artscapeレビュー
第44回 木村伊兵衛写真賞受賞作品展
岩根愛「KIPUKA」
2019年07月15日号
会期:2019/06/13~2019/06/19
ニコンプラザ大阪 THE GALLERY[大阪府]
写真集『KIPUKA』(青幻舎)で第44回木村伊兵衛写真賞を受賞した岩根愛の個展。ハワイの日系移民とそのルーツの福島県民、時間と故郷を離れて両者をつなぐ「盆踊り」を基軸に、日系移民の墓やポートレートなど厚みのある写真群が展示された。
2006年にハワイに行った岩根は、生い茂る熱帯の植物に埋もれた「移民墓地」を見たことをきっかけに、ハワイの日系文化に関心を持つようになったという。サトウキビ農業と砂糖産業に従事するため、戦前、多くの移民がハワイへ渡ったが、産業の衰退とともに廃れた居住区や墓地が残されている。一方、「相馬盆唄」がベースである「フクシマオンド」をはじめ、各地の盆唄と踊りは継承され、毎夏の盆祭りで「ボンダンス」として熱狂的に踊られている。墓地の場所、家族史、移民が当時使っていた撮影機材など、インタヴューやリサーチを重ねた岩根は、ハワイに通いながら12年間撮り続けた。
その写真作品は、時間的/空間的に幾重ものオーバーラップで構成される。空間的なオーバーラップを見せるのは、パノラマ撮影された、ハワイの移民墓地と震災後の福島の光景。溶岩流の流れた大地や砂丘に建つ墓碑は、斜めに傾げたり、頭だけがかろうじて見え、津波に飲み込まれた瞬間のまま凝固したように見える。あるいは、草が生い茂り、荒れ果てた墓地の光景は、帰宅困難区域内のそれを否応なく連想させる。
一方、時間的なオーバーラップは、撮影機材や演出の操作によってもたらされる。上記のパノラマ写真は、当時の移民が葬儀の参列や行事を記念する集合写真などの際に実際に使っていた、大型のパノラマカメラを用いている。回転台に載った箱型カメラが360度回転し、2mのフィルムに焼き付けて撮影する。過去に彼らを写した装置で現在を写す、すなわち過去の「目」を通して現在を見る。この撮影手法を用いて、ハワイの「ボンダンス」と福島の盆踊り、それぞれが「乱舞する無数の手のイメージ」として切り取られた。また、かつて日系移民が働いていたサトウキビ畑に、モノクロの家族写真を夜間に投影して撮影した写真では、現在と過去の二重写しのうちに、亡霊のようなイメージが浮かび上がる。かつて彼らが働いていた場所に今も生い茂るサトウキビは、彼らの皮膚や衣服を美しい模様のように染め、イメージの皮膜に実体的な濃淡を与えつつ、その葉の重なり合いは、輪郭や目鼻立ちといった固有性をかき消していくのだ。
地道なリサーチに基づき、当時の機材や古写真を用いつつ、フィクショナルな操作を加えてイメージとして具現化する。ここでは、イメージの「創造(捏造)」を通して、いかに(自分自身とは直接地続きではない)過去や他者の記憶に接近できるかが賭けられている。
ただ、上述の、ハワイの「ボンダンス」と福島の盆踊りを捉えた写真では、それぞれレンズにカラーフィルタを付けて撮影し、ハワイ=「赤」/福島=「青」という対照的な色に染め上げた演出に疑問が残った。ハワイの「ボンダンス」は、両手を合わせた形が祈りを思わせ、「赤」という色が彼らの奔出する熱気やエネルギーを強調する。一方、太鼓のバチを握った無数の手の蠢きとして切り取られた福島の盆踊りは、「青」に染められることで、「(震災の)死者を迎える、深い哀悼」という読み取りを誘う。両者のパノラマ写真は、背中合わせで吊られて展示された。
こうした「色分け」や対比性には分かりやすさの反面、ある種の暴力性を感じた。「移民」は、単純にカテゴライズされたアイデンティティからの逸脱や流動性をもつ存在だが、カラーリングによる「レッテル化」は、固定化の操作という点で暴力的であり、「こちら側/彼ら」を分断して見せてしまう。だが、どちらが「ハワイ」でどちらが「福島」なのか判別不可能なほどに、混在させて見せてもよかったのではないか。カラーリングや対比性の強調は、「私たち」と「彼ら」、「日本人」と「日系人」といった線引きの構造と密かに通底してしまう危険性を持っている。だが、歌や踊りとして身体化された記憶の継承や、故郷から(国家政策によって、あるいは災害によって)強制的に隔てられたという点では、両者は同質性を持ち、岩根の狙いもそこにあったはずだ。同質性の過度な強調、すなわち「同じ日本人の血やルーツだ」という本質主義に陥る危険性を回避しつつ、表象がどこまでも政治から逃れられないことを自覚的に引き受ける態度が要請されている。
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