artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

アントワン・ダガタ「VIRUS」

会期:2022/02/03~2022/03/06

MEM[東京都]

フランスの写真家、アントワン・ダガタは、これまでも生と死の境界領域の事象をテーマとして作品を制作・発表してきた。その彼にとって、2020年から世界中を覆い尽くしたコロナ禍の状況は、避けて通れないものだったのではないだろうか。2020年3月にフランス全土のロックダウンが始まった、その時期から制作が開始された本作「VIRUS」は、まさに強い必然性を感じさせる作品として成立していた。

ダガタは、被写体の温度を感知して色彩のスペクトラムとして表示するサーモグラフィを写真画像として提示することを試みる。人気のない都市の街路と建物(路上生活者の姿だけが見える)、及び新型コロナウィルス感染症の患者たちが運び込まれて治療を受けている病院の内部を、サーモグラフィを使って撮影した画像が交互に並ぶ構成は衝撃的であり、強い説得力を持つ。同年7月のアルル国際写真フェスティバルでの展示(その後、メキシコ、スペイン、イタリア、中国、韓国、ウクライナに巡回)では、1,111枚のプリントをモザイク状に並べるインスタレーションの形で発表された。今回のMEMの展示はスペースの関係で33点のみだったが、ハンネミューレのミュージアム用紙に、やや色が滲むようにプリントされた写真群は、圧倒的なパワーを発していた。

多くのアーティストたちにとって、「コロナ時代」の意味を問い直していかなければならない時期が来つつあるいま、ダガタの仕事は、コロナ禍を写真でどのように捉え、表現していくかを推し量る指標となるのではないだろうか。

2022/03/02(水)(飯沢耕太郎)

Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―

会期:2022/02/02~2022/03/21

大阪中之島美術館[大阪府]

昨年、国立国際美術館を訪れたら隣に黒い大きな箱が建っていたので驚いた。そういえば、これがウワサの大阪中之島美術館か、ようやくできたんだと納得。中身はさておき、建物だけは目立ちたがる日本の美術館にあって、隣の国立国際は地下に埋め込まれているし、当館はブラックボックスだし、この一角だけはあまり目立たない。いや、意外とこのブラックボックス、よく目立つかも。

それにしても長かった。バブルのころから大阪に近代美術館の建設構想があるという話は聞いていたし、その準備室の学芸員にも何人かお会いしたことがある。だが、バブル崩壊後の長引く不況で計画は宙に浮き、学芸員も他館に移動したり退職したり三々五々。このまま永遠に開館しない「幻の美術館」で終わるんじゃないかと心配したもんだ。そもそもの始まりは1983年、大阪市制100周年を記念して近代美術館構想が発表され、佐伯祐三の作品を核とする山本發次郎コレクションが寄贈されたこと。1990年には準備室が設けられ、コレクションも寄贈や購入により増えていったが、景気の低迷に伴い計画は紆余曲折を余儀なくされた。ようやく10年前に大阪の心臓部ともいえる中之島に建設が決定し、昨年には遠藤克彦建築研究所の設計による建物が竣工。今年2月2日に一般公開となった。

コレクションはおよそ6,000点で、日本と西洋の近現代美術と、椅子やポスターなどのデザインが2本柱。開館記念展ではそのなかから、佐伯祐三をはじめ上村松園、小出楢重、吉原治良ら主に関西の画家の作品、モディリアーニ、ユトリロ、マグリットら西洋の絵画、ロートレックやボナールのポスター、マッキントッシュやリートフェルトらの椅子など約400点を選んでお披露目している。新しいところではゲルハルト・リヒター、ジャン・ミシェル・バスキア、森村泰昌、やなぎみわら、古いところでは、なぜかアルチンボルドの作品も。日本と西洋、近代から現代、美術とデザインと幅広く集めているが、これが30年前ならまだしも、21世紀も20年以上が経過したいまとなっては遅きに逸した感もある。いまさらエコール・ド・パリでもないし、現代美術やデザインの収集も珍しくなくなったし。

