artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
崇仁地区をめぐる展示(後編)『Suujin Visual Reader 崇仁絵読本』刊行記念展
会期:2021/04/17~2021/06/20(会期延長)
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
(前編から)
後編で取り上げるのは、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでの『Suujin Visual Reader 崇仁絵読本』刊行記念展である。同ギャラリーでは毎年、海外作家を招聘して展覧会、ワークショップ、レクチャーを実施しており、2019年度の招聘作家であるジェン・ボーが行なったワークショップ「EcoFuturesSuujin」が本展の経緯にある。ボーは、1922年に京都で採択された日本初の人権宣言「全国水平社創立宣言」に着目し、この宣言を「雑草や植物を含むすべての種の平等」へと拡張的に更新するための草案をつくるワークショップを行なった。また、崇仁の歴史や魅力を視覚的に伝えるための本の編集にも着手。その刊行記念展である本展では、ワークショップ参加者で崇仁にあるアトリエで制作する森夕香が描いた挿画が展示された。
柔らかいタッチと色彩で描かれた森の挿画は、現在の街の生活風景で始まり、その歴史を辿り直していく。現在と過去、そのあいだの連続性と断絶を媒介するのが、すでに解体されて姿を消した崇仁小学校の校舎である。前編で紹介した「『タイルとホコラとツーリズム』Season8 七条河原じゃり風流」でも参照された小学校建設のための「砂持ち」に始まり、学び舎の風景、水平社宣言の起草、住民たちが自ら設立した柳原銀行とその移転・資料館設立へと続く。2000年代以降は、小学校でのビオトープ建設、閉校、市民活動の場としての利用、芸大移転に向けたさまざまなアートプロジェクトの展開、新校舎の建築プラン、ボーのワークショップの様子へと続いていく。最終ページには、意味ありげな「何も描かれていない白い余白」が残されている。その空白は、「解体工事による現在の空き地」を物理的に喚起するとともに、それに伴う「記憶の消滅や忘却」を示唆する。一方そこには、「まだ見ぬ未来の可能性の余白」への希望もせめぎ合う。
この白紙のページは、徐々にさまざまな描き込みで埋められ、「空白」があったことそれ自体も忘却されていくだろう。記憶の忘却やジェントリフィケーションにアートがどう対峙しえるのか、今後大きく様変わりするであろう地域の変遷とともに注視していきたい。
*緊急事態宣言延長をうけ、5/31まで休館。
関連レビュー
ジェン・ボー「Dao is in Weeds 道在稊稗/道(タオ)は雑草に在り」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)
2021/04/22(木)(高嶋慈)
崇仁地区をめぐる展示(前編)「タイルとホコラとツーリズム」Season8 七条河原じゃり風流
会期:2021/03/20~2021/05/05
京都市下京いきいき市民活動センター[京都府]
本稿では、京都市の崇仁地区の地域性や歴史に向き合った2つの取り組みを前編と後編に分けて紹介する。まずその前に、「なぜ近年、この地区でアートが展開されているのか」という背後の文脈について、この京都駅東部エリア(崇仁地区)と隣接する東南部エリア(東九条地区)をめぐる近年の動向を概説する。
両地域ともに、2023年度に予定されている京都市立芸術大学の移転に向けて、大きな変化のただなかにある。移転予定地である崇仁地域は、高齢化や建物の老朽化が進んでいたが、移転に向けて解体工事が進行中だ。同地域では、「芸大移転整備プレ事業」として、移転予定地にある元崇仁小学校の教室を利用したギャラリー(校舎の解体に伴い2020年に閉鎖)での展示やさまざまなアートプロジェクトが展開されている。崇仁地区の空き地を利用した展示の先駆例としては、PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015で、廃棄された資材を用いて仮設的な公園の祝祭的空間を出現させたヘフナー/ザックス《Suujin Park》がある。
