artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
入谷葉子展「縁側ララバイ」

会期:2010/08/31~2010/09/12
neutron kyoto[京都府]
現在東京で同名の個展を開催中の入谷葉子の京都での新作の発表。かつて家族と暮らした自宅やその身近な風景など、思い出のイメージを過去の写真と自らの記憶をもとに、色鉛筆による色面で塗り絵のように再現している。会場には、昔の自宅の応接間をモチーフにした大作や、墓地を描いた作品をメインに、通学電車の車窓から見える風景や子ども用のビニールプールを描いた小作品なども展示されていた。今展には過去の記憶を辿って取材に出かけ、その場で新たに撮影したという写真から描いたものもあるのだが、入谷は身体的な感覚も含め、自らの記憶のイメージと現在のありさま、そのギャップという、隔たった時間をない交ぜにして表現する。描かれるものはごく個人的な思い出であり、他人には共有できない閉鎖的な世界であるのだが、しかし入谷の作品には、いつもなんとなく気持ちが引き寄せられる。モチーフが見覚えのある道具であったりごくポピュラーな生活スタイルのイメージであったりすることや、色彩のインパクトのせいも大きいのだが、ただそれよりも、それらの記憶のイメージの断片を継ぎ接ぎするような色面の構成や画面の余白、それらのどこか不安定な印象と違和感に、見る者は共感するのかもしれないと今展で感じた。“いま”という状況が永遠ではなく、つねに変化している有限の時間にあるということ、季節や環境の変化によって知る有限の時間の切なさや美しい一瞬が共通の記憶として引き出されるのだ。
2010/09/06(月)(酒井千穂)
Chim↑Pom個展 Imagine

会期:2010/08/07~2010/09/11
無人島プロダクション[東京都]
Chim↑Pomが返ってきた。先ごろの「六本木クロッシング2010」では、まるで飼い慣らされてしまった狼のように大人しく、見失った野性の回復が待望されていたが、今回の個展で名誉挽回、本領を発揮した。今回のテーマは現代アートにとっての根幹である視覚。眼の見えない視覚障害者とともにいくつかの作品を制作したが、Chim↑Pomのアプローチは一般社会が遵守しているよそよそしい礼節を一切踏むことなく、むしろ当事者の心中に土足で踏みあがり、平たくいえば「ふつうに仲良くなる」というものだ。眼の見えない者同士に「にらめっこ」をさせる映像作品や、映画館のチケット売り場で眼が見えないのに3D料金を請求される様子を収めた映像作品には、その奇怪な顔面造作やナンセンスなやりとりが見る者の笑いを自然と誘う。けれども、私たちは「見える」けれども、彼らには「見えない」という厳然たる事実に思いを馳せると、思わず笑いながらも、その笑いがどこかで暗い影をひきずっていることに気づかされる。形式的な交流によっては、その圧倒的な断絶を乗り越えることなど到底不可能であり、だからこそ土足のまま踏み入ることが必要だった。「見える」者と「見えない」者は、どうすればわかりあえるのか。その問いに対してChim↑Pomが出した簡潔明瞭な答えは、imagine、想像せよ。ただ、ここで重要なのは、だからといって想像力が無条件に肯定されているわけではないということだ。なぜなら、想像力こそ視覚に大きく依存した精神活動であり、そうである以上、「見える」者と「見えない」者の溝が完全に埋められるわけではないからだ。つまり、Chim↑Pomのいう「想像力」とは、双方を架橋するための決定的な解決策としてではなく、むしろ逆に、想像力をもってしてでも縫合することが難しい、その不可能性を思い知り、しかし、それでもなお、両者に通底する交通の次元を探り出そうとしてまさぐり続ける意思を表わしているのではないだろうか。土足で他人の家に入り込めば、間違いなく叱られるだろうが、叱られながらも当人と仲良くなる可能性がないわけではない。そこに、Chim↑Pomは賭けている。
2010/09/04(土)(福住廉)
小沢さかえ展 指先から銀河