一方、出品作品でいちばん興味を惹かれたのは、国枝金三と青木宏峰による《中之島風景》や、池田遙邨の《雪の大阪》、小林柯白の《道頓堀の夜》、島成園の《祭りのよそおい》や木谷千種の《をんごく》といった、関西の画家による戦前の大阪の風景や風俗を描いた絵だ。1点1点はどこかで見たことあるけど、こうしてまとめて見るのは初めてのことで新鮮に感じられた。考えてみれば、大阪には大規模な美術館として戦前からの市立美術館と、郊外から移転してきた国立国際美術館があるが、前者がもっぱら団体展や巡回展の会場となり、後者が文字どおり国際的な現代美術に特化しているため、地元ゆかりの美術作品を見る機会は限られていた。この美術館にはその隙間を埋め、東京では見られない(また、京都とも少し違う)なにわ美術のアーカイブと、これからの大阪のアートシーンを牽引していく活動を期待したい。

関連レビュー

クリエイティブアイランド中之島、大阪中之島美術館 |五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年11月15日号)

2022/03/02(水)(村田真)

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ダミアン・ハースト 桜

会期:2022/03/02~2022/05/23

国立新美術館[東京都]

ダミアン・ハーストの日本初の本格的な個展が「桜」とは、なんてシャレた冗談だろう。ダミアン・ハーストといえば、真っ二つに割った牛のホルマリン漬けあり、薬品を並べただけの棚あり、ダイヤモンドを埋め込んだ骸骨ありのお騒がせアーティストだが、それらをすっ飛ばしていきなり「桜」かよ。唐突にこれだけ見せられても、彼のことを知らない日本人には山下清か塔本シスコの再来かってなもんだ。いや、ダミアン・ハーストを知ってる者にとっても衝撃は大きい。ジェフ・クーンズと同じく作品は他人につくらせることが多かっただけに、本人は絵がヘタなんじゃないかと密かに心配していたが、まさかこんなに稚拙だとは思わなかったからだ。

出品は、2×3メートルほど(最大で549×732センチ)の大画面に桜を描いた油彩画24点。いずれも水色に近い青空を背景に、こげ茶色の幹や枝が伸び、上からピンクや白、赤、青、緑などのドットで覆っている。1点1点ニュアンスを変えてはいるものの、空は青、幹は焦げ茶色、花はピンクという小学生並みの色づかいが陳腐きわまりない。もちろんガキの絵とは違って、ピンクの上から青やこげ茶を置いて地と図を反転させたり、点描派よろしく補色を交互に並べたり、絵具の飛沫や滴りを強調してアクション風味を利かせるなど、絵画的効果を高める努力をしていることは見てとれる。でも逆にそれが計算高く感じられるのも事実。だが幸か不幸か、そうした稚拙さや計算高さによって、このシリーズが職業画家に描かせたものではなく、紛れもなくダミアン・ハースト自身の手になるものであることが証明されるのだ。

もうひとつありがたいのは、見ていて楽しくなること。それはモチーフが桜であること、描き方がプリミティブであることに加え、本人が嬉々として描いていることが伝わってくるからだ。これは大切なことで、たとえば色違いの円を規則正しく並べるだけの「スポット・ペインティング」ではこうはいかない。思うに彼は「スポット・ペインティング」を量産することに飽きて、自分でベタベタ絵具を塗ってみたくなったのではないか。ひとつ提案だが、欧米の美術館がよくやるように、展覧会の会期中パーティー会場として貸し出してはどうだろう。花見気分できっと盛り上がるはずだ。名称はもちろん「桜を見る会」。

2022/03/01(火)(村田真)

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ホームビデオ・プロジェクト「テールズアウト」

会期:2022/02/02~2022/03/21

大阪中之島美術館[大阪府]

建設構想から約40年を経て、2022年2月に開館した大阪中之島美術館。開館プレイベント「みなさんの『ホームビデオ』を募集します!」で家庭に眠るホームビデオを一般市民から募集し、集まった300本超のビデオテープや映像データを用いて、現代美術作家3名が新たな作品を制作した。参加作家は、荒木悠、林勇気、柳瀬安里。展覧会タイトルの「テールズアウト」とはテープの巻き方を指す言葉に由来する。収録済みテープの最終部がテープの巻き終わりになっている状態を「テールアウト」と呼び、その続きから現代作家たちが新たな物語を紡ぎ出すことが企図されている。また、美術館建設構想が始まった1983年は、一般家庭向けのカムコーダ(ビデオカメラ)が登場した年でもあり、以降、小型化と長時間録音が可能となったビデオカメラの普及が進んでいく時代が、開館までの美術館の歩みと重ね合わされている。

