artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

urauny「urauny dinner」

会期:2021/04/10~2021/05/05

White House[東京都]

Chim↑Pomのメンバーである卯城竜太、アーティストの涌井智仁、ナオ ナカムラの中村奈央によって運営される会員制のアートスペースWhite Houseの第一弾「展覧会」、「urauny dinner」が開催された。dinnerの語が示す通り、この展覧会は予約制レストランとして運営されており、観客は1時間ごとに4人ずつの予約枠を事前に押さえたうえで会場であるWhite Houseを訪れる。「提供される料理の素材は、無添加の有機食材などを使用した市販薬や化粧品」であり「作家は薬学者へのヒアリングと自身で食する事で安全を個人的に確認してきましたが、それは社会的に担保されるものではありません」とのことで、予約時には同意書へのチェックも求められる。

受付ではスマートフォンが回収され、私語が禁止であることを告げられると中へ。そこには白一色の立方体の空間が広がっている。入り口のある角から右奥へと対角線を引くように白く細長いテーブルが置かれていて、その突き当たる角にはテーブルがそのまま垂直に立ち上がるような形で強烈な白い光を発する照明器具が設置されている。連想したのは映画『2001年宇宙の旅』、あるいは実写映画版『進撃の巨人』(後編)に登場する謎の白い部屋。鳥や獣の鳴き声、何語かわからない会話に重低音(あるいはそれは照明器具から発せられたものかもしれないが)などが入り混じった音が聞こえてくる。それは発生源を想像することができる具体的な音を素材としながら、全体としてはどこでもない、むしろそれらの具体物からは切り離された空間を演出していた。

横並びでテーブルにつくとメニューが配布され、注文が決まったら手元のボタンを押してスタッフ(作家?)を呼ぶように言われる。しかし個別のメニュー名は文字化けしたような表記になっておりフード、(ノンアルコールの)ドリンク、アルコールの種別と値段の違いしかわからない。私は3000円のフードと1000円のドリンクを注文した。


「urauny dinner」メニュー表


しばらくすると水が提供されカトラリーがセッティングされる。カトラリー、と言ってはみたものの、それは私の知るフォークやナイフといったものではなく、Sの文字をグッと引き伸ばしたような(積分のインテグラル記号のような)形状の金属製の棒である。3種類の異なる太さのそれはテーブルの縁と平行に、波模様を描くよう恭しく置かれるのであった。

またしばしの間ののち、ドリンクが運ばれてくる。氷とともにロックグラスに入れられたトロリとした微発泡性の液体は私の予想に反し意外にも「飲める」。ジントニックがこんな味ではなかったか(私はほとんど酒を飲まないので何かほかの酒と混同している可能性もあるが)。

ちびちびとドリンクを飲んでいる間にほかの客の皿が運ばれてくる。どうやら居合わせた2人は同じものを頼んだらしい。チラリと見るとそこには棒状の物体が三つ並び、その上にはさまざまなトッピングが施されているようだ。小洒落たエクレアのようにも大きめの小枝(お菓子のアレを想像していただいても本物の枝だと思っていただいてもよい)のようにも見える。2人の客はカトラリーは使わず、手でつまんで端からそれをかじっていた。ポリポリと硬めの咀嚼音が聞こえてくるが、食が進まないらしく手も口もすぐに止まり、ときたま思い出したようにまたひと口、という様子。

かなり待たされた後で私の皿が運ばれてきた。鳥の嘴のような形状の物体と緩いマッシュポテトのような、あるいは少量の水で溶いた粉末のコーンスープのようなドロっとした液状の何か。表面に焦げ目がついた(おいしそうとも言える匂いのする)それらの上には青い花弁が散らされている。「鳥の嘴」と「マッシュポテト」が並ぶ様は焦げ目も相まってラクレットチーズ(バーナーで炙ってパスタの上にダーっとかけるアレ)のように見えなくもない。さすがに手で、というわけにはいかず、カトラリーになすりつけてひと口。おいしくも不味くも食えなくもないという絶妙なライン。私は食べ物を残すことにかなり強い抵抗感があり、完食するつもりでしばらく食べていたのだが、カトラリーが液体を掬える形状ではないためごく少量ずつしか口に運べず、しかも食べているうちにうっすら気持ち悪くなってきたためあえなくギブアップ。ドリンクにせよフードにせよ、味よりはむしろ口に残る舌触りの方が「気持ち悪い」と感じる原因だったように思う。