隣接する東九条地区では、芸大移転を見据え、文化芸術や若者を基軸とした地域活性化をめざす「京都駅東南部エリア活性化方針」が2017年に京都市より打ち出された。今年3月には、契約候補事業者にチームラボが選定され、チームラボの作品を展示するミュージアム、アートギャラリーのテナント誘致、学生や地域住民が利用できるギャラリー、カフェなどを備えた複合施設の開業が計画されている。同地域には、2019年、民間の小劇場THEATRE E9 KYOTOがオープンしており、若手アーティストの共同スタジオが定期的にオープンスタジオを開くなど、崇仁とともに「文化芸術のまち」として今後さらに発展していくことが期待される。一方、両地域は、西日本最大の被差別部落であった歴史や在日コリアンが多く住む地域であることなど、複雑な負の歴史をともに持ち、ジェントリフィケーションにアートが加担することの功罪を考える必要がある。
また、京都市は、2017年度より東九条にて、文化芸術によって多文化共生社会をめざすモデル事業を東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)へ委託して実施。2017年度はダンサー・振付家の倉田翠が、2018年度は美術作家の山本麻紀子が、それぞれ地域の福祉施設や住民と協働して制作活動を行なった。2019-2020年度は対象地域を崇仁に移し、「京都市 文化芸術による共生社会実現に向けた基盤づくり事業 モデル事業」との名称で、主催であるHAPSの企画のもと、山本麻紀子と「タイルとホコラとツーリズム」の2組のアーティストが参加した。
本稿の前編では、上述の2019-2020年度の京都市モデル事業の一環として行なわれたアートプロジェクト「『タイルとホコラとツーリズム』Season8 七条河原じゃり風流」を取り上げる。美術家の谷本研と中村裕太のユニットである「タイルとホコラとツーリズム」は、京都の街中に点在する「タイル貼りのホコラ」の路上観察学的なリサーチを起点に、民俗学、生活史、暮らしのなかの土着的な信仰、ツーリズムと消費といった観点から、分野横断的な制作を行なってきた。
本プロジェクトでは、明治42(1909)年、柳原尋常小学校(崇仁小学校の前身)が建設される際、地域住民が一体となって、鴨川の河原の土砂を運んで建設用地を整備した「砂持ち」に注目した。住民たちは揃いの衣装や仮装によって、土砂を運ぶ「労働」を「祝祭」に変えていたという。谷本と中村がもうひとつ着目したのは、芸大建設予定地や周辺の市営住宅の老朽化・建て替えに伴い、地域にあったお地蔵様のホコラが寺社などに移動されて路傍から姿を消したことである。そこで谷本と中村は、河原から運んだ砂利で、市営住宅の公園の砂場に「お地蔵様のモザイク画」を描き、忘れられたかつての風習を自らの肉体を駆使して再現・再演することで、「労働」と「信仰」の両面から地域の歴史に光を当てた。この試みは、京都~滋賀県の大津を繋ぐ白川街道を、道中のホコラや石仏に花を手向けながら歩き、商品の運搬という「労働」と「信仰」の結びつきを身体的に再体験して伝える過去の取り組み「season3 《白川道中膝栗毛》」などとも共通する。
完成したモザイク画は、市営住宅の上階から撮影され、大きく引き伸ばした写真が地域内の市民センターの外壁に見守るように掲げられた。また、制作過程の記録写真を、「砂持ち」やお地蔵様にまつわる聞き取りとともに掲載する「かわら版」が制作され、発行毎に地域の全戸へ配布することで、プロジェクトの成果が地域へと還元された。この「かわら版」は、下記のウェブサイトでPDFが閲覧できる。
HAPSウェブサイトhttp://haps-kyoto.com/tht8_jarifuryu/
(後編に続く)
関連レビュー
タイルとホコラとツーリズム season3 《白川道中膝栗毛》|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年05月15日号)
2021/04/22(木)(高嶋慈)
桐月沙樹・むらたちひろ「時を植えて between things, phenomena and acts」
会期:2021/04/17~2021/06/13
京都芸術センター[京都府]
「作品が内包する時間」は、どのように可視化されうるのか。木版画/染色という表現媒体や技法は異なるものの、この問いに共通して取り組む、桐月沙樹とむらたちひろによる二人展。副題に「between things, phenomena and acts」とあるように、元は樹木である版木の表面がもつ木目、「線を彫り足しながら刷る」という連作的行為、染料が布に「染まる」という現象、その時間の痕跡を示す滲みなど、マテリアル、現象、行為との相互作用によってイメージが揺らぎながら立ち上がる瞬間が交錯する。
