artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
泉太郎「こねる」

会期:2010/11/02~2010/11/27
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
昨年暮れ、同じ場所でのグループ展「日常/場違い」でぶっちぎりの作品を見せてくれたと思ったら、もう一本釣りされて個展だ。少し早すぎるんじゃない? だって彼の作品は階段の踊り場とかギャラリーの備品室とか隅っこのほうでイジケて見せるほうが本領を発揮するのであって、こんなでかいギャラリーを丸ごと与えてしまうのは不粋ではないか、と思ったからだが、大間違いでしたね。空間の大きさは関係なく、その場所を読み切って作品をつくっている。たとえば大ギャラリーの円柱に沿って螺旋状の道をつくり、カメラをつけた車を走らせて映像を撮った作品。この円柱はかねがね「邪魔物あつかい」されてきたが、それをこれほど有効活用した例を知らない。あるいは、細長いギャラリーに小屋を組み立て、なかにペンキや日用品とともに本人が入り、小屋ごと回転させて撮影した映像インスタレーション。ギャラリーの床には小屋が回転した跡が残っているのだが、これはひょっとして昨年の「日常/場違い」に出された久保田弘成の廃車を回転させる映像や、電柱を洗車機に通すインスタレーションと共鳴しているようにも見える。空間と時間をこねまわした見事な個展。
2010/11/27(土)(村田真)
泉太郎『こねる』

会期:2010/11/02~2010/11/27
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
泉太郎によるおそらく最大規模の個展は、僅かな例外を除いてすべてが新作。というよりも、泉の最近の作品は、会場で撮影し、撮影したものをその場で上映するものが多く、本展でもほぼすべてがその方法で制作・展示されているのである。本展で際立っていたのは、映像が実物大であること。実物大ゆえ、かつてそこで起こったことが同じ縮尺でいまそこに展示される。例えば、巨大な空間に似たような双六のルートがつくられていてそこにルーレットとコマが移動する《靴底の耕作》、木製の小屋(五角形)を細長い空間に沿って数人がかりで転がす《小さなキャミー》、当人の説明を頼りに見えない人物の似顔絵を描く《鳩》。これらのゲームの模様は、実物大の過去(=映像)を現在(実物)に重ねるように展示してあって、現在進行中の出来事のようにすましている。けれども、それらは「幽霊」の見せる「祭りの後」でしかない。壁の小さな裂け目に粘土を押し込めて通過させてゆく《無題》でも、粘土の「にゅるっ」とした独特の振る舞いはとてもリアル、なのにそれは映像であってそこにはない(役目を終えた実物の粘土がそこに置き去りにされてはいるけれど)。このもどかしさは実物大だからこそ。「映像にはサイズはない」という通念を退け、映像の実物大性を見出した泉。それはかくももどかしく切ないものなのか。実物大性が確立されたとなれば、映像の縮小性も拡大性も成立可能だろう。泉のさらなる展開がそこにあると憶測する。
2010/11/27(土)(木村覚)
泉太郎 展 こねる

会期:2010/11/02~2010/11/27
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
泉太郎がまたやった。というのも、一昨年の「日常/場違い」(神奈川県民ホールギャラリー)に続き、「クジラのはらわた袋に隠れろ、ネズミ」(アサヒアートスクエア)、「捜査とあいびき」(ヒロミヨシイ)、「入り口はこちら──何が見える?」(東京都現代美術館)と国内で立て続けに発表した勢いも冷めやらぬうちに、また大規模な個展を成功させたからだ。映像を発表する現場で撮影した映像をその場で見せるという芸風はそのままに、この会場の巨大な、しかしあくの強い空間に気圧されることなく、存分に使い切った展示がすばらしい。例えば「ECHOES」(ZAIM)や「日常/場違い」のように、かねてから泉の本領は隙間やデッドスペースを映像インスタレーションによって鮮やかに生き返らせる術にあると思っていたが、近年の泉は与えられた広大な空間を使い倒す才覚も身につけたようだ。神奈川県民ホールギャラリーの、あの無駄に長大な空間を小屋を回転させる道のりとして活用するところなどは、思わず息を呑むほどだ。このセンスは泉独自の視点や空間構成力にもよるのだろうが、その一方で彼がつねに泉太郎という身体によって映像と現場を直結させていることにも由来している。人の身体が生きる空間でないかぎり、その空間が生き生きとするはずもない。この当たり前の事実を忘れているのが、フォトジェニックなだけの彫刻作品で広大な空間を埋めようとして無残に敗北しがちな昨今の現代アーティストである。泉の強さは、美術館の権威的で非人間的な空間であっても、まるでオセロの白と黒を反転させるかのように、いとも簡単にその空間を甦らせるところにある。死んだ美術館を蘇生させるには、泉太郎を呼んで遊ばせるのがいちばんよい。
2010/11/26(金)(福住廉)
谷澤紗和子「おたのしみ会の準備」
会期:2010/11/09~2010/11/28
MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w[京都府]
会場に入った途端に、緩やかなテンポの楽し気なBGMが聞こえてきて一気にこちらの気持ちを解きほぐすよう。なんともユルい雰囲気が快く思わず笑いもこみ上げた。梱包用のクラフト紙でつくった細かい切り紙細工の装飾が天井からたくさんつり下げられたその空間に森の中に分け入るように入っていくと、粘土でつくられた土偶のような奇妙な人形があちこちに置いてあった。連続する切り紙細工の模様の影がゆらゆらと壁に映る空間に立っていると、身近にあるものをいろいろな生き物や道具に見立てて並べ、空想を楽しんだ子どもの頃の記憶も巡ってくる。これまで私が見た谷澤の作品の、身体の生々しさをともなう繊細な表現は、その魅力の分、作品世界にスッとは入り込みにくい緊張感や迫力も感じられる印象があったのだが今展ではそれはなかった。かえって、その魅力は濾過され抽出されているように感じた。
2010/11/26(金)(酒井千穂)
木藤純子+水野勝規 二人展

会期:2010/10/16~2010/11/27
GALLERY CAPTION[岐阜県]
木藤純子と水野勝規の二人展。会場に入ると、水を張った大きなガラスの容器に青空のイメージが映る木藤の作品《sky pot》がまず目に入る。これはもともと二つ制作されたのだそうだが、今展には、不意に割れてしまったというひとつの《sky pot》をめぐる物語が会場のあちこちに潜んでいた。ギャラリーのひとつの空間に割れたガラスの容器や花の冠、壁に直接描いたドローイングなどのインスタレーション。通路の窓辺にはとても小さなガラス玉も並んでいた。なにも知らずに展示を見るだけでは、その私的な物語を知り得ることもなく、謎に包まれていて戸惑うのだが、あらすじを聞くと、それらが見る見るうちに深度を増して美しく感じられる。奥のスペースには水野の《monoscape》という連作の映像作品が並んでいた。複数のモニタに映る景色とその時間は淡々と流れていくが、微細な空気の変化や感触をイメージさせる瞬間がある。ふたりの表現には一見、強烈に突出する印象や究極の要素はない。けれど、共通して、エレガントという絶妙な性質も潜んでいる。
2010/11/25(木)(酒井千穂)


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