会期:2010/09/03~2010/09/20
カフェ&ギャラリーアトリエとも[京都府]
「スコップ・プロジェクト」第三回目の企画展。いわゆるホワイトキューブではなく、黒板の壁面やガラス扉のショーケース、壁に作り付けの棚などがある会場。絵画の展示の場合はとりわけ作家を悩ませそうなスペースでもある。しかし小沢はそんな空間の特徴も見事に自らの作品世界の一要素としてとりこみ、むしろ水を得た魚のようにいきいきと、魅力的な作品空間を創出した。色とりどりのプッシュピンやマグネット、チョークなどを用い、いくつもの星図を配した黒板壁面のドローイング《夜のみた夢》には、木にもたれかかる少女や動植物なども描かれたのだが、足下を照らすスポットの下で見るこの作品は想像以上に表情豊かであり、更けゆく夜空の有様のように、見る時間帯によって印象が異なるものであった。夕方頃は特に、黒い黒板に描かれた線や光の表現が際立ち、画面に不思議な奥行きが感じられる。その反対側の凹みのある壁面にぴったりとはめ込まれるように展示された作品は、今展のために制作された幅3.6メートルの大作《指先から銀河》。描かれた少女の手のひらに載る光の粒が、星座線として画面の上方にのびているのだが、その線は見る者を幻想的な物語へと導くように、後方の黒板のドローイングのイメージとつながっていく。濃紺の夜空と、その暗闇のなかで発光するような森の植物の色彩もさることながら、画面の隅でとぐろを巻く透明な蛇の姿は特に、背景と形が解け合う不思議な趣を漂わせて美しかった。想像力を自由に駆け巡らせることは才能でもあるが、それを表現として発揮することはさらに高度な技でもある。幻想的なその世界観を遊び心いっぱいに繰り広げた今展、他では見られない個展となった。
2010/09/03(金)(酒井千穂)
バーネット・ニューマン

会期:2010/09/04~2010/12/12
川村記念美術館[東京都]
待望された「ニューマン展」、といえるだろうか。目の端をくすぐるようなささやかなポップがもてはやされ、画面との一対一の対話を強いられる重厚長大な抽象が敬遠されて絶滅寸前のこの時代に、なにをいまさらという気がしないでもない……が、むしろそんな時代だからこそ「待望のニューマン」でなければならないはずだ。いや実際、向こうから拒絶してくるようなニューマンの無愛想な画面を相手に対話を試みるのはツライ。でもそのツラさを通り越すといろいろ見えてくるものがあるのも事実。たとえば、赤一色に塗られていると思ったら微妙なニュアンスがついていたとか、画面を縦断する垂直線(ジップ)にもあるリズムというか規則性があるとか。そんなどうでもいいようなことに気づき始めると、今度は「なぜ絵画は平らなのか」「なぜ画面は四角いのか」「なぜ額縁がないのか」「どこまで行けば絵画でなくなるのか」「つまるところ絵画とはなにか」といった、どうでもよくない根源的な疑問が次々に降りかかってくることになる。もちろん正解があるわけではなく、自分たちでそれぞれ納得のいく答えを見つけなくてはならないのだが、じつはそれこそが「ニューマン展」の効用なのではないか。絵画とじっくり向き合い、なんでもいいから言葉を紡ぎ出してみること。これは最近、疎んじられていることである。
2010/09/03(金)(村田真)
奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編

会期:2010/08/22~2010/09/19
MISAKO & ROSEN[東京都]
美術家・奥村雄樹の個展。会場でプロの落語家による高座を開き、その様子を記録した映像と高座に使用した木製の高台、落語家の手をクローズアップで撮影した写真などを発表した。身体から離れた目玉の動きとその視界をモチーフにした噺を選んでいたように、落語の基本的な魅力である、現実的にはありえないけれども、落語においては可能になる独特の空想物語をテーマにしていたようだ。最低限のモノしか見せないミニマルな展示風景は、現場で催された高座を聞かなかった多くの来場者にとっては、たしかに「祭りの後」のような侘しさを禁じえない。けれども、むしろ気になったのは、奥村の関心があくまでも手と眼に集中しているように見えたことだ。私たちの眼には見えない目玉を落語家が手中に収めているところを写し出した写真は、まさしくその例証である。しかし、すぐれた落語とは視覚や触覚のみならず、文字どおり全感覚的な体験に私たちを誘うものである。眼は見てはいないけれども、私たちはその世界を見ているのであり、感じているのであり、つまりはそこに「いる」のだ。このような落語ならではの芸術的な特性を省みると、奥村の作品はその旨味を凝縮するというより、むしろ削ぎ落としてしまっているように思えた。「目玉の親父」がひとつの人格をもった身体として考えられているように、眼ひとつとってみても、そこには全身的な感覚が宿っているのである。
2010/09/03(金)(福住廉)


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