鐚 鐚 鐃�鐚醐執鐚�(2021)


しかしこれ以上は食べられないとなってもスタッフはキッチンに引っ込んでいて、どうなれば終わりなのかもわからない。手持ち無沙汰な時間を潰そうにもスマートフォンは手元にない。ほかの客とともに無言でスタッフを待つ気まずい時間がかなり長く続く。漂う気まずさには出された食べ物を完食していない(というかほとんど残している)ことへの罪悪感も含まれているだろう。宇宙人との会食に呼ばれたものの食事が口に合わず、残したことで相手の機嫌を損ねはしないだろうか(怒って私を食べたりしないだろうか)と心配するような心持ちである。

ようやく解放されると注文したメニューの食材が記された名刺大のカードを受付で手渡され、そこで私はようやく自分が何を食べたかを知ることになる。マウスウォッシュ、目薬、リップクリーム、脱毛クリーム等々。なるほど、そもそもマウスウォッシュやリップクリームは使っているうちにその一部が体内に取り込まれているだろうし、目薬もまた目の粘膜を通して「摂取」されるものだ。それらを使う行為と飲食との違いは実はそれほどないとも言えるのかもしれない。



しかし参ったのはその後である。帰宅して風呂に入ってはボディソープやシャンプー、入浴剤の匂いが、歯を磨けば歯磨き粉の匂いが吐き気を誘う。それは匂いに対する条件反射に過ぎないのだが、肌や口腔からそれらを「摂取」していることへの自覚が、身体という境界を侵犯されることへの抵抗として吐き気を生じさせているのだとも言えるだろう。そのとき、「食べられて」いるのはむしろ私の方なのだ。では、普段の食事はそうではないと言い切れるだろうか。「会食」のテーブルの向かいには誰も座っていなかった。私が対峙する相手は皿の上の「食べ物」であり、テーブルの向こうに広がる世界だったのだ。私の身体は一生をかけて内部から侵食され、世界という外部へと消化されていく。


urauny:https://twitter.com/urauny


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コロナ禍における正反対のふたつの展覧会──ダークアンデパンダン/内藤礼 うつしあう創造|能勢陽子(豊田市美術館):キュレーターズノート(2020年07月01日号)

2021/04/28(水)(山﨑健太)

「さいたま市民の日」記念企画展 第6回「世界盆栽の日」記念・「さいたま国際芸術祭 Since2020」コラボレーション展 ×須田悦弘・ミヤケマイ

会期:2021/04/23~2021/05/19

さいたま市大宮盆栽美術館[埼玉県]

本展は「さいたま国際芸術祭2020」招聘アーティストの作品とさいたま市大宮盆栽美術館が所蔵する盆栽とのコラボレーション展である。招聘アーティストは須田悦弘とミヤケマイの2人で、彼ら現代アーティストによって盆栽飾りがどのように変身するのかが見どころだった。恥ずかしながら、本展を観るまで私は盆栽に関してまったく知識がなかった。さいたま市に大宮盆栽村があることも、そこが日本一有名な盆栽産地であることも初めて知ったくらいである。したがって盆栽飾りを「席」と数えることや、普段、盆栽は屋外にあり、客をもてなすためにわずか数日間だけ屋内に入れて飾ることなども一から教わった。本展では須田が1席、ミヤケが7席の作品を発表。須田は盆栽ではなく、盆器とのコラボレーションを試みた。同館が所蔵する「均釉楕円鉢」という鮮やかで厚ぼったい青磁の鉢の底から、自身の彫刻作品である一輪の可憐な菫の花を“咲かせ”、そこに本物の生がないにもかかわらず、生き生きとした生命感を表現したのである。


須田悦弘《菫》(2021)木彫・彩色、木 均釉楕円鉢(大宮盆栽美術館)


