる美術館が出てきた。展示作品より建築自体に目を向けてもらおうとの意図もあるようだ。池内晶子の美術館初の個展は、もちろん建築を見せるのが主眼ではないものの、結果的に展示室をつぶさに見せられるばかりか、ふだんは気にもしていない美術館の立地条件さえ暴いていた。
池内は絹糸を素材にしたインスタレーションで知られるアーティスト。その作品はきわめて繊細ではかなく、目に見えないほどか細いものもある。今回のインスタレーションは、企画展示室の1~3とエントランスロビーに設えた計6点の「Knotted Thread」シリーズ。だが、なんとそのうち2点は「見えなかった」。まず、企画展示室1のインスタレーションは、円筒状の赤い絹糸が壁の四方から吊るされ、その下に、中心から遠ざかるにつれてまばらになるように同心円状に糸が置かれている。絹糸はきわめて細く、1本ではほとんど見えないが、円形に蓄積されることで床がうっすらと赤く染まる程度には存在感を主張する。使った糸は全長2万2千メートルに及ぶという。
企画展示室2は照明が落とされ、遠くからはなにも見えない。近づくと、スポットライトのなか、床すれすれまで1本の糸が垂れているのがわかる。その糸は壁の2方から伸びてきた糸でY字型に支えられている。それだけ。おそらくこの美術館で展示された作品のなかでもっともか細く、軽量な作品に違いない。
企画展示室3には立ち入り禁止の仕切りが置かれているだけで、最初はなにも見当たらない。仕切りに沿って移動していくと、光の加減でわずかに赤い糸が見えてくる。両側の壁から弧を描くように無数の糸が横断しているのだ。「鑑賞ガイド」を見ると、この展示室にはガラスケースのなかにもう2点あるらしい。よくよく探したら手前の作品は見つかったけど、奥にあるはずの作品は見つからなかった。ぼくの目が悪いせいか、それともだれにも見えないのか。ひょっとしたら展示してなかったりして。エントランスロビーの吹き抜け空間にも1本の糸が張られているというが、2階から、階段を降りながら、下からそれぞれ目を凝らしたが、とうとう見つからなかった。
そんなわけで、作品を鑑賞するより、つい作品を発見することに一生懸命になってしまうが、同展には糸が隠れているだけでなく、また別の意図も隠れている。「鑑賞ガイド」を見るとわかるが、壁から伸びる糸はすべて壁面に対して斜めの角度になっている。これは糸を東西または南北の方向に張り渡しているからで、逆にいうと、この美術館建築が東西または南北の方角を向いていないということを示している。これまで意識したこともなかったが、図らずも府中市美術館がどういう方角に建てられているかを明らかにしたわけだ。ではなぜ東西南北かといえば、それがもっともわかりやすい基準だからだろう。彼女はどの美術館、どのギャラリーで展示するときも、建物の方角に関係なく糸は東西南北に渡される。それが彼女のか細い作品を支える骨格になる。そしてこの原則を設けることによって、作品はすべて統一されたフォーマットのなかに位置づけられるのだ。
2022/01/09(日)(村田真)