透明感ある色彩の美しさが目を引くむらたちひろの染色作品は、大画面の伸びやかなストロークや、干渉し合う色の帯の重なり合いが、例えばモーリス・ルイスのようなカラー・フィールド・ペインティングを想起させる。作品に近づくと、浸透した染料が干渉し合い、境界線が滲み、両者が混じり合った「第三の色」の領域が出現していることがわかる。4枚のパネルで構成される《beyond 05》では、類似したストロークの反復のなかに、ロウによる防染のコントロールと、完全には制御不可能な物理的現象がせめぎ合い、反復と差異がイメージの豊かな変奏を生み出す。
桐月沙樹は、この「反復と差異、時間的連鎖」を「版画」というメディアそれ自体への自己言及的な考察へと展開させている木版画家である。桐月の作品の特徴は、1)版木の木目を、「緩やかに蛇行する線」としてイメージの一部に取り込むこと、2)「素材である樹木が内包する時間」の痕跡を示すその線の上に、「少しずつ線を彫り足しながら、刷り重ねていく」連作的行為、3)「物理的には同じ1枚の版木から、彫りの進度が異なる複数のイメージを発生させる」ことで、「版」と「複製性」の結びつきを批評的に断ち切る、という点にある。
その名も《dance with time》と題された出品作は、同じ1枚の版木から刷られた、計9枚の木版画で構成されている。1枚目から順に辿っていくと、木目が写し取られた黒い地の中に断片的な線やイメージが現われ、2枚目、3枚目、4枚目…と彫り足しては刷る行為を重ねていくうちに、成長する植物のように線が伸び、新たな芽吹きのように出現し、絡まるロープやリボン、木目を見立てた川面の上に浮かぶ人影や壺、カーテンのように揺らぐグリッドなどが姿を現わす。だが、繁茂する線は次第にその表面を浸食し、白い線が自己破壊的なまでに画面を塗りつぶしていく。変奏曲のような時間的構造とともに、「線を彫る」という行為が、イメージの生成と同時に消滅につながっていくという暴力的なまでの両義性が提示される。それは、「おぼろげな記憶が次第に像を結び、やがて忘却へ至る」という心理的メタファーを思わせると同時に、「表面に付けられた傷である」ことを文字通り可視化する。
同時にそこには、「複製」「コピー」「エディション」といった概念との結びつきを自明のものとする「版(画)」というメディアに対する、優れた反省的思考がある。通常は1枚の版から同一イメージの複製を生み出す版画において、物理的基盤である「版木」の存在は、写真のネガのように限りなく不可視化されている。だが桐月は、同一のものの複製・コピーではなく、差異・複数性を発生させる装置として「版」を用いる。それは言わば、「唯一のオリジナル」が存在しない「1/9」という版画のエディションを、「9/1」へと反転させる操作であり、「版木」に対する意識を顕在化させる。
この「版木」の物質性への意識は、本展において、文字通り「作品」化する試みとして新たな展開をみた。展示空間には、一見「ただの丸太」に見える3本の木の柱が直立し、あるいは床に置かれている。これらはそれぞれ、「先端の切断面を版木に用いた丸太」、「過去作品の版木を円柱状に丸めて再加工したもの」、「虫食いの跡が抽象的な彫りの線に見える丸太」である。人為的な加工を加えない自然のままの素材をファウンドオブジェのように「再発見」する行為、あるいは自身の作品に用いた版木を「再作品化」する行為が等価に並べられる。「素材自体や制作行為が内包する時間」というテーマが、新たな側面から光を当てられていた。
*緊急事態宣言延長をうけ、5/31まで休館。
関連レビュー
教室のフィロソフィー vol.12 桐月沙樹「凹凸に凸凹(おうとつにでこぼこ)─絵が始まる地点と重なる運動―」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)
むらたちひろ「internal works / 境界の渉り」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年07月15日号)
むらたちひろ internal works / 水面にしみる舟底|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年06月15日号)