対してミヤケは盆栽飾りや床飾りの伝統様式に則りながら、1席ごとに物語性のある作品をつくり上げた。盆栽飾りの基本は三点飾りである。三点とは掛軸、盆栽、添えもの(水石や小さな草もの盆栽)のことで、確かに三点が絶妙なバランスで配置された空間は黄金比的な美しさがあることを思い知った。そもそも彼女は日本の工芸品や茶事などに造詣が深く、床の間のしつらえに倣った作品をよく発表している。本展への参加が決まった際には「テンションが上がった」と明かす。そのため彼女の真骨頂とも言うべき作品群が本展では観られた。例えば最初の席では「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」という英語フレーズを刺繍したレース模様の草木染めの掛軸を掲げ、外来種のアメリカツタの盆栽と、伊達冠石の上に水晶玉のようなガラス玉を載せた水石を展示した。様式は伝統的でありながら、一つひとつの要素は洋物であり現代的である。この外し方が実に彼女らしい。「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」はラグビーワールドカップの盛り上がりにより有名になった言葉だが、彼女はこの言葉を現代のデジタル社会やコロナ禍と結びつけ、良くも悪くも個と世界との即時的なつながりを示唆する。ほかの席でも同様にユニークな外しとコンセプトを打ち出し、“新しい”盆栽飾りを披露してくれた。決してオーソドックスなスタイルではないが、私のように盆栽に無知な者に対しても門戸を開くにはアートは有効だ。その点で実に画期的なコラボレーション展であると感じた。


ミヤケマイ《One for All, All for One 知足》(2021)和紙・金箔・銀箔・刺繍・レース模様の草木染め・クリスタル(軸先) 《未来 Crystal Ball》伊達冠石・耐熱ガラス・水 アメリカツタ(大宮盆栽美術館)

ミヤケマイ《月は東に日は西に Things That Dose Not Change》(2021)絹・山椒花紋金襴・麻・銀箔・洋紙・アクリル・顔料・神代杉(軸先) 斑入り石菖、虫かご、バッタ いちょう(大宮盆栽美術館)


公式サイト:https://www.bonsai-art-museum.jp/ja/exhibition/exhibition-7167/

2021/04/25(日)(杉江あこ)

美術ヴァギナ

会期:2021/04/23~2021/05/09

KUNST ARZT[京都府]

「美術ペニス」展(2013)、「モノグラム美術」展(2014)、「ディズニー美術」展(2015)、「フクシマ美術」展(2016)、「天覧美術」展(2020)の企画シリーズをとおして、男性器、著作権、フクシマ、天皇制といった「タブー」や表現規制について問題提起してきたKUNST ARZT。「天覧美術」展が前年のあいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」中止に対する批判的応答であるのに対し、本展の背景には、昨年夏、美術家・漫画家のろくでなし子に対して「わいせつ」と認めた最高裁判決がある。ろくでなし子自身も参加した本展は、表現規制に対する異議申し立てと「表象を自己肯定的なものとして女性自身の手に取り戻す」エンパワーメントという点では評価できる一方、後述するように、ジェンダーの観点からはある種の後退や限界を抱えてもいた。


はじめに、本展の起点にあるろくでなし子の逮捕と裁判について概要を記す。ろくでなし子は、自らの女性器を型どって装飾を施した「デコまん」シリーズの展示と、クラウドファンディングの出資者に自身の女性器の3Dデータを返礼として配布したことを理由に、2014年に二度逮捕された。前者の作品展示については東京高裁での二審で無罪が確定したが、後者は2020年、最高裁で「わいせつ電磁的記録等送信頒布罪」の判決が下された。


会場風景 [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]


本展の意義はまず、無罪確定後に裁判所から返却された「デコまん」3点を展示し、「逮捕の対象となった問題作だから見せない」とする自主規制や排除に対峙する点にある。また、3Dデータ配布が問題視された理由には、「第三者による複製可能性」と「ネット上での流通・売買の可能性」があると思われるが、3Dデータを出力した造形物を用いた「新作」の展示は、「これは電子データの配布ではない」として裏をかくしたたかな戦略性を見せる。