主に家庭内で撮影され、子どもの成長や行事を記録し、家庭内でプライベートに鑑賞されるホームビデオ。8ミリビデオからデジタルデータに及ぶ記録媒体の変遷と、社会や家族のあり方の変化。普遍性や交換可能性と、個人性の強い刻印とのせめぎ合い。他人の私的な映像を見る行為の倫理性。記憶や時間についての省察。「ホームビデオ」から派生する問題に対し、荒木、林、柳瀬は三者三様のアプローチを見せた。

荒木悠の《HOME / AWAY》は、空港の出発ロビーをイメージした空間に、天井から3台のモニターが吊られている。モニターには、モノクロ、カラー、鮮明なデジタル映像と異なる時代のホームビデオが流れるが、映された光景は、旅行、動物園、運動会と共通し、「ホームビデオのお約束の主題」を指し示す。同様の試みとして想起されるのが、フィオナ・タンのファウンドフォト・インスタレーション「Vox Populi(人々の声)」だ。展覧会開催地の住民から収集した写真を、構図やポーズ、主題などでグルーピングし、「アマチュア写真の無意識的なコード」のマッピングを提示する。荒木も集合体から類型化を抽出し、3つの異なる時代や記憶媒体を並列化することで、普遍性と差異を浮かび上がらせる。


荒木悠《HOME / AWAY》[撮影:小牧寿里]


一方、ホームビデオが撮影・鑑賞される「家庭」という空間や、他人の私的な映像を見る行為の倫理性を問うのが柳瀬安里だ。《ホーム_01》《ホーム_02》では、黒い箱の中にミニチュアの家具を配置した「リビングルーム」が設えられ、被写体の顔にライトを当てて消した映像が投影されている。映像は(遠足や旅行、運動会や発表会、海やプールなど「家庭の外」を除外した)「家庭内の親密な光景」に限定され、画質の荒さから時代感がうかがえる。この「黒い箱」は、かつてホームビデオが鑑賞されたブラウン管モニターを指すと同時に、家庭という閉域の「のぞき箱」でもある。また、被写体の子どもの顔を匿名化する操作は、「それは私自身だったかもしれない」という交換可能性や既視感と同時に、SNS上でシェアされたプライベートな画像・動画を思わせる。時代感のあるホームビデオがSNS上にアップされているかのような奇妙なアナクロニズムは、逆説的に、時代を超えた普遍的な欲望を浮かび上がらせる。


柳瀬安里《ホーム_02》[撮影:小牧寿里]


上記の2作品はサイレントだが、「フィクショナルな語り」の上書きによって、記録媒体や時間の複数性、記憶のあり方についての多様なメタファーを示唆するのが、林勇気の《瞬きの間》である。真っ黒な画面中央には、円形の映像が映り、不安定に揺らぐ映像をよく見ると、さまざまなプラスチックのコップに満たされた水を通して映し出されていることがわかる。日常的なプラスチック製コップと、DVDやフィルム、磁気テープなどの記録媒体の原材料が同じ化石燃料であることに着目した仕掛けである。

また、のぞき穴、カメラのレンズ、トンネルの先に見える光景を思わせる「円形の窓」によって、私たちは、かつてレンズ越しに被写体に親密な眼差しを向けた撮影者、窃視者、時空のトンネルを超えた目撃者という複数の多重的な立場に立たされる。そしてコップは、形を持たず、儚くこぼれ落ちてしまう記憶を物質的にとどめたいという欲望や記録媒体の謂いでもある。キャラクターの絵柄付き、取っ手の有無、コップ自体の形の多様性は、それらが使用される家庭の個別性と同時に、記録媒体の多様性のメタファーでもある。


林勇気《瞬きの間》[撮影:小牧寿里]



林勇気《瞬きの間》[撮影:小牧寿里]