2021/04/18(日)(高嶋慈)
フジタ─色彩への旅
会期:2021/04/17~2021/09/05
ポーラ美術館[神奈川県]
藤田嗣治といえば、1920年代のエコール・ド・パリ時代の「乳白色の肌」と、第2次大戦中の「戦争画」がよく知られている。白い女性ヌード像と血みどろの活劇画ではまるで正反対だが、その両極で頂点に立ったところが藤田のすごいとこ。でもその両極にも共通点はある。それはどちらも色彩に乏しく、ほとんどモノクロームに近いことだ。同展はそんな藤田の「色彩」に焦点を当てた珍しい企画。
出品は初期から晩年まで200点以上に及ぶが、ポーラのコレクションを中心にしているため、20年代の乳白色のヌードは比較的少なく、戦争画はまったくない。むしろそれゆえ「色彩」というテーマが浮かび上がったというべきか。作品が集中しているのは、パリから離れて中南米を旅していた1930年代と、戦後パリに定住してからの1950年代で、10年代、20年代、40年代、60年代はそれぞれ10点前後の出品なのに、30年代は30点以上、50年代は150点(うち約100点が「小さな職人たち」シリーズ)にも上っている。
30年代に色彩が豊かになったのは、乳白色がマンネリ気味になってきたこと、心機一転しようと(税金逃れもあったらしい)中南米を旅するなかで、明るい気候風土に触れたことだといわれている。いかにもな理由だが、いくら売れてるとはいえ10年も同じスタイルでやっていくと、志ある画家なら自己変革していきたいと願うはず。そのとき有効だったのが見知らぬ土地への旅だったに違いない。同展が「色彩」と、もうひとつ「旅」をキーワードにしているのはそのためだ。ブラジルで描いた《町芸人》や《カーナバルの後》などのにぎやかな風俗画は、乳白色と同じ画家とは思えないほどどぎつい色彩にあふれている。
その後、日本に戻って戦争画にのめり込んでいくことになるが、軍靴の響きが近づくにつれ、再び色彩は失われていくのがわかる。そして敗戦、戦争責任追及、日本脱出とツライ出来事が続くさなか、花園で踊る三美神を描いた《優美神》はいかにも場違いでグロテスクでさえあるが、西洋の古典美と色彩への渇望をそのまま絵にしたカリカチュアにも見えてくる。
再びパリに移住してからは、乳白色も戦争画もなかったかのようにカラフルな子供の絵に没頭する。しかし「小さな職人たち」シリーズをはじめとする子供の絵は、おしなべて無表情でちっともかわいくないし、色彩もたくさん用いているわりに明るい印象はない。
日本人を捨ててフランス国籍を取得し、カトリックに入信。これが藤田の人生最大の、そして最後の旅だったに違いない。最晩年に宗教画に没頭し、自ら建立した礼拝堂の壁画を完成させたのは、辻褄の合わなかった画家人生に無理やりオチをつけようとしたからなのか。
2021/04/16(金)(村田真)
モネ─光のなかに
会期:2021/04/17~2022/03/30
ポーラ美術館[神奈川県]
ポーラ美術館は約1万点のコレクションを有するが、藤田嗣治コレクションと並んで充実しているのがモネ作品で、国内最多の19点を誇る。うち11点が、建築家・中山英之のデザインした空間の中で展示されている。選ばれた作品は《睡蓮の池》《ルーアン大聖堂》《国会議事堂、バラ色のシンフォニー》《サルーテ運河》など、主に夕暮れ時の微妙な光を捉えたものが多い。まず、トタンのような波型の板を角ができないように湾曲させて壁をつくり、その上に絵を掛けている。中山氏によれば、苦労したのは、作品を覆うガラス面に背景が映らないようにすることで、そのために壁の曲面の角度や絵の配置を考え抜いたという。
照明は直接絵に当てず、裏から天井に向けて光を当てた反射光で見せているので、少し薄暗い印象だ。もちろんこれは絵に描かれた風景に合わせてのことで、日の出2時間後、日の入り2時間前の薄明を意識しているのだそうだ。とはいえ《セーヌ河の日没、冬》みたいな日没の暗い光もあるので、すべての絵にとって適切な照度とはいえない。そこで中山氏が徐々に赤みがかった照明に変えてみせると、《セーヌ河の日没、冬》から鮮やかな夕日が浮かび上がってくるではないか。そこまでやるか? そこまでやるならゴテゴテうるさい額縁を一掃して、MoMAのようにシンプルなフレームに統一してほしいと思った。だって額縁がいちばん目障りなんだもん。
2021/04/16(金)(村田真)