性(器)表現への規制や検閲に対する異議申し立てとして、本展は「美術ペニス」展と対をなす企画だが、最大の違いは、女性器(を含む女性の身体)が男性によって一方的に表象され、性の対象として消費され、「淫ら」と断罪されてきた不均衡の構造と歴史がある。誰が表象と搾取の主体で、「わいせつ」の判断や線引きは誰によってなされるのかを問い、「表象を自己肯定的なものとして取り戻す」こと。この点で、ろくでなし子の「デコまん」は、フェミニズムアートの系譜に位置づけられる。「ポップなかわいさ」や「無害なゆるキャラ」を装った「まんこちゃん」のゆるさは、むしろ戦略的である。型どりした女性器をフェイクファーやアクセサリー、スイーツの形のパーツで装飾した「デコまん」は、ネイルアートやデコ電(キラキラのパーツなどで装飾した携帯電話)と同様、「カワイイ」と気分をアゲるために装飾し、装飾パーツの「盛り」によって「隠すべきもの」を自分自身が楽しむものとしてポジティブに反転させる。女性器のモチーフをネイルアートとして表現する宮川ひかるの作品では、「私の身体と性は他人の所有物や消費対象ではなく、私自身のものである」というメッセージが、ネイルチップすなわち実際に身に付ける装飾品であることで、より強化される。



ろくでなし子《押収されたデコまん3点》(2021) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]




宮川ひかる《マンネイルサンプルチップ》(2021) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]


「わいせつな行為と表現」を処罰の対象として規定する現行の刑法の枠組みが明治期の旧刑法で形づくられたように、「わいせつ」の概念が近代化の所産であることを示してみせるのが、山里奈津実と荒川朋子の作品である。山里は、男性向けアダルトグッズの断面図を金泥で細密描写し、軸装によって宗教的な図像に昇華させることで、性器が持つ「聖と俗」の両極性をあぶり出す。そこには、「これは女性器の機能を代替する機械であり、性器そのものの描写ではない」として規制や検閲をすり抜ける戦略と同時に、性の商品化に対する疑義がある。また、原始的な形象の木彫につけまつげやウィッグ用の毛髪を用いて「毛を生やす」荒川の造形作品は、豊穣や多産を祈る古代の祭具や呪術的な神具を想起させる。



山里奈津実 左より《No.23 x》《No.23 y》(2020) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]



荒川朋子《ふさふさ》(2014) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]



ただ、本展企画者でKUNST ARZT主宰の岡本光博の作品と、ろくでなし子の新作には、ジェンダーの偏差的な視線や固定的な規範がこびりつく点で疑問が残る。ダジャレや記号的な遊戯性を駆使する岡本の作品は、「ウェットティッシュの取り出し口が女性器の割れ目の形をした、ピンク色のティッシュボックス」と、購入者のみ内部に封入されたものを覗ける《まんげ鏡》である。「自慰行為のおとも」と「覗き見」の対象であることを疑わない両者は、男性の「エロ」の視線の対象にすぎないことをさらけ出す。

また、ろくでなし子の新作は、「まんこちゃん」のゆるキャラ人形と自身の女性器の3Dデータを出力した造形物を、「子ども用玩具」の無邪気で無害な世界に潜ませたものだ。前者では、ピンク色の「まんこちゃん」がやはりピンクを基調とした女児向けおままごとセットのドールハウスで暮らし、後者では、男児の人形が乗り込むオープンカーや電車、飛行機をよく見ると、人形を座らせる操縦席が割れ目の形になっている。ここでは、女性器(を持つ身体)は「おままごとセットが備えられた家」すなわち「家事=女性の再生産労働の領域」に再び囲い込まれてしまう。また、「3Dデータの作品化」は一見挑発的だが、「女体」=文字通りクルマや飛行機の「ボディ」として、「男性が思いのままに操縦し、またがり、使役する対象」として再び客体化されてしまう。この点で、(例えばろくでなし子自身が乗り込んで操縦する《マンボート》と比べると)、ジェンダーの観点からは批評的退行と言える。

本展をとおして、女性器の即物的な表象のみや、「わいせつか表現の自由か」という二項対立的な図式だけでは不十分なことが見えてくる。本展は、表現規制への異議申し立てを出発点に、問われるべき必要な視座を抽出するためのひとつの通過点である。



ろくでなし子《3D まんこトレイン+3D まんこエアプレイン+3D まんこオープンカー》(2021) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]


関連レビュー

天覧美術/ART with Emperor|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

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2021/04/24(土)(高嶋慈)

イサム・ノグチ 発見の道

会期:2021/04/24~2021/08/29

東京都美術館[東京都]