さまざまなホームビデオを断片的に繋ぎ合わせた映像にオーバーラップされるのは、20年前、実家の庭に兄とともに埋めたタイムカプセルを掘り出すため、車で故郷へ帰る男性のモノローグだ。タイムカプセルには、兄が撮ったHi8(ハイエイト)のビデオテープがあると語られる。かつて子ども時代に撮影され、家庭内のどこかに眠るホームビデオはまさに「タイムカプセル」であり、男性の車と平行に走る列車の線路は「異なる複数の時間の流れ」を示唆する。洞窟内で野宿し、焚き火の明かりで洞窟の壁に投影した影絵=映像の原理。回転する車輪=フィルムやビデオテープのリール。焚き火の火が燃え移り、溶けて燃えてしまうプラスチックのコップ=記録媒体の物質的な可燃性や損傷性。「画像や映像にオーバーラップさせたフィクショナルな語りのなかに、記憶や時間についての自己言及的なメタファーを散りばめる」という近年の林の手法が凝縮されていた。

関連レビュー

林勇気「15グラムの記憶」|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年10月15日号)

2022/02/27(日)(高嶋慈)

どうぶつかいぎ展

会期:2022/02/05~2022/04/10

PLAY! MUSEUM[東京都]

これほどタイムリーなテーマの展覧会があるだろうか。私が本展に足を運んだのは、奇しくも、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始した翌日だった。21世紀に入り、世界を大きく揺るがす侵略戦争がまさか起こるとは思ってもみなかったというのが正直な気持ちだ。

本展は1949年に出版された絵本『動物会議』を基にした展覧会である。作者はドイツ人のエーリヒ・ケストナーとヴァルター・トリアーのコンビ。本展の第1幕は「まったく、人間どもったら!」と怒り散らす、ゾウ、ライオン、キリンたちの集会から始まる。彼らの怒りの矛先は、人間が戦争を始めようとしていることに向かっていた。その被害者は紛れもなく子どもたちであることを嘆くのだ。そう、この絵本が書かれた背景には第二次世界大戦があった。ナチスが台頭するドイツ国内で、作者ら自身も翻弄され、それぞれが国外逃亡することで生き延びたのだという。その作者ら自身の怒りが、絵本では動物たちの姿を借りて表現されていた。


PLAY! MUSEUM「どうぶつかいぎ展」会場写真[撮影:加藤新作]


さらに絵本では以下のように物語が展開していく。動物たちは一致団結して立ち上がり、最初で最後の「動物会議」を開き、人間たちに毅然とこう突きつける。「二度と戦争がおきないことを要求します!」。その交渉は難航するが、「子どもは世界の宝」のとおり、子どもたちを愛する気持ちは動物たちも人間たちも同意であることをテコに、動物たちの作戦勝ちで、最後には平和を手に入れる。


梅津恭⼦《無題》(2021)


本展もこの物語に沿い、8人のアーティストたちの作品で構成されていた。圧巻は薄暗い空間に設えられた第5幕「子どもたちのために!」と、第6幕「連中もなかなかやるもんだ」である。動物たちを模した獣毛の塊に角や牙、影絵、皮絵などの展示のほか、動物たちの糞が再現されていたり(匂いはなかったが)、時折、鳴き声が響き渡ったりすることで、動物たちが本当に会議を開いているかのような臨場感にあふれていた。よって動物たちの怒りもひしと伝わるようだった。「まったく、人間どもったら!」と、いまこそ私も声を大にして言いたい。ロシアの侵攻に対し、呆れているのは動物たちだけではない。そのほか大勢の人間たちも同様だ。『動物会議』はいまこそ世界で広く読まれるべき絵本である。と同時に、この絵本に着目した本展に敬意を払いたい。


菱川勢⼀《いざ、動物会議》(2022)



公式サイト:https://play2020.jp/article/the-animals-conference/
エーリヒ・ケストナー原作、イェラ・レープマン原案、ヴァルター・トリアー絵、池田香代子訳『動物会議』(honto本の通販ストア):https://honto.jp/netstore/pd-book_01709939.html

2022/02/25(金)(杉江あこ)

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