昨秋開催予定だったのがコロナ禍で半年間延期になり、ようやく開かれたと思ったら、緊急事態宣言発令のためわずか1日の公開で閉じてしまった悲運の展覧会。会期は8月29日までたっぷりあるので、まさかこのまま終了にはならないと思うけど……。イサム・ノグチの作品は、これまで展覧会やニューヨークのノグチ美術館などで目にしてきたが、どこかユーモラスな彫刻もさることながら、照明デザインやモニュメントなども手がけていることもあって工芸的に見え、あまり興味が持てなかった。でも今回の展覧会はおもしろかった。どこがおもしろかったのかといえば、作品そのものではなくディスプレイだ。

地階の入り口を入ると壁がすべてとっぱらわれ、だだっ広い展示室に作品を点在させている。ほほう、そうきたか。中央には球形の「あかり」が100点以上ぶら下がり、その下を歩くこともできる。それを囲むように石や金属の抽象彫刻が一見ランダムに置かれている。1階、2階もほぼ同様の展示だ。制作年代もまちまちなので、彫刻の発展過程を学ぶとか、作品の意味を考えるみたいな教養趣味の押しつけがましさはなく、奇妙な形のオブジェの周囲を自由に巡り歩く楽しさがある。ちなみに1階では、隅にソファと「あかり」が置かれていたため、まるで家具のショールームのようにも見えてしまった。それはそれでイサム・ノグチの本質が現われているのかもしれない。

このように壁に沿って作品を展示するのではなく、床に点在させているため、キャプションの位置が難しい。キャプションを床に置けば見苦しいし、歩行の妨げにもなるので、ここでは当該作品に近い壁にキャプションを貼っている。でもそれだけではどの作品のキャプションかわかりづらいので、作品の略図まで載せているのだ。ただ相手は彫刻なので、略図はキャプションの位置から見た姿でなければならず、いうほど簡単なことではない。いろいろ工夫しているなあ、と感心する。

2021/04/23(金)(村田真)

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BankART Under 35 2021 井原宏蕗、山本愛子

会期:2021/04/23~2021/05/09

BankART KAIKO[神奈川県]

35歳以下の若手アーティストを支援する展覧会で、6月まで2カ月間にわたり計7人のアーティストを3回に分けて紹介していく。その第1回は、彫刻の井原宏蕗と染織の山本愛子の2人。

井原は動物の糞を使って彫刻を制作している。代表的なのは、犬や羊の糞を固めてその動物の全身像をつくった作品。排泄物によって、排泄した本体を再現しているわけだ。表面は漆でコーティングしてあるため、どれも黒くて無臭であり、いわれなければ糞だとわからない。糞が彫刻を構成する最小単位なので、点描絵画ならぬ点糞彫刻。そこでふと思うのは、人間像はつくらないのかということ。いや、つくらなくていいけど。絹布に蚕の糞(蚕沙と呼ぶらしい)で染めた新作は今回のためにつくったもの。会場のKAIKOはその名から察せられるとおり、輸出用の生糸を保管しておく帝蚕倉庫を改造したスペースだからだ。

山本は打って変わって草木染めの作品。テキスタイルを専攻した彼女は、中国やインドネシアなど東アジアを旅するうちに染織の素材や技法だけでなく、それがどんな土地で生まれ、どんな風土で培われてきたかに関心を抱くようになったという。今回は絹布に草木染めの作品を出品。藍から緑、黄、橙色までさまざまな色に染めた絹布をフリーハンドでつなぎ合わせ、大きな木枠に張っている。自然素材のため色彩もフォルムもテクスチャーも淡くて柔らかいが、絵画として見ればありふれた抽象でインパクトは弱い。しかし注目すべきは展示方法で、タブローと違って壁から離して裏面も見えるように展示しているのだ。いわば旗のようなリバーシブル作品。これは絵画にも応用できるかも。

黒褐色の糞の固まりとパステルカラーの草木染め。2人の作品は一見正反対を向いているように感じるが、どちらも自然素材。しかも糞にしろ漆にしろ絹にしろ染料にしろ、生物がつくり出す生成物や分泌物を素材にしている点で共通している(特に両者とも絹布を使っているのは、場所の記憶を呼び覚ます意図もあるようだ)。こうした「バイオメディア」による制作はポストコロナのひとつの流れかもしれない。

2021/04/23(金)